「ひまなか(中野裕司)」の感じ、考えたこと・・・・・・・・・。                                  ML・FBなどの投稿を掲載します。

3月, 2016 のアーカイブ

里地・里山管理を公共事業に!

里地・里山の風景は日本の原風景。
生物多様性の保全、外来植物の駆逐などという正体不明なものに税金を投ずる事はナンセンス。
里地、里山の保全にこそ投資をすべき。
さすれば、自ずから生物多様性は保全される。
外来の弱い自然を相手にする翻案生態学こそ駆逐すべきもの。
わが国の自然・風土、暴力的ともいえる再生力を無視し、実態と乖離した説を唱えるため、様々な嘘がはいる。
極相、自然林、広葉樹信仰。
挙げ句の果てには、自然林の生えている山は崩れない。
人工林は駄目。
この、神話により、多くの人の命が失われた。
樵、林業を悪者扱いするために、林業労働者のなり手が居なくなった。
今流行りについて乗り遅れるなと、やっと、管理が必要、里山は大切と言い始め、微妙に方向修正をし始めたのがここ数十年(十数年?)。
しかし、過去の神話はそのまま生かしつつ、生物純血主義を説き、新たな神話を作り出した。
外来種を駆逐するために多様な主体を動員するとの行動計画・国民総動員。
外来種というテロとの戦いだ。
永遠の戦いとなってしまう。
もう、信仰の世界だ。
このようなものに税金を投ずるのは無駄だろう。
理念理想を唱えるのではなく、里地・里山の保全・管理と具体的に示し、行うべきだろう。
減反など、何もしない農家に助成を行い続けてきた。
ならば、里地・里山の管理こそ助成をすべきだろう。
国土 ・景観・水源・多様性などの保全、国土の自然という公共財の保全、いくらでも理由は見つかる。
観光立国などとも言っていた。
緑の税、環境税など目的税が流行ってきたが、目的税としての徴収が可能だし、環境のためと言えば反対は少ない。
里地・里山管理を、田舎、故郷の産業・公共事業とするならば、お金・物の循環が始まり、高齢化、過疎化の歯止め、観光を含めた人の循環にもなることだろう。
悪者を探し出し、悪者退治をし、生物純血主義を金科玉条としていてもつまらない。
心が暗くなるだけだ。
日本の国土、里地・里山に手を入れて、ピカピカにし、豊かな自然と風土を誇れる国とし、世界の憧れとなる国造りをしようと誰も言わないのが不思議だ。
これが、究極の生物多様性保全だろう。
日本の国土、里地・里山には、それだけの潜在的パワーがある。
誰が、それに、気づき、掘り出してくれるのか。
掘り出してくれるのを待っている。
そのためには、生態学神話からの解放、暴力的とも言える再生力を組み込んだ生態学の確立、縦割り行政を風通しの良いものにする事が必要だ。
TTPが始まるならば、日本の農家は壊滅的な状況に陥るだろう。
それでは、農家は絶滅し、食の自給、食の防衛ができなくなる。
食の防衛のためには、助成が必須となるだろう。
農林業の従事者は、食の防衛、里地・里山の防衛のための防人として位置付けることが必要だろう。

黒田さんのFBスレッドへの書き込みを転載。

母子密実一体の時こそが、母の勝負時

またまた、錦織さんのスレッドに長い書込。
ご免なさい。
記録として、若干手を入れてシェア。
脇から、シェフ兼社長の声が聞こえてくる。
また、「ひま」なことをやっている。
そんな時間があったら、さっさと仕事を片付けて、早く寝なさいと!
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母体の中にいるとき、胎児から、物心のつかない赤子のうちが、母の勝負時。
このときは、母子の密実一体の時。
母の身体の構造そのものが、そのようになっている。
進化の妙だ。
これにより、動物としての身体と脳の配線が完成し、野生の身体と脳と心が育まれる。
そのなかで、総合力としての野生の勘も身につく。
生命に対する信頼感、危険察知能力など様々。
これが、ある面、生きて行く上での「運」を造るのではないかと思っている。
身体を運び動かすための運動の土台、察知する感性の土台となるのだから、「運」と言っても良いのだろう。
わたしは、このような世界を無意識の世界と称している。
その上に、記憶による知恵が乗っかるのだ。
頭よりも、身体が先に反応して動き出すのだ。
頭は、後追いの屁理屈を付けて説明しているにすぎない。
母は、子供にとっての総て、宇宙・世界そのもの。
母なる宇宙との関係がしっかりと結ぶ事ができた後、安定が確保された後、次第に外界との結びが始まる。
母という存在をアンカーとして命綱を繰り出して、外界の探検を始めるのだ。
そして、母のアンカーとなるのが父たる存在だろう。
家をキチッと保てないと、安定した母にはなれない。
子供は、この無意識の中で培われた母との安定した信頼関係性を基にして、外界へ踏みだし、結びを行い、世界を拡大してゆく事ができる。
いつでも立ち戻ることのできる、安定した関係性が確保された後、外界へと向かうのだ。
母との関係性が、総ての関係性の基礎となるのだ。
この母子一体・密実の時を、じっと見守り、物理的にも守るのが父親の仕事。
大きく言うならば母の住まいする家を保つこと。
その中で、子は育ち、母も、父親も育って行く。
相互に影響し合い、大人(たいじん)へと育って行く。
栄養が満ち、がたいがでかくなり、盛がついたのが青年。
花・華の時期だ。
その栄養、エネルギーを子供へと結実させる。
そして、母・父・親となり、その経験を通して大樹・大人となり、経験を伝え、老い枯れ果てて死に行くのだ。
古木の風情を残して朽ち果てて行くのだ。
現代社会は、経済生長(成長ならば良いのだが大きくする生長)のみを視野に入れ、生命循環の諸相には目をつぶっている。
人・人間としての成長、人間学・心術を捨て去ってしまった。
死に至るまで、どこまで人という器を大きくできるかが生の目的であり、その為に如何に生ききるかが問題だったのが・・・。
子供は、次第に無意識の世界から外界へと目が開き、父なる存在、家族が立ち現れ、親戚、近所へと拡がってゆく。
そして、地域コミュニティーの子育てシステムが機能し始める。
社会の子、地域の自然環境の子となって行くのだ。
父の行為、社会の中に生きる人々の行為を見習い、大きくなって行くのだ。
社会・故郷との関係が子を育て上げるのだ。
そして、親・社会もまた、そのような関係性の中で共に育って行くのだ。
経験・文化の伝達という循環の力が働いているのだ。
昔は、それぞれの循環の中での発達段階に応じたやり方が伝えられてきたのだが、村社会、大家族、封建的として切り捨てられた。
このため、現在は細やかな発展段階に応じた育児は無視され、フラットな状態としてしまった。
そして、子供は自然に育つのだと教えられている。
自然の法則・流れ、循環は無視。
いつかは親になるのだという循環、死んで行くのだという、生・性の諸相は無視。
フラット化。
そこに立ち現れる他者との関係は、我良しの姿のみ。
循環から、はみ出さそうともがいている。
我良しのために、いくら頑張ったとしても、死んでしまえば流されてしまうのみ。
大きな時間の中では泡沫。
しかし、我良しに走り、なまじ知恵があるため、動物よりも悪くなった。
自然とは放置、なにもせず放り投げておけば良いものとの誤解を生みだした。
教育とマスコミの力だ。
一見、言葉としては楽ちん。
なにも努力する必要はないからだ。
これが社会の常識となったのだから、たまらない。
このため、女性は、なんの心得、準備もなく妊娠・出産・育児へと突入することとなる。
そして、母は無我夢中・五里霧中の育児。
母子の受難の時代としてしまった。
子供なんか欲しくない。
自分の時間を大切にしたい、となるのはあたり前の趨勢。
胎児・赤ちゃんを扱うための技術が失われたまま、総てが自己流なのだから。
地球上に、生命が生まれてから40億年。
産みが苦しみならば、地球上には生命は溢れていない。
命の道から、どこかでそれてしまった。
産むという行為のみならず、子育ても同様だ。
母子密実一体の時の大切さを意識せず、子ども達の自我意識ができた後にあれこれと干渉を始めてしまう。
無意識の反抗のしようのないときには、赤ちゃんは可愛いと猫かわいがりをし、甘やかし、親は、子供の召使い状体。
そして、意識=反抗心が芽生えた後、意識に働きかけて強制・矯正しようとする。
子ども達に取っては、おい止せよ!、だろう。
王様から、召使いへの転換が始まるのだから、逆らいたくもなる。
そのような力業を用いるのが育児になっている。
それでは、ちと無理だろう。
流れに逆らっての育児は、疲れるだろう。
何度も記すが、江戸末期から明治初めに訪日した欧米人が同様に記すのは、日本は子ども達の天国、元気に楽しそうに遊び回り、泣く子は見当たらない。
女性に取っても天国。
ある日、近所のうら若い乙女が、一斉に消えてしまう。
お伊勢参りに行ってしまう。
その姿の楽しげな事。
女性上位社会、性風俗も欧米とは子となっており、あっけらカランとしたもの。
処女崇拝などと言うものは、欧米文化が持ちこんだもの。
女性を商品として扱おうという精神があるため、傷物を嫌ったのだ。
このような文化に対する犯行がフェミニズムを醸成した。
日本では、純血は、武家・貴族などの男系社会のもの。
庶民の世界は、自由に溢れ天国だった。
それが、春画などに現れている。
話しが飛んだが、
母子密実一体、無意識の時代、三つ子の魂をキチッと仕込んだならば、その後は、次第にその関係を粗にして行く段階。
母の子離れの時期に入って行かなければならない。
母に取とっては、ここからが本当の産みの苦しみなのかもしれない。
転んでも直ぐには起こさない、手を出さない。
自分の力で起き上がるのを見守る。
手を出したいのを堪え、じっと我慢し、守り導く。
子供の将来を見据えた我慢力の涵養だ。
適度な躾、指導は必要だが、過度な手出しは無用な時期となる。
それが、肉体的にも心・精神的にも自立を促すのだ。
この子離れができないため、モンスターペアレントなどが生まれる。
子供達はおろか、先生など外界までもが自分の思い通りに動くものとの勘違い。
究極の甘え、わがまま構造だ。
この様な状態を見習ったのでは、子ども達は自立できないこととなる。
これは、数世代にわたる子育ての結果培われてしまったのだ。
今に始まったことではない、原因・遠因があるのだ。
真の子育ての結果が現れるのは、母から母へと子育て技術?が受け継がれ、磨き上げられてゆくのだから、数世代後のこととなる。
すなわち、現在の母、子ども達の良き面、悪き面は、敗戦後の教育の成果とみることができるのだ。
無意識の時期を大切にし、心・精神を育てるということに重きを置くよりも、意識がついてから、自己主張を始めた頃から、身体・肉体、及び大脳・知識に偏重した育児を行うという方向だ。
気にくわないものは排除し、我良しに流されるのは当たり前だろう。
心身の無意識の土台が完成した後、ここからが、「子供は自然に育つ」という時期となるのなだ。
しかし、逆のことを行っている。
内臓を含む自律神経という無意識、大脳の基礎となる(不随意運動を含む)筋肉などを動かす神経の配線など、無意識の世界を支えるベースがキチッと育ち、準備されることが、意識活動の土台となるのだ。
現代社会は、この無意識の世界に対し、余りにも無意識すぎる。
目に見える物だけ、数字・量で評価で切るものだけが重要と教えたためだろう。
数字、量で評価するという安直な方向で良しとしたことから、無意識を含む目に見えない世界、センスなどでしか評価できない世界こそが根っ子なのだということを忘れてしまった。
日本文化は、無意識の世界、察知する、感じ取ることが基本なのだが、そのような心を育てようとの配慮が感じられない。
子供の根っ子、土台となる部分さえしっかりと育てる事ができたならば、その後は、様々な物事にぶつかり、その中で試行錯誤、理解をし、深めて行く。
身体の動きもシャープになって行く。
次第に社会との関係性も学んで行く。
自ずから学ぶという体勢を取ることができるようになるのだ。
このような基礎、母と子供も達がいたからこそ、幕末から明治の鮮やかな転進が可能となったのだ。
意識が生まれてきた後は、家業としての習い事を始める時期となる。
見習い、見取り稽古から始める事となるが、そのとき、親父の存在がものを言うようになる。
社会、地域コミュニティーがものを言うようになる。
文化的な遺伝子の継承だ。
母は、より良く生きて行くための命と心と身体の伝承。
父は、社会は、文化の伝承。
母が土台、根っ子を造り、父・社会の伝授する文化・社会性が花開く。
しかし、その父も亦、母から産まれ出でしもの。
人は、母の生ける作品。
社会は、その綜合的な表現。
バイブルでは、生命の樹と智慧の樹の二本があると記しているが、生命の樹を軽んじ、智慧の樹だけを重んじてしまったのが現在。
母なる生命の樹、無意識の樹の伝統は、縄文の昔から日本に根付いてきた。
その伝統を掘り起こし、守り、伝える手行くことが大切なのだ。
だじゃれ的となるが、生命の樹と知恵の樹は、二本とも、日本にあるのだ。
子ども達は、母たる宇宙、内なる宇宙から、外界へ、外なる宇宙へと飛び立つのだ。
それによってこそ、真の自立した子、他者の傷みを感じ取れる心を持つ、思いやり深い社会の構築が可能となるのだ。
そのような子が増え、大人となるならば、世界は安定し、平和になるのだ。
母なるものの使命、それは、子ども達の野生をフルに磨き上げることだろう。
私たちは、地球の子。
生命史40億年の結果が現在だ。
生命史の教えるところは、野生の肉体と感性の土台の上に、文化は花開くということだ。
母なる存在、野生という生命の歴史、について見直し、考え直すときに来ているのだろう。

春の身体と女・母・家=子宮

いつもの悪い癖。
錦織さんのスレッドに長い書込。
いつものごとく、記録のためシェアし補強。
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角度を少し変えて、身体という面から・・・・・。
「最近、春だから~」という点について。
日が長くなるにつれ、身体も春になって来ます。
骨盤から開きはじめ、だんだん上に昇り、後頭部に至ります。
花(=性)開くのは、植物だけではありません。
その中で、春になり切れない身体を持つ人がいます。
悶え閊える部位に関連した症状が現れます。
身体だけではありません。
閊え悶えたエネルギーが頭・脳=精神にも影響します。
だんだん、桜が咲き始め花狂いの時期になって来ました。
更に温かくなると、皐月病と言うものもあります。
精神的な問題とされますが、身体のこわばり、エネルギーの鬱滞、循環・発散の悶えとも見ることができるのです。
すなわち、春になりきれない身体です。
年取ると、回春、春を取り戻す、という事があります。
春になれない身体というものは、老人・あの世に近づいた、という事でもあります。
近頃は、春になれない身体を持つ人が沢山。
世の中全体が、あの世化していると言っても良いのかもしれません。
物理の法則を転用するならば、身体・心の重い人は地の世界へ、軽い人は天の世界へ行くのでしょう。
身体・心が滞ってしまった場合は、身体を動かし、エネルギーを発散する事で閊え悶えが溶けだし流れ始める事となります。
私たちは、動物なのですから、しなやかに身体を動かす事ができるようにすることが基本です。
感情は、身体・内臓にくっついているのですから。
身体の循環が良くなれば、感情・精神の循環も良くなります。
悶えが取れます。
身体がこわばると、受け入れられるキャパが小さくなります。
感情も抑えきれなくなってしまいます。
・・・・・
制度的に言うならば・・・。
誤解を恐れずに言うならば、結婚するまでは女。
結婚した後は、母だろう。
その覚悟無しに結婚してはならないのだろう。
結婚とは、家を造り、生まれてくる子ども達を守り育てるための仕組み。
利口な女性達が、馬鹿な男を騙して作った仕組みだろう。
長い長い歴史、時間をかけて人という種が造りあげた、母体と子を守るための仕組みだろう。
子々孫々にわたり生命を伝えて行くための仕組みだろう。
この仕組みがあってこそ、地の上に人が溢れるほどに栄えた。
その男を騙し搦め取るための仕組みが、いつの間にか、自分たち女が騙され、家庭に縛り付けられているとしてしまっている。
家の主役は母。
家=内は、女=母の場所。
商家はご内儀だし、武家では大奥だ。
庶民の間では、床の間に鎮座する山の神だ。
家は、構造からしても子宮=子育ての場だろう。
男は、その入り口から出入りする金精様。
金精様は、祭り上げて元気にしておけば良い。
男を家に縛り付けて活用するために手練手管を磨くのが女の修行。
母として、自分・故郷を守る子を育てるための修行もある。
女・母としての自立だ。
それが日本の婦道だ。
いつの間にか、そのような女として積極的に生き抜くという考え方を放棄し、男性優位社会であることを認めてしまった。
女は虐げられてきたという嘘を教えられ、男女平等やジェンダーフリーを説きつつ、過去の自立の道を自らが潰してきた。
行き着く先が、雇用均等、男女共同参画、国民総活躍だ。
女の男性化は、男の中性化を招き、男も女も無い、労働力とだけ見なす社会の到来だ。
労働力が増すならば、当然のことながら給与の低下を招く。
給与の男女差を無くすと称しつつ、年功序列を無くす。
当然のことながら、子育を生むというハンディを持つ女が劣勢に回り、社会弱者となって行くことだろう。
国民総活躍とは、敗戦前の言葉を使うならば国民総動員だ。
経済戦争のために国民総動員体制を造るぞと言う宣言なのだが、なぜか皆、平気だ。
むちゃくちゃな本末転倒社会。
そのような社会を認めるということは、女が馬鹿になってしまった、という事だろう。
優れたDNAを持つ男を捕まえるために女を磨く。
そして子を作る。
後は、男は、おだて上げて働かせばよい。
家を守らせれば良い。
生活費を家に入れ、生活が安定してさえいれば、男はいない方が楽。
家をぶちこわさない程度に、問題を起こさない程度に、外で遊んでらっしゃい。
子育ての邪魔はしないでね。
胎教、育児、子育ての文化は女・母が築き、伝えてきた。
子供は神からの授かり物、神として仕え、育ててきた。
江戸末から明治初めに来た欧米外国人は、子ども達の天国、泣く子を見たことが無い、と異口同音に魂消ている。
また、男が家業を離れ、サラリーマンとなってしまった今、子ども達が、男が額に汗して働く姿を見ることができなくなってしまった。
会社で働き疲れた男が、家でゴロゴロしているようになってしまった。
男が元気な時は、出社よりも、給仕にゴルフなど遊びに行く時。
こんな男を見ていたら、子供がキチッと育つわけが無い。
このような社会では、男が家にいない方が良い子に育つ。
遠くにいる、帰ってこないお父ちゃんを、お父ちゃんはすごい人なのよ、とお母ちゃんが幻想を与えた方が良い子に育つ。
両親がいないと子供は育たないなどいう神話はなぜ生まれたのだろう。
その根っ子を探って見る必要があるだろう。