「ひまなか(中野裕司)」の感じ、考えたこと・・・・・・・・・。                                  ML・FBなどの投稿を掲載します。

「三つ子の魂」カテゴリーのアーカイブ

量の積み重ねが質(第六感)に変わる

2026.04.13

 「皮膚・筋肉・細胞・(五感)」をフルに使っての刺激の受容とその刺激の処理・経過の蓄積・量によって「ヒト」が「人」になる。量の積み重ねにより質(第六感)への変換がなされるようになる。
脳内のバーチャル空間がキチッと生成され、見えない世界まで察知できるようになるのだ。

これは、フィードバックによる神経回路の刈り込み、強化、運動能力の向上だから、一定量をこな(熟)す、経過させることによってのみ会得されるもの。
熟練。
筋肉は使うほどに強くなり、脳細胞も又使うほどに強化され、身体全体のバランス、繋がりが構成されて行く。
練って練って、発酵させるのだ。
これは進化の道程の再現なのだから、生き物としての一定の経過時間が必要であり、ショートカットしてはならないのだ。

その練り上げられた身心・脳を造り出すことによってのみ、次なる進化の道程へと踏み出すことができるのだ。
さもなければ進化の袋小路に入り込んでしまうことだろう。
出産・育児の手抜き、ショートカットの手段を手に入れてしまった今、その岐路に立ったといえるだろう。
その岐路の最先端に立っているのが我が国の今、だろう。

この量の熟しは、意識が明瞭となってからではつらいものがある。
三つ子の魂といわれる無意識の時期、六歳六ヶ月までの動物としての「ヒト」の安心・安全、絶対的に守られている時期に、くり返しくり返しの刺激に晒され、野生に生きることができる身心を如何に獲得するかが大きいのだ。
この時期の経過の仕方により深き、広き世界が身心、そし脳内に形成される。
あとはこの基礎の上に乗り、磨き込み、己という構築物を建設することとなる。

動物としての野生の身心の確保が「人」となるための基礎であり、その基礎の上に祖先が構築してきた文明・文化を受容する期間が成人(「人」と成る)となるまでの時期。
このように、進化の成果を会得し「人」となった後、己の世界を積み上げて行くのだ。

その過程を古人は「守破離」として示しており、大きく見るならば、成人、一人前に至るまでが「守」であり、その上に自己の工夫を積み重ね「破」、老成するに至っては「離」、己の世界を創り出し、後代に託すのです。
その積み重ねが文化であり、文明なのです。

子ども達が、野生の時期、文化・文明の受容の時期を進化の流れに沿って十全に行えるよう親、周辺は心を配ることが大切だが、人の行うことであるから過不足が生ずる。
長じては、内省・内観する目を育て、自己の成長の過程で過不足の部分を意識して補いつつ、縁により与えられた自己の進むべき道を見いだし、歩くことが大切となる。
この不足を補うことがその人の人生の大きな課題となるのだろう。
・・・
昨日の投稿にも、脳に汗をかかせなければならないと記しました。
身体を使い、感じ・動き、脳に染みこませ、そして時間をかけ熟す、熟成・熟練させたものでなければ、薄っぺらで役に立ちませんね。
張りぼて。
身体は、空だ。
時間をかけて中身を詰め込まなければならないのです。

現代社会は、時間をかけて中身を満たすことを怠ったが故に、空いた隙間を塞ごうとあがくか、満たない心に目をつむり無視し、不感症、お化けのように生きて行ことになるのです。
そのような心に目を背けるためのスマホ動画など、時間食い虫の数々。

自分が今世で経験を積むための時間を、スマホなどによって喰い潰されているということに気が付きません。
膨大なエネルギーを使い、人の時間を喰い潰すための仕掛け、罠にはまっています。
それでいて地球温暖化、CO2削減、カーボンゼロなどと叫ぶのですから、この世は妙ちくりん、矛盾に満ちあふれています。
しかし、矛盾などはお構いなし。
銭金・利を生み出すのが時間ということが資本主義という巨大ネズミ講の本質ですからね。

昨日の「AI活用に対する危惧」の投稿
https://www.facebook.com/himanaka/posts/pfbid02hKPddjyjycXAYehgwD93jzhg8e6w2wm2pQwxDYzdYijUNvmzzhB6woBTy7sVWiR7l

画像のリンク
https://www.facebook.com/naoko.harmonie/posts/pfbid01PhdYq7p6nXfsz374SxmVXz73Rs54ae1cf5j5jGMoBXXdHTDcNh9NuoHPZc2QwSHl

荒川さんの投稿の画像は中抜けです。 全文は下記へ
https://www.facebook.com/yukari.arakawa.10/posts/pfbid02CDz9MZD5aWwUR7otVdjwu3n7FutZ86Q6Fp8oHjUCPqDhoCWG2HUV8z9QwzZ1HnMPl

ことばを選択しよう-2 

ことばを選択しよう-2   FB 2025/05/09 プライバシー設定: 公開

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先に、古来から「和顔愛語」と教えられてきたが、脳科学・情報科学の発達によりその理由、メカニズムが明らかになってきた。

古人の経験の積み重ね、時間のフィルターを経て残されてきた伝統的な智慧や恐るべし。

と述べた。

これに対し、「言霊ですね」というコメントが寄せられた。

ご明察。

このコメントに対する長い返答を浮上させておこう。

・・・

さらに付言するならば、言葉・言霊などを発する身心の問題があるのです。

人は言葉を操るようになった。

初期の言葉、それは身体をフルに使いこなし、そこで感じ取った溢れ出る思い・感情を周辺の人に伝える、共感を得るためのものだったのでしょう。

身体をフルに使う、共に全力発揮の体勢の中での共感があったのです。

それは、音・音楽とともにあったでしょう。

言葉を用い共有した思いは集団を動かすものとなるので、言葉に発した、もの、こと、は現実化するという言霊信仰となったのだろう。

それは、共感という波動の籠もった身体にひっついた言葉=言霊。

身体を動かし、感じたこと、その共感により家族、一族、集団を一つにし、厳しい自然の中で生き抜いてきたのでしょう。

やがて言葉を自在に紡ぎ出せるようになると、言葉は身体から遊離するようになってしまった。

集団が大きくなるにつれ、言葉は情報の伝達、共有へと進化し、感情を抜きフラットとなっていったのです。

脳の紡ぎ出す言葉となり、言葉と身体のつながりを希薄化させて行ったのです。

言葉を記号として扱うようになり、死する言葉としてしまいました。

人は、便利なものを不便に使う名人と何度も記してきましたが、文明の利器のみならず、人は言葉を操り、文字とする段階で同様のことをしているのです。

それは、人を縛り、支配するという欲によって行われてしまうのです。

その死せる言葉は文字となり、法・契約など人を縛るための道具となり、一方では科学という体裁を作り出したのです。

そして、IT・AIなど人工言語によるバーチャル空間という魔法の世界を作り出し、現実の世界から遊離させ、今、飲み込まれようとしています。

身体にひっついた言葉が失われてしまったのです。

現在は、言葉を固定化した書物を読むことなく、漫画すら読むことを忘れ、Web上に流れる動画に沈溺し、話す言葉は乱れに乱しています。

身体使いは雑になり、腰抜け、腑抜けとなり、発する言葉の力を失ってしまいました。

便利なものを便利に使いこなすという方向ではなく、便利だと思う、思わされるものに依存し、自分の頭で考えるということすら放棄してしまう方向へと流されてしまいました。

今や、衰退の危機に存しているといっても良いでしょう。

もはや「言葉を選んで使おう」などという世界すら希薄化させてしまっています。

その場しのぎ、責任逃れのための空疎な言葉の氾濫。

そして、差別だヘイトだ、などという上から目線の一方的な制約を、繰り返し繰り返し加えられ、発する言葉すら制限され、自分の感情を表現することを押さえつけられています。

結果、頭で考えず、条件反射的に忖度、自己規制を行うことを良しとする世界としてしまったのです。

自分の気持ちがわからないでは、相手の気持ちも当然わからないこととなります。

となると、閉じ込めた鬱屈した思いが発露を求め、負の感情を伴って吹き出させ、相手を傷つけてしまうことになってしまいます。

それが、相手の気持ちを察することのできないいじめの横行、周辺はそのいじめにも気づかない、気づいても見て見ない振りをするという感受性の鈍り、すなわち、五感・身体の鈍りを常態化させることになってしまいました。

ストカーのあげく、殺してしまうという身勝手、究極の鈍り、そしてその兆しが見えていても周辺が動かないという社会の大きな鈍りを造り出してしまいました。

原始的な世界で集団を保つために行われたことは、相手を尊重するということです。

それによって自分も尊重される。

相手があって自分があるという相対的な関係性の中で暮らしていたのです。

集団内を円滑とするために言葉も行動も選び、慎んだのです。

それが躾、身体を美しく使いこなすということに繋がります。

食生態学を提唱した西丸震哉は、首狩り族の社会に飛び込みフィールド調査を行いました。

西丸は、首狩りと食人は異なり、自分が調査したのは食人種と称していますが~。

首狩り族の社会はさぞや獰猛だろうと思いきや、相手に不快感を抱かせたら殺されてもしょうがないというものであり、おだやかな世界だったそうです。

相手に不快な思いをさせないとの思いは、自ずと行動・言葉使いは洗練され穏やかになってゆくのです。

身体にひっついた言葉は、このようにして洗練され磨かれてきたのでしょう。

しかし、法・契約などという死せる言葉が人と人との関係の間に立ちはだかるようになり、肥大化させてしまったことにより、身体にひっついた言葉が劣化させ、乱暴、げれつとして行き、精神性も退行させていったように思われます。

文字に書かれたことは守っても、それ以外は守らなくても良いという曲解が横行し、世を覆ってしまいました。

フェイク、ペテンの常態化です。

相手を思いやる、共感するという、集団動物としての人間の本性が脅かされるという事態にまで行き着いてしまいました。

それが、コロナ禍により明確になってしまいました。

身体を動かし感じたことを、周辺の共感を得るために思わず発する原初の言葉、支えとなる言霊を失ってしまった結果です。

これではなりません。

他と繋がる、共感の世界へと立ち戻らなければなりません。

それは、私たちの心を支えている身体、五感というものの見直しであり、意識を支えている無意識の世界、集団無意識への回帰となるのでしょう。

失った支えを取り戻し、作り直すことが急務となりました。

身体・五感を磨き、無意識を豊かにすることができるのは、三つ子の魂以前の自意識の未完成な時期の過ごし方にあると思うのです。

なので「母性よ蘇れ、子供達の明るい未来を創るため」となるのです。

大きくなってしまったもの達は、身体を動かし五感で感じ取り無意識の世界へ沈着させるという幼子の行為を思い出し、自分に取って不足しているもの、ことを振り返り、その不足を補うための行動へと結びつけることが重要となったのです。

不足の部分に気がつけば変わって行くのです。

真の反省です。

このためには身心の健康を取り戻す、五感の感受性の回復から始めなければなりません。

頭デッカチになったがための首、上体の力を弛め、身体の重心(丹田)に自ずと力が集まり、お腹に深い呼吸が入るように身体を導くのです。

で、「日の下に出よ、身体を動かし汗をかき、深呼吸~循環・排泄を整えよう」となるのです。

問題が発生したときは、迂遠なようでも原点に立ち返っての見直しが大切です。

対症療法、部分最適、先延ばし社会からの脱却が喫緊の課題となっているのです。

きちっと立ち、温かく光耀く太陽を心の中にイメージし、「あまてらすおおみかみ」と唱えましょう。

無意識への刷り込みです。

先達はこれを、十言の神咒(かじり)と伝えてきました。

「あまてらすおおみかみ」の裏には「ありがとう・おかげさま」の十言があり、「たのしいな・うれしいな」の十言が潜んでいるのです。

その他、十言のなかに多くの明るい言葉が浮かび上がってくることでしょう。

https://www.facebook.com/himanaka/posts/pfbid0M5X8cSxDjSebbXhzQHMppWBgLKV3Saqz9L4ZY8b4VG7UXawxDLUZfaxFyzfKcNa5l

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・画像はいただきもの

選択理論えほん ワークショップ ファシリテーター養成講座

https://www.reservestock.jp/page/consecutive_events/23179

1人以上、、「しあわせ いいね ありがとう たのしいね たのしいね うれしいな うれしいな」というテキストの落書きのようです

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666,567と三つ子の魂について

カタカナ語を駆使し、むずかしいことを言わなくとも、祖先は「3つ子の魂まで」と称していたということをしっかりと理解すれば良いだろう。

妊娠・胎児の段階から、生理的早産・体外子宮状態の母子密実一体の時、乳児期、幼児期と家族・親族に囲まれ、やがて外界への興味いっぱいに動き回る、それぞれの段階で必要な体感を培う、経過させることにより、身心、身体を育てるとともに、身体・五感を通じて頭脳・心、豊かな潜在意識を育てていたという事実の理解だ。
カタカナ語を通して抽象的に語る必要はあるまい。
このころまでに腸内細菌叢の質が大人に近い状態になるのは偶然ではない。
3つ子の時までに、一人前となるための基礎がかたち造られるのだし、そのように育てるのだ。

3歳の頃にはその体感のうえに培った身心に、自我・顕在意識が目覚め、遊びという形で自然・外界(風土)との交流・刺激を求め、野生の身心を手に入れます。

そして、6歳6ヵ月6日に習い事はじめとなり、文化・文明(文武両道)を獲得し、継承するものへと歩みだすのです。
育つための経過すべき段階(ステージ)があるのです。

この段階・ステージを無視し始めさせられたのが男女平等という呪詛。
本来異なっているものを、丸めて同じとしてしまうのだから、不自然この上もない。

そして、今、567に対し666が象徴として浮上。
旧約・ヨハネの黙示録では獣とされるもの。
人を習い事、文化・文明の段階、自分の頭で考えるという段階の前に留めておくぞ、というサインに思われるのです。
(文明)人となる以前の存在とも解されるのです。

6⑥6とするならば、⑥は胎児・私。
私を取り巻く人たちが66です。
マスク、3密を避(裂)けよ人と人の間を分断し、過剰な消毒・清潔で共進化してきたばい菌たちとも分断され、免疫力、生きる力さえも奪われているのです。

この語呂合わせ的な数字を偶然と見るか否かは人それぞれ、感性の問題ですが、その裏に秘めたる意図を感じ取ることができる人は、受け手一方ではなく、準備・応戦の備えができることでしょう。

ちなみに、欧州と東洋・わが国は逆。
悪魔の使いのドラゴンは、神たる龍になるのです。
龍の吐く6⑥6は、567となり、369となるのです。

いつもの悪い癖。
Hさんのスレッドに長い書き込み。
書き込み責任と記録としてコピペ。