「ひまなか(中野裕司)」の感じ、考えたこと・・・・・・・・・。                                  ML・FBなどの投稿を掲載します。

「段階的成長」カテゴリーのアーカイブ

ピタリ泣き止む 赤ちゃんの寝かせ方について

R080502 · 

赤ちゃんが泣くのは、居心地が悪い、不快だから。不快を察知して、泣かせないようにすることが本筋。
ギャーギャーと泣き続けさせるのは、観察力不足。

-泣き止まないのは、居心地が悪い、不安がある、などの時ですね。
赤ちゃんは、泣きたくて泣いているわけではないのです。それを泣かせ続けるということは、赤ちゃんに対する観察力が足りない、鈍感ということです。

-鈍感なまま泣かせ続ける忍耐力があればまだよいのですが、鈍感と過敏は同居するので、うるさいと虐待に走ってしまう、育ち切っていない親が増えていることが困りもの。
子供が子供(赤ちゃん)を育てると、忍耐力・体力がないため、癇癪を起こし、互いが不幸になってしまいます。

-赤ちゃんは、一定量泣くと疲れ果てますから、当然泣き止みます。泣いても無駄だと悟ります。
それを躾だとしている文化もあります。
あるいは、よく泣く子は元気、肺が強くなるなどとし、泣き止むまで放っておくための屁理屈にしていますね。

-疲れ果て、あきらめて泣き止むことを続けると、なにごともあきらめた子への第一歩となり、引っ込み思案、受動的・依存的に育ってしまいます。
6~7歳までの野生の時期に十分身体を使うことで変わりますが、諦めが周辺に対する不信感に変わり、攻撃的になってしまいます。

-また、泣け叫ぶことは肺を鍛えることになるのかもしれないのですが、自分の感情を高ぶらせエスカレートさせ、泣き癖がつき、コントロール困難とし、不安感を強化してしまうことにつながってしまいます。
すなわち、外界との結びの始まりを不快、不信感としてしまい、猜疑心を強くしてしまいかねないのです。

-かねてから説く母子密実一体の時とは、この世に産まれ出た赤ちゃんの不安を取り除き、安心安全の心を持続させるためもの。擬似子宮と称していますが、出産後も子宮の中にいると同様の環境を維持し、次第に外界へとなれさせて行くのです。
いつでも逃げ帰る安全・安全の基地を造り出すことにより次第に外界への興味を募らせ、一歩一歩、歩み出してゆくのです。

-本来、呼吸器が発達するのは5歳から7歳、すなわち6歳6ヵ月の習い事始めあたりまで。呼吸器が発達することにより、持続力・忍耐力ができ、身心をキチッと使うことができるようになり、習い事ができる身体となるのです。
「息の長い」身体を造るのが野生の時期なのです。

-母性的な社会は、一般に未開とされていますが、赤ちゃんはあまり泣きません。
赤ちゃんと肌を合わせ、文字通りの母子密実一体が保たれるため、赤ちゃんの少しの変化にも気が付き、すぐに対応するからです。我が国は、このスタイルでした。

-幕末、明治初期に来日した欧米の人たちが一様に驚いたのは、赤ちゃん、子供たちの泣き叫ぶ声がなく、笑顔で遊んでいる姿だったのです。
このような社会・文化に西洋的なものを持込み壊しても良いのだろうかと悩む記述が残っています。

-しかし、我が国の西洋化により、このようなスタイルの育児が崩れ、ギャー泣きが当たり前となり、しかも野生の時期を十分に経過させることがなくなったので、依存の度合いを強くしてしまいました。
徹底的に可愛がるでもなく、かといって突き放し調教するわけでもなく、中途半端な子育ての結果です。

-徹底的に可愛がるといっても、大人になっても困らぬように「躾」はキチッとしたのです。
その躾を、古いと言って捨て去ってしまい、その代替とするものを造り出さなかった結果なのです。

-おとなしく大人の言うことを聞く良い子?だらけ、となったと思いきや、身心の発達が不十分のまま、頭デッカチの子としてしまいました。
覇気のない、身体をキチッと使いこなすことのできない子ども達です。
身体を使いこなせないものは、脳もキチッと動かすことができないのです。そして、図体はでかいが、中身は幼い、育ち来ていない大人を増やすことになりました。

-西洋的、父権的な世界は、子どもは動物、調教しなければならないという考え方なのですね。
夜は、夫婦の時間として、母親から離し、子ども達は別室で休ませます。これによって、独立心旺盛な個人主義の精神が造られて行くのです。

-どちらが良い、悪いではなく、子育てにも文化が大きく影響します。
明治以降の欧米化により、我が国の育児文化は捨て去られ、どちら付かずの中途半端な状態となり、身心の劣化を進めてしまいました。
この文化の差か、コロナ禍対応でも差が産まれた一因なのでしょう。

-なので、
これで良いのかおっかさん、母性よ甦れ。
子、孫達に明るい未来を残すため、と申しております。

・・・
ドライヤー、ホワイトノイズの音で泣き止むのは胎内で聞いた音に近いので、安心するからなのですね。
母親の心音、拍動、血流、お腹のガスの動く音などを胎児は聴いているのです。羊水を通して聞こえてくるこれらの音がドライヤーの音やホワイトノイズの音に近いのです。
左胸に赤ちゃんの耳が来るように抱っこするのも同じこと。母親の心音を感じると安心するためなのです。

-赤ちゃんを寝かしつけるには、スマホなどでトライヤーの音を聞かせず、耳元でシーッというおとを出し続けてあげると、泣き止み、寝てくれます(ピタリと泣き止む魔法のスイッチ・講談社)。

-孫を寝かしつけるのが私の係でしたが、孫の周囲にバリアを造るつもりで、単調な音を出しつつ抱っこして、八の字を描くように歩きましたよ。
次第に身体がゆるみ、ズッシリと重くなり、孫の身体と私の腕か一体となってくるんですね。

-寝た後ぐずり始めた時は、低くスローに「も~し、も~し、か~めよ、かめさんよ~」と歌ってあげると、泣き止み、直ぐに眠ってくれましたね。
面白いですよ。

-これは、「赤ちゃんがピタリ泣きやむ魔法のスイッチ(講談社)」をヒントにして編みだしたものです。

・・・プレゼント 長文をお読みいただき感謝。・・・

体内の音を聞くことは、赤ちゃんだけが落ち着くための方法ではないのですよ。
自分の心が落ち着かないとき、不安をいだいたときなど、静かに、軽く、目を閉じ、両耳を掌でやさしく覆ってみてください。
呼吸音とともに血流など身体の中の音が聞こえてくるでしょう。
掌のあたたかさも伝わってくるでしょう。
掌が冷たいときは、両手をさすり温かくし、両耳を塞いでみましょう。

-この体内から聞こえてくる音に耳を傾けて、無心になると身心が整ってきますよ。
赤ちゃんの時に戻るのです。鼻から息を吐き・吸いを、できるだけ長い時間をかれ系の呼吸をしつつ、その音に耳を澄まし、しばし瞑想をするのです。
身体をゆるめ、お腹に息が入るようになると良いですね。



https://www.facebook.com/reel/977057561955271?__tn__=-UK*F

https://www.facebook.com/naoko.harmonie/posts/pfbid0271NjUqq749su6igSTqkPa3FxK5FStxTdSDme1BNkwZZFai3E6BQWz8QL4bzfEDRJl?__tn__=-UK*F


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昭和の「普通」 、体罰動画・投稿に対して

R08.04.26  

なにやら近頃、昭和の「普通」、などとして昭和の教育が問題だらけだったとする投稿が目につくようになった気がする。
取り上げられるのは体罰だ。しかも、多くはカリュカライズして、大げさにしている。

-なぜ、昭和を蔑まなければならないのか?
先の戦争はひたすら我が国を悪ものに仕立ててきたが、それが昭和という時代へと拡大しようとしているのだろうか?
総括、反省は行わなければならないが、自虐的に走ることはなんの意味もなく、マイナスとなるだけである。
この動画、誰がどのような意図で創ったのだろう。
AIを使えば、極端な画像をたやすく造り、拡散できるからね。
新たな自虐史観が立ち現れて来たように思える。そのようなことも考えて見なければならないだろう。

-たしかに体罰はあったが、それによってトラウマになったというようなものはなかったとは言わないが、僅かだろう。昭和の「普通」と称するには余りにも侮蔑的。
成績の順番を張り出すということも、異常な例として示されているが、私は出来が良くない方だが、だからといって傷付くなどいうことはなかった。

-逆に、これらによって精神力が培われたし、成績などは置いといて、おかしいなと思うことは拒否する、興味を持ったものしかやらないという個性を潰されることはなかった。
好きなことをやらせてもらったことには感謝をしている。
投稿のような状態ならば、我々の年代はトラウマの塊となっていただろう。

-ウサギ跳び、連帯責任などの体罰も例として上げれていたし、別の投稿ではフリチンで立たせられるなどの記載もあるが、これもまた極端な取り扱い。不幸にして極端な先生がおり、極端なことがあったにしても、特殊な事例である。
それは、現在もまた同じだろう。

-否、子ども達、孫の幼稚園、学校の状態を、私が見聞きしたことを言わせてもらえば、先生は感情を抑え込むこと、モンスターペアレント対策、責任回避に走り、教育が狂育化している。体罰という目に見える罰から、ステルス化した罰、あるいは、子ども達の行動に対し関わりを薄くするという方向に向かっている。このような点では、むしろ学校、学習環境は昭和よりも悪化しているといえよう。

-その左証として、教師の中途退職、それも鬱など精神を乱し、壊しての逃避的退職が多い。
そして、教師のなり手がいないから、教師はドンドン劣化し、子ども達がその被害に晒されることとなる。
こんなことは昭和にはあり得なかった。

-男女協働参画、共働きでなければ家庭を維持できない時代であるからこそ、子ども達の教育、保育所・幼稚園、学校がすこぶる大切になってきている。
そのような問題こそ正面から向かわなければならないのだが、なぜかまともに取り上げられることはない。
教育全体の底上げを如何に行うか、ではなく、教師・学校の失体をことさら大きく取り上げ、条件反射的に責任回避行動をとるという悪しき方向へと走らせているようだ。

-子ども達の身体を観るが良い。皆、コチコチだ、身体を、手先をキチッと仕えない子が多い。
体罰だとか色々言うが、昭和・私達の時代は、皆、身体、手足を動かし、しなやかな身体を持っていた。それが昭和の活力の源線だろう。

-また、昭和と言っても64年もあり、一緒くたにしてはならない。
この動画は、敗戦後の教育を示しているようだから、昭和後期であり、私達の年代が生きた時期だ。それを昭和と一括りにしてはならない。
行政的な言葉を用いるならば、「戦後教育」であり、これをあえて「昭和」と拡大する物言いには悪意を感じる。
あるいは、戦前狂育のつもりだろうか?

-社会に出てからは、超々ブラックな働き方をさせられたが、目の前に現れたものをこなすのが精一杯で、他のことは考える余裕はなかった。しかし、これをこなす体力はあったし、それによって実力はついた。
これは昭和(後期)を生きたものの実感である。

-現代の目線・価値観で、過去の体罰的な問題をあげ連ねても意味は無い。
身体、心の柔らかなものは、これを跳ね返し生きてきた。それが、野生の力だろう。

-現代はむしろ、昭和の良い意味での活力を、いかに現代に甦らせられるか、いかに元気な子を育てるか、という工夫が重要だろう。
古くて新しいもの、科学的に裏付けされた教育法、トレーニングなどが生まれてきている。
しかし、伸び伸びと子ども達を伸ばすという方法を取り上げ実践している教師、トレーナー、師匠と称される方が僅かなことがむしろ気かがりである。

-どうも学校の教師は、教育者ではなく、国は、子ども達を管理するものとしての役割を強化されているようであり、それも書類で記録を残す、見せるための管理、責任回避のための管理が強化しているようだ。
まずは、このような制度を見直さなければならないだろう。

-いつも説くことだが、子ども達の教育については、学齢期にはいる前、習い事始めの時期以前に、キチッと野生の時期を経過させる事ができたかということが大きいだろう。
これは、心身の野生ということでもあるが、人間集団としての野生の心得を身に付けるということでもある。
それが「躾」だろう。

-児童の教育について、森信三先生は次のことを記している。
> 小学校入学前に躾ける。
> 学齢に達するということは、ものの道理が分かるということ。
> 裏返すと、我が強くなったということ。
> 親から言われたら反抗してしまう。
> 我の出ないうちに躾けなければならない。

-私の説くところと同じことを示しており、これが人間集団の中で学ぶ、学校で学ぶ前に、静かに長時間椅子に座り話しを聞くことのできる体力、気力、集団の中での和する力を培うということなのだろう。

-これもまた、極端に走ると軍国主義的な集団狂育となり、逆に悪しき自由に走ると統制の取れないものとなってしまう。昭和(後期)は、ある面軍国主義の残渣があり、現代は制限なしの自由により、いずれも極端に揺れ、子ども達を傷つけている。

-しかし、昭和の子は、元気に跳ね返し生きてきたのだが、現在のひ弱にしてしまう狂育では、今後予想される様々な環境の劣化・悪化のなかでは生き残ることが困難となるだろう。
いずれも極端は狂育と称する状態となってしまうので、バランスの取れた本来の、子ども達を元気にし、能力を目一杯に伸ばしてあげることのできる本来の教育へと回帰してほしいと願っている。

-そのためには、教師を管理要員ではなく、本来の教師として振る舞うことのできるよう、国民・親が、教育制度そのものに対して厳しい目を向けなければならないだろう。
私が狂育と揶揄する世界から、真の教育へと脱皮を願うのみである。

-真の教育・それは、昭和だ、現代だ、というものではなく、普遍的なものだろう。戦乱・混乱の時代は、そのような良きものが裏に隠されてしまう。明治、昭和、そして現在もまた、一見平和で安定している時代のように見えるが、精神的バックボーンは揺れまくり、不安定な状態が続いている。このことを意識し、普遍的な世界が現れるような教育が行われるよう願い、動き、働くのみ。皆が、普遍的な世界に気づくまで

https://www.facebook.com/naoko.harmonie/posts/pfbid0aZ1P5mzP3kuCavjL4EaMRwJhA4WX3DLPd9SEi7tQ4Q2f7byytrHiKHV7QSjZudBsl





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「幼稚園と小学校の接続」と「段階的成長」について

物質的な世界のみ、「量」に偏ってしまった結果、その内実である「質」という世界を見落とすようになってしまいました。
子ども達を育てるということは、「量」の問題よりも「質」を高めてゆくということが大切なのです。

家畜を太らせるということと同じ「量」の問題として捉えると、直線的に進んで行くと考える。
色の世界で言うならば、グラデーション・濃淡が次第に移り変わって行く世界。
坂道だが、勾配を緩くし、同じ線路を進めば目的地に達するというイメージだろう。
この発想により「幼稚園と小学校の接続」などということとなる。
しかし、これは現実、実際、現場を踏まえない頭で考えたことだろう。

このような直線的なもの、ことは自然界には存在しない。
自然は、多様性、凹凸という波があり、直線的には進むことができない。
この複雑な条件、環境にぶつかり、熟すという段階を踏む、経過させることで力がついて行くのだ。
物事をこなすためには、一定の時間の経過が必要なのだ。
やりこなすことでワンステップ階段を上ることができるのです。
ストレスを段階的に増やすことで力が付くのだ。

筋トレでは当たり前のことなのだが、頭デッカチの人々は直線的に成長するという負荷の少ないモデルを好むようだ。
何事にも一定の負荷をかけたトレーニングが必要だし、段階的に負荷を上げて行くことで力がついて行くのです。

子どもの自然の成長に対しても、物量的な発想、直線的な発想をあてはめてはならない。
体験・経験の積み重ねにより、脳神経の刈り込み、配線の強化が行われ、「量が質へと変化」する、「飛躍」するという段階がある。
意識的に行っていた動きが、量を熟すと無意識に行えるようになるという段階がある。

これを古人は、世代を経た観察と経験の積み重ねより、七五三と称したり、六歳六ヵ月の習い事始め、あるいは十三詣りなどとして示している。
その成長段階に即した段階的な育児の切りかえを示しているのだ。

そして、その段階となったということを自覚させるために通過儀礼としての行事を行ってきた。
それは、「自覚」であり、更には深い「覚悟」を定めさせるためのものなのです。
この通過儀礼により、子どもが「自覚」し「覚悟」するわけですが、それは同時に、親が「自覚・覚悟」し、子ども達と向き合わなければならないのです。

この切替がキチッとなされないと、ケジメを失った社会を造り出してしまうこととなるのです。

「量質転化」は大切なことなのですが、質を上げるべく工夫を重ねつつ、量を熟すという集中力、エネルギーの持続が必須となるのです。
小学校に上がる以前、就学前の幼児期は、野生の身心を育て、集中力と持続力を養う時期。
これによって身心が育った後、学習という集注・持続をともなった行為を行うことができるようになるのです。
それは、いつも言うところの「守破離」の世界。

「幼稚園と小学校の接続」などということを許すならば、脳のみが肥大し頭デッカチとしてしまった現代だから、小学校での勉強が楽になるようにと、保育所・幼稚園が小学校の予備校化させて行くことになるだろう。
それは、子ども達の身心の自然、健康奪い、殺すこととなるだろう。
現在、そのような弊害により子ども達の元気が失われてしまっているのに、更に拍車をかけるような愚行はしてはならない。

現代社会は、この集注、持続を嫌い、効率化と称するショートカットをさせてしまうため、最初は良いようでも、時間が経つにつれ真に身に付いていないことが露呈するという問題を発生させているのです。
効率化、ショートカットという「楽」、依存は、麻薬にも似たものであり、脳の回路に固定され、中毒となり、取り戻しのできない状態を造り出してしまうこととなるのです。

動物は、DNAに消費エネルギーを節約するように組込まれていますから、効率化、ショートカットによる「楽」を一端覚えてしまったならば、集注の持続などは苦行となってしまうのです。
なので、それぞれの成長段階をキチッと「経過」、身に付けさせ、次のステップへと進む「自覚・覚悟」の植え付けが大切になるのです。
その成長段階で身に付けるべきものをキチッと身体に、脳に染みこませるならば、次の段階を楽々と熟すことができるようになるのです。

明治以降、無批判に西洋式が良いものとして受け入れ、敗戦後は古いものはすべて悪として捨て去ってきました。
しかし、悪しきものとして良きものも一緒くたにして捨てしてしまったのです。
ここに、現代社会の混迷のもとがあるわけです。
日本古来の経験の積み重ねにより造りあげられた伝統的な取組を、その内実が失われないうちに、現代的に取り戻すことが喫緊の課題となっているのです。
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いつもの悪い癖、加藤さんのスレッドに書込。
書込責任と記録としてシェア、コピペ。
https://www.facebook.com/kato.417/posts/pfbid0wZnaXVWujrBwnCeZvXBw5r8bNkBjPvEBcXs9pQqPiwMRQx2n6TTgV2zN5Fmvqq7kl

・元投稿
https://www.facebook.com/himanaka/posts/pfbid0S9hvMR3gkTTsyQm9ScF4cdnvVH1ATpTx4mmbFDofYqCGZonzUg6JRv1mctc3CBAQl

量の積み重ねが質(第六感)に変わる

2026.04.13

 「皮膚・筋肉・細胞・(五感)」をフルに使っての刺激の受容とその刺激の処理・経過の蓄積・量によって「ヒト」が「人」になる。量の積み重ねにより質(第六感)への変換がなされるようになる。
脳内のバーチャル空間がキチッと生成され、見えない世界まで察知できるようになるのだ。

これは、フィードバックによる神経回路の刈り込み、強化、運動能力の向上だから、一定量をこな(熟)す、経過させることによってのみ会得されるもの。
熟練。
筋肉は使うほどに強くなり、脳細胞も又使うほどに強化され、身体全体のバランス、繋がりが構成されて行く。
練って練って、発酵させるのだ。
これは進化の道程の再現なのだから、生き物としての一定の経過時間が必要であり、ショートカットしてはならないのだ。

その練り上げられた身心・脳を造り出すことによってのみ、次なる進化の道程へと踏み出すことができるのだ。
さもなければ進化の袋小路に入り込んでしまうことだろう。
出産・育児の手抜き、ショートカットの手段を手に入れてしまった今、その岐路に立ったといえるだろう。
その岐路の最先端に立っているのが我が国の今、だろう。

この量の熟しは、意識が明瞭となってからではつらいものがある。
三つ子の魂といわれる無意識の時期、六歳六ヶ月までの動物としての「ヒト」の安心・安全、絶対的に守られている時期に、くり返しくり返しの刺激に晒され、野生に生きることができる身心を如何に獲得するかが大きいのだ。
この時期の経過の仕方により深き、広き世界が身心、そし脳内に形成される。
あとはこの基礎の上に乗り、磨き込み、己という構築物を建設することとなる。

動物としての野生の身心の確保が「人」となるための基礎であり、その基礎の上に祖先が構築してきた文明・文化を受容する期間が成人(「人」と成る)となるまでの時期。
このように、進化の成果を会得し「人」となった後、己の世界を積み上げて行くのだ。

その過程を古人は「守破離」として示しており、大きく見るならば、成人、一人前に至るまでが「守」であり、その上に自己の工夫を積み重ね「破」、老成するに至っては「離」、己の世界を創り出し、後代に託すのです。
その積み重ねが文化であり、文明なのです。

子ども達が、野生の時期、文化・文明の受容の時期を進化の流れに沿って十全に行えるよう親、周辺は心を配ることが大切だが、人の行うことであるから過不足が生ずる。
長じては、内省・内観する目を育て、自己の成長の過程で過不足の部分を意識して補いつつ、縁により与えられた自己の進むべき道を見いだし、歩くことが大切となる。
この不足を補うことがその人の人生の大きな課題となるのだろう。
・・・
昨日の投稿にも、脳に汗をかかせなければならないと記しました。
身体を使い、感じ・動き、脳に染みこませ、そして時間をかけ熟す、熟成・熟練させたものでなければ、薄っぺらで役に立ちませんね。
張りぼて。
身体は、空だ。
時間をかけて中身を詰め込まなければならないのです。

現代社会は、時間をかけて中身を満たすことを怠ったが故に、空いた隙間を塞ごうとあがくか、満たない心に目をつむり無視し、不感症、お化けのように生きて行ことになるのです。
そのような心に目を背けるためのスマホ動画など、時間食い虫の数々。

自分が今世で経験を積むための時間を、スマホなどによって喰い潰されているということに気が付きません。
膨大なエネルギーを使い、人の時間を喰い潰すための仕掛け、罠にはまっています。
それでいて地球温暖化、CO2削減、カーボンゼロなどと叫ぶのですから、この世は妙ちくりん、矛盾に満ちあふれています。
しかし、矛盾などはお構いなし。
銭金・利を生み出すのが時間ということが資本主義という巨大ネズミ講の本質ですからね。

昨日の「AI活用に対する危惧」の投稿
https://www.facebook.com/himanaka/posts/pfbid02hKPddjyjycXAYehgwD93jzhg8e6w2wm2pQwxDYzdYijUNvmzzhB6woBTy7sVWiR7l

画像のリンク
https://www.facebook.com/naoko.harmonie/posts/pfbid01PhdYq7p6nXfsz374SxmVXz73Rs54ae1cf5j5jGMoBXXdHTDcNh9NuoHPZc2QwSHl

荒川さんの投稿の画像は中抜けです。 全文は下記へ
https://www.facebook.com/yukari.arakawa.10/posts/pfbid02CDz9MZD5aWwUR7otVdjwu3n7FutZ86Q6Fp8oHjUCPqDhoCWG2HUV8z9QwzZ1HnMPl