「ひまなか(中野裕司)」の感じ、考えたこと・・・・・・・・・。                                  ML・FBなどの投稿を掲載します。

「母性」カテゴリーのアーカイブ

「幼稚園と小学校の接続」と「段階的成長」について

物質的な世界のみ、「量」に偏ってしまった結果、その内実である「質」という世界を見落とすようになってしまいました。
子ども達を育てるということは、「量」の問題よりも「質」を高めてゆくということが大切なのです。

家畜を太らせるということと同じ「量」の問題として捉えると、直線的に進んで行くと考える。
色の世界で言うならば、グラデーション・濃淡が次第に移り変わって行く世界。
坂道だが、勾配を緩くし、同じ線路を進めば目的地に達するというイメージだろう。
この発想により「幼稚園と小学校の接続」などということとなる。
しかし、これは現実、実際、現場を踏まえない頭で考えたことだろう。

このような直線的なもの、ことは自然界には存在しない。
自然は、多様性、凹凸という波があり、直線的には進むことができない。
この複雑な条件、環境にぶつかり、熟すという段階を踏む、経過させることで力がついて行くのだ。
物事をこなすためには、一定の時間の経過が必要なのだ。
やりこなすことでワンステップ階段を上ることができるのです。
ストレスを段階的に増やすことで力が付くのだ。

筋トレでは当たり前のことなのだが、頭デッカチの人々は直線的に成長するという負荷の少ないモデルを好むようだ。
何事にも一定の負荷をかけたトレーニングが必要だし、段階的に負荷を上げて行くことで力がついて行くのです。

子どもの自然の成長に対しても、物量的な発想、直線的な発想をあてはめてはならない。
体験・経験の積み重ねにより、脳神経の刈り込み、配線の強化が行われ、「量が質へと変化」する、「飛躍」するという段階がある。
意識的に行っていた動きが、量を熟すと無意識に行えるようになるという段階がある。

これを古人は、世代を経た観察と経験の積み重ねより、七五三と称したり、六歳六ヵ月の習い事始め、あるいは十三詣りなどとして示している。
その成長段階に即した段階的な育児の切りかえを示しているのだ。

そして、その段階となったということを自覚させるために通過儀礼としての行事を行ってきた。
それは、「自覚」であり、更には深い「覚悟」を定めさせるためのものなのです。
この通過儀礼により、子どもが「自覚」し「覚悟」するわけですが、それは同時に、親が「自覚・覚悟」し、子ども達と向き合わなければならないのです。

この切替がキチッとなされないと、ケジメを失った社会を造り出してしまうこととなるのです。

「量質転化」は大切なことなのですが、質を上げるべく工夫を重ねつつ、量を熟すという集中力、エネルギーの持続が必須となるのです。
小学校に上がる以前、就学前の幼児期は、野生の身心を育て、集中力と持続力を養う時期。
これによって身心が育った後、学習という集注・持続をともなった行為を行うことができるようになるのです。
それは、いつも言うところの「守破離」の世界。

「幼稚園と小学校の接続」などということを許すならば、脳のみが肥大し頭デッカチとしてしまった現代だから、小学校での勉強が楽になるようにと、保育所・幼稚園が小学校の予備校化させて行くことになるだろう。
それは、子ども達の身心の自然、健康奪い、殺すこととなるだろう。
現在、そのような弊害により子ども達の元気が失われてしまっているのに、更に拍車をかけるような愚行はしてはならない。

現代社会は、この集注、持続を嫌い、効率化と称するショートカットをさせてしまうため、最初は良いようでも、時間が経つにつれ真に身に付いていないことが露呈するという問題を発生させているのです。
効率化、ショートカットという「楽」、依存は、麻薬にも似たものであり、脳の回路に固定され、中毒となり、取り戻しのできない状態を造り出してしまうこととなるのです。

動物は、DNAに消費エネルギーを節約するように組込まれていますから、効率化、ショートカットによる「楽」を一端覚えてしまったならば、集注の持続などは苦行となってしまうのです。
なので、それぞれの成長段階をキチッと「経過」、身に付けさせ、次のステップへと進む「自覚・覚悟」の植え付けが大切になるのです。
その成長段階で身に付けるべきものをキチッと身体に、脳に染みこませるならば、次の段階を楽々と熟すことができるようになるのです。

明治以降、無批判に西洋式が良いものとして受け入れ、敗戦後は古いものはすべて悪として捨て去ってきました。
しかし、悪しきものとして良きものも一緒くたにして捨てしてしまったのです。
ここに、現代社会の混迷のもとがあるわけです。
日本古来の経験の積み重ねにより造りあげられた伝統的な取組を、その内実が失われないうちに、現代的に取り戻すことが喫緊の課題となっているのです。
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いつもの悪い癖、加藤さんのスレッドに書込。
書込責任と記録としてシェア、コピペ。
https://www.facebook.com/kato.417/posts/pfbid0wZnaXVWujrBwnCeZvXBw5r8bNkBjPvEBcXs9pQqPiwMRQx2n6TTgV2zN5Fmvqq7kl

・元投稿
https://www.facebook.com/himanaka/posts/pfbid0S9hvMR3gkTTsyQm9ScF4cdnvVH1ATpTx4mmbFDofYqCGZonzUg6JRv1mctc3CBAQl

量の積み重ねが質(第六感)に変わる

2026.04.13

 「皮膚・筋肉・細胞・(五感)」をフルに使っての刺激の受容とその刺激の処理・経過の蓄積・量によって「ヒト」が「人」になる。量の積み重ねにより質(第六感)への変換がなされるようになる。
脳内のバーチャル空間がキチッと生成され、見えない世界まで察知できるようになるのだ。

これは、フィードバックによる神経回路の刈り込み、強化、運動能力の向上だから、一定量をこな(熟)す、経過させることによってのみ会得されるもの。
熟練。
筋肉は使うほどに強くなり、脳細胞も又使うほどに強化され、身体全体のバランス、繋がりが構成されて行く。
練って練って、発酵させるのだ。
これは進化の道程の再現なのだから、生き物としての一定の経過時間が必要であり、ショートカットしてはならないのだ。

その練り上げられた身心・脳を造り出すことによってのみ、次なる進化の道程へと踏み出すことができるのだ。
さもなければ進化の袋小路に入り込んでしまうことだろう。
出産・育児の手抜き、ショートカットの手段を手に入れてしまった今、その岐路に立ったといえるだろう。
その岐路の最先端に立っているのが我が国の今、だろう。

この量の熟しは、意識が明瞭となってからではつらいものがある。
三つ子の魂といわれる無意識の時期、六歳六ヶ月までの動物としての「ヒト」の安心・安全、絶対的に守られている時期に、くり返しくり返しの刺激に晒され、野生に生きることができる身心を如何に獲得するかが大きいのだ。
この時期の経過の仕方により深き、広き世界が身心、そし脳内に形成される。
あとはこの基礎の上に乗り、磨き込み、己という構築物を建設することとなる。

動物としての野生の身心の確保が「人」となるための基礎であり、その基礎の上に祖先が構築してきた文明・文化を受容する期間が成人(「人」と成る)となるまでの時期。
このように、進化の成果を会得し「人」となった後、己の世界を積み上げて行くのだ。

その過程を古人は「守破離」として示しており、大きく見るならば、成人、一人前に至るまでが「守」であり、その上に自己の工夫を積み重ね「破」、老成するに至っては「離」、己の世界を創り出し、後代に託すのです。
その積み重ねが文化であり、文明なのです。

子ども達が、野生の時期、文化・文明の受容の時期を進化の流れに沿って十全に行えるよう親、周辺は心を配ることが大切だが、人の行うことであるから過不足が生ずる。
長じては、内省・内観する目を育て、自己の成長の過程で過不足の部分を意識して補いつつ、縁により与えられた自己の進むべき道を見いだし、歩くことが大切となる。
この不足を補うことがその人の人生の大きな課題となるのだろう。
・・・
昨日の投稿にも、脳に汗をかかせなければならないと記しました。
身体を使い、感じ・動き、脳に染みこませ、そして時間をかけ熟す、熟成・熟練させたものでなければ、薄っぺらで役に立ちませんね。
張りぼて。
身体は、空だ。
時間をかけて中身を詰め込まなければならないのです。

現代社会は、時間をかけて中身を満たすことを怠ったが故に、空いた隙間を塞ごうとあがくか、満たない心に目をつむり無視し、不感症、お化けのように生きて行ことになるのです。
そのような心に目を背けるためのスマホ動画など、時間食い虫の数々。

自分が今世で経験を積むための時間を、スマホなどによって喰い潰されているということに気が付きません。
膨大なエネルギーを使い、人の時間を喰い潰すための仕掛け、罠にはまっています。
それでいて地球温暖化、CO2削減、カーボンゼロなどと叫ぶのですから、この世は妙ちくりん、矛盾に満ちあふれています。
しかし、矛盾などはお構いなし。
銭金・利を生み出すのが時間ということが資本主義という巨大ネズミ講の本質ですからね。

昨日の「AI活用に対する危惧」の投稿
https://www.facebook.com/himanaka/posts/pfbid02hKPddjyjycXAYehgwD93jzhg8e6w2wm2pQwxDYzdYijUNvmzzhB6woBTy7sVWiR7l

画像のリンク
https://www.facebook.com/naoko.harmonie/posts/pfbid01PhdYq7p6nXfsz374SxmVXz73Rs54ae1cf5j5jGMoBXXdHTDcNh9NuoHPZc2QwSHl

荒川さんの投稿の画像は中抜けです。 全文は下記へ
https://www.facebook.com/yukari.arakawa.10/posts/pfbid02CDz9MZD5aWwUR7otVdjwu3n7FutZ86Q6Fp8oHjUCPqDhoCWG2HUV8z9QwzZ1HnMPl

「ヒト」と「人」-3        彼我の育児の違い

2026.04.04

西洋も我が国も、7歳以降を「人」とし、それ以前の野生の時期「ヒト」とは大きく区別をしていましたね-3
 彼我の文化の違いと母性の甦りについて。(文化論をヘイトとし削除してしまうメタのAI言論統制には反対します。
狂禍書的なフラットな世界観としてしまい、知の後退・愚民化を招いてしまいます。
もっとも、それがねらい? なんて投稿するとまたまたBANされてしまうかな。)
・・・
加藤さんより寄せられた次のコメントに返答。
> 江戸時代は、子どもたちが大切にされ愛情を注がれていたが、西洋では、子どもたちを厳しくしつけなければ悪くなる存在とされていたことと聞きます。
江戸期の教育は、シュタイナー教育とにていると思っています。
> また、日本人の多くは、やってはいけない行為は自明のことであったように思いますが、他国ではそうではないようで、この違いは何が影響しているのかといつも疑問に思っています。
> コメントいただいた歴史を拝見しますと、なんとも自己中心的な考え方であるように思います。
> 人間性の違いは、教育の違いなのか、環境によるものなのか、考えてしまいます。

・・・
次のリンクをご覧ください。
・江戸時代の子育てはどんな感じだったのか?
https://www.youtube.com/watch?v=nr-r2u43jeQ
・【貴族の日常】ヴェルサイユ宮殿、17世紀フランス貴族の子育てとは?
https://www.youtube.com/watch?v=tgF5EMx9YaA
庶民と貴族の子育てではキチッとした比較にはなりませんが、文化とは概ね上流階級の造ったものが下々に流れて行くもの。おって知るべし。

-彼我の子育てに対する違いは、個人がベースと、家という共同体の持続を基礎に置いている世界観の違いが大きいと思います。
それは、国土・風土、環境の違い、食・身体使いの問題でもあります。

-我が国の、高温多雨で食が豊かな環境では、厳しく自他を区分けしなければならない条件は存在しません。
食は分け合えば良いのですから、本質的に争いとは無縁です。
また、山岳丘陵、泥濘な土地柄で、採集・農により食を得る生活では身体の使い方は地に倣い、腹(丹田)を中心とする動き、足で地べたをキチッと踏む動きとなります。

-土地に根ざした地域共同体の成立となり、いのちを大切にし、子を大切に育てる文化となるわけです。
いのちを大切にする、自然に順応的な母系社会が形成されます。
突出したリーダーの必要はなく、合議、談合による差別の薄い世界が形成されて行きます。
共同体の中では和を乱してはならないわけで、子も穏やかに育つこととなります。

-一方、個人がベースであっても、西洋社会には、キリスト教という基礎があるので、個人は基教の教義・倫理によって縛られています。
この基教の縛りから逃れようということが、自由、平等となるので、自由=自由奔放・わがまま、平等=フラットとはなりません。一定の歯止めがある訳です。
従って、宗教・文化的な背景を無視した自由・平等の押しつけは、ナンセンスであり、暴力的といえるのです。

-個と力がベースとなるのは、寒冷や乾燥という気候の影響が大きく、食の確保が困難という環境の中で、生きのびるための選択だったのでしょう。
生きのびるためには、個のパフォーマンスを上げなければならず、弱い他から奪うことも厭ってはいられないのです。力がなければ生きのびることができません。
そして、群れを統率する強いリーダーが必要となります。

-寒冷・乾燥地では、狩猟・牧畜ににより、獣のいのちを奪うことで食を得ることとなります。
大陸の大平原・半砂漠という環境のなかで、強い集団を結束させるためには、天を神とする父権的な上意下達の社会を造り出すこととなります。
狩猟・牧畜の場合は、走り、あるいは騎馬で獣を追い回すという動きとなるので、意識は上、天に向かい、身体使いも又上部の胸に焦点を置いた動きとなるのです。
心臓、ハートといっても良いでしょう。熱量を高くして生きて行くのです。
そのような世界の子どもは、獣として扱われ、調教されることとなります。

-このように気候風土、環境の違いによる食を巡る身体使い、文化の違いが発生し、それによって育児文化も大きく異なったものとなったといえましょう。
それは、それぞれの気候風土、生活環境の中で長時間をかけて育まれてきたことなのです。
善し悪しを超越していることなのです。(このような文化論的な指摘をヘイトとしてしまう、新たなAI専政文化にはくり返し反対を表明しておきます。)

-しかし今日、気候風土を無視し、西洋的なスタイルをスタンダートとする文化侵略、押し付けにより大きな問題が引き起こされているのです。
文化侵略の主体は、以前は基教という宗教でしたが、今日では宗教の背後に隠れていた経済が表に出、グローバル金融勢力、軍産医療複合体、DSなどと称される者達となっているわけです。

-我が国にとって大きな問題となるのは、文化侵略がステルス革命という形で進められ、狂育という洗脳を通じて伝統文化を捨てさせられ、切り離されたことなのです。
これによって、歴史から切り離された根無し草となってしまったことなのです。

-我が国は明治期に、上から「強制的」に「個人主義」へと切り替えを進め、敗戦により、ふたたび上から「強制的」に「自由」が与えられました。
そして、日本的な身体使いを軍隊狂育によって矯正され、西洋式の動きがたたき込まれました。
精神は洗脳され、身体は調教されたのです。-もともと感受性に優れ身体能力の高い民族だったので、スポーツ分野では、明治から160年を経た今日、欧米以上の身体能力、精神力を発揮する若者が増え、追いついたといえましよう。
これは目出度いことなのですが、おしなべて精神・身体的な分離による中途半端からは多くが抜け出すことができず、低迷している状態といえます。

-外国から入ってたきた文化を伝統文化が吸収し、自家良薬のものしてきたのが日本文化です。
日本的仏教・仏神融合、儒教の良いとこ取り、戦国時代に入ってきた西洋文化を融合させた江戸文化など。遡れば弥生式文化も同様だったのでしょう。
融合し、新たな文化にまで高めるためには数百年の年月が必要でした。
その中で、日本的身体使いに目覚めたスペーツ・身体文化は融合がなされ、いち早く抜きん出てきたと言えます。

-しかし、今回は上から強制的に伝統文化を捨てさせるという精神的、肉体的外科手術といえるもので切りかえられてしまったので、そこから抜けだすのは大変です。
良きも悪しきもひっくるめて、西洋式が良いこと、伝統文化、伝統的な身体使いは悪しきものという観念を狂育を通じて意識の中に埋めこまれ、日本人は精神分裂状態となってしまったのです。
急速、急激な社会変動のなかでの空白な心、アノミーの状態となり、古くからの価値観を捨て去って、西洋式が良いことと上書きされたのです。
なので、まずは、この洗脳からの脱却が急務となるのです。

-旧石器・縄文から培ってきた古き文化、伝統文化を捨て、自分たちの経験の積み重ねの結果、自得したものではない洋式文化、洋式動作を強制されたのです。
これによって中途半端な個人主義(わがまま)、自由主義(なんでもあり)となってしまいました。
肚から動く動作文化は否定され、狂育による頭デッカチとなり、腰抜け、腑抜けの状態となり、地に足を踏みしめた生活ができなくなってしまったのです。
中途半端となってしまったので、なんともみっともない歩き方、所作が目立つようになってしまいました。
それは、精神・脳の活動にも現れています。
ここに現在の混迷の原因があると感じています。

-明治期は基教に変わる天皇一神教があったわけですが、敗戦により、その規範を失い、敗戦後は田舎にかろうじて残っていた地域共同体までつぶしてしまったので、根無し草となってしまったと感じています。

-真に日本的なものを知り、取り返すためには、薩長下級武士テロリスト革命、敗戦革命、経済戦争革命の総括が重要となるのです。
しかし、我が国は、この総括を行うことができません。
で、これを許さない勢力の支配下にある植民地だと申しております。
明治から160年あまり、すっかりソフト植民地政策によって骨抜きにされ長きに巻かれろとばかりの忖度奴隷根性に堕してしまったのです。
まずは、このことに気づき、その軛から解き放たれることが大切なのです。
公共への大きな依存を離れ、自立自存、自律自尊、独立独歩の人となる覚悟が重要となるのです。

-西洋的個人主義による世界は、もう限界が見えていますから、現代的な地域共同体の再構築が必要となっているのだと思うのです。
公共への依存を離れ、自立自存、自律自尊、独立独歩の人として身心を確立しつつ、江戸期の共同体の良き部分を現代的に甦らせるのです。
それは、明治革命、敗戦革命、そして経済戦争革命により、逐次劣化・つぶされていった母性、いのちの継続を中心に置いたものとなると感じているのです。

-科学技術が発達し、食を世界に行き渡らせることができる世界となったのですから、西洋式の弱肉強食、父権的・個の文化から、日本式の母権的な和の文化へと切りかえて行かなければ、世界は潰れてしまいかねません。
日本、そして母性の甦りが、世界を救うのです。

-で、いつものこれで良いのかおっかさん、母性よ甦れ。子、孫達に明るい未来を残すため。

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・その3 彼我の育児の違いhttps://www.facebook.com/himanaka/posts/pfbid09gmhNM5wjBbs66bd49gHJTRGPo8hCNuoFGfvqP795spQYxJ2JKRiPNEbNGUpHD8Ql
・その2 西洋と東洋の歴史的関係https://www.facebook.com/himanaka/posts/pfbid034BKowWej9YVRG63gbqpSSaAymBMD99JtUZrBWeY9tgMYbxPw4YvgUkfCoUSQveh3l
・その1 発達段階に応じた子育て 七五三などhttps://www.facebook.com/himanaka/posts/pfbid0uU7u7xWN6yRiZv5xhcx14Yqpv1TEBjK6WF6wTxxEuGGeSX3pMJTBUtZsXVM7zyASl

母性礼賛 20260409

9年前の投稿 「母性礼賛」 コメントと共に浮上させておこう。
長いですよ。

昨日は、友人に誘われて「mana」のフラライブに、フラフラっと出かけた。
以前から気になっていた踊り・舞踊と女性の身体づくり、体育の関係について得るものがあるのでは無いかとの予感に駆られてのことだった。

とはいっても出不精につき、フラをわざわざ見に行くという気力はない。前日の夜、来ないかとの友人からの電話での誘いに乗り、フラフラと出かけたという訳だ。

「mama」のダンスは、いわゆるフラダンス、ショー的な要素を組み込んだものではない。
メレと称する詠唱、大きな瓢箪(イブ)を二つ重ねて造った「イプケペ」と呼ばれる打楽器のゆったりとしたリズムとに乗り踊る。
ハワイの神々に捧げる詠唱・踊り・音という事なのだろう。
火(火山)の女神ペレに捧げる踊りなど古典的なフラ(カヒコ)を演じてくれた。

イプケペは、胴の部分を叩きながら、一方で、床を突きリズムを取る。
そして詠唱、それに合わせ腰を落とし緩やかな風に乗るかのような舞。
心地良い緊張感に包まれた時が流れた。-ペレはハワイ島キラウエア火山の女神、火の女神であり、美しく猜疑心が強く、思い通りにならないと火を噴くという「女」の性そのものという神。
腹の中にマグクマをたぎらせ、気にあわないことがあるとマグマを吹き出す、という怖いが、その一方で魅力的で引かれる女神様。

男は、危なげな美人にはよろよろとなりますね。

でも、浮気をしたら、怖いのです。浮気もまた、男の性ですから、女神様は火を噴くことになりますね。
そのような内容を詠唱し所作にした舞ということであった(ということにしておこう)。

神話を基にし、神に捧げる舞であるからそうなのだろう。
しかし、私には、腰を落として舞う彼女らのお腹の中に真っ赤なマグマがたぎっているのを垣間見たような気がした。
神に捧げる舞であると共に、己自身の感情・心・無意識と体力の源泉である腰とそれに収まる腹に、自ずから力があつまるように、腰を落として、肩を落として流れるように舞う。

かねてから、お腹(腸)の中には土壌が収められているとし、腸の、腸の中の土壌の働きが心身の健康を保つためには大切だと解いてきた。
身土不二、食身不二、地産地消とは、住まいする大地・土壌と身体、心の連続性、循環について解いたものだ。
その基礎に、お腹の中に土壌があるという事実がある。

腸とお腹の中の土壌(腸内微生物フロラ)と食の三つにより、私たちの身体の栄養という物質的な基礎が支えられていると共に、免疫系、感情・心・無意識の世界までもがお腹の状態により左右されるという事は経験的に理解されていたが、科学の世界が現実の世界にやっと追いつき理解が深まってきた。

それと同時に、女性のお腹の中には子宮・性(生)がある。
この子宮が過去と未来をつなぐ生命の要となっている。「フラ」の動きは、肩の力を抜き、子宮、腸の収まる腰を揺さぶり動かし、活性化させる。子を生み出すための基となる腰を、腹をマグマの如く活性化させるのだ。

生き物は、腹・消化栄養が満ちるならば、その栄養を生殖というモードに振り向け、腹の中のマグマの排出をはかろうとする。
それが生命の営み、リズム。
子供の頃からフラを楽しく実習することにより、女性としての心身の基礎、生命をつないで行くための礎が形づくられるのだ。
母性の涵養だ。

フラに限らず、我が国に伝わる盆踊りなどの踊りにも、そのような要素が籠められていたと思っている。

季節の行事などを通じ、自らの身体鍛え開発するという装置が踊りだったのだろうが、それは、自らが演ずるものではなく、見るもの鑑賞するものとなってしまった。
自らが演じ、火の神の化身と変容して行くことが大切なのだろう。

女性の子宮は、丹田に位置する。男どもは、丹田を開発するために様々な稽古に勤しむ。武術の要諦は丹田開発にあるのだから。
肩の力が抜け、身体が弛みきり、丹田の一点に力が集中したとき、心も澄み切り、全力発揮し得るようになるからだ。

ところが、女は、意図せずして日常の中で丹田開発を行っている。
月一で訪れるもの、十月十日をかけてお腹の中で育て上げるものにより、自ずと丹田を意識し、開発されて行くのだ。
月一のリズムは、月、地球上に生息する生物・生命のリズムだし、十月十日では、我が子を通して、地球に生まれた生命の進化を反復しなぞるのだから、女の身体は小さな月・地球、まさしく小宇宙といえるのだ。

生命を産み出すことの出来ない男は、この点でかたわもの、半端物、女のお化け。
このため、頭を使ってものを造りだそうとあくせくする。

胎児が海から陸に上陸するときは、つわりとなり、母子ともに上陸劇を演じ、胎児へ語りかける母の子声は、神の声となって届くのだ(三木成夫説)。
子を産み落とした後の女、母は強いわけだ。

男は、神様に適うわけがない。
だまらっしゃい、のひと言で、凹むしかないのだ。
しかし、このような事実、体感を女が忘れてしまったことに、現代の不幸の元がある。

女が、母性を取り戻すならば、生命をつなぐものとしての自覚を取り戻すならば、世の中は自ずと平和になって行く。
エネルギーを自在に使いこなすことが出来るようになり、物が溢れている世界が到来したのに、貧しいために止む得ず行ってきた戦いを続けていること自体がおかしい、不思議。
しかし、そのような事には気がつかない。

ますます忙しく消耗する社会を造り出すべく、男女平等、一億総括役と頑張っている。
男が戦地に赴いた時に、女が労働力として扱われたのだが、そのような事実から鑑みるならば、まさしく女を経済戦争の尖兵としてかり出そうというもの。
女の男性化が男女共同参画の真意。

生命をつなぐことの出来ぬ男どもが造り出した組織という疑似人格(神?)を維持するためのイズム、イデオロギーに根ざした戦いに、女が巻きこまれる必要はない。
度をこした生産と消費のための戦いに加わる事はない。
自らが生命を生み出す事のできぬものの擬似的な行為だろう。
それは、AIなど人工生命、医療を通じての永遠の生命という方向を向いていることからもあきらかだろう。

このような騒動に巻きこまれていることが、女であること生命をつなぐ母であるということを忘れている姿。
母性の源泉は、腰(骨盤)の中に収まっている子宮・丹田にあり、身心の健康の基は、同じく腹の中に収まっている腸と腸の中の土壌(腸内微生物叢)にある。

「フラ」は、生命を繋ぎ、心身の健康を保つための腰を揺らし、腰を活性化させる、骨盤の可動性を高めるものと強く感じた。母性の回復を図るためには、肩を落とし、腰を落とし、腰・腹を練り作り上げることの大切さが改めて見せられた。

フラ=ハラ(腹)=腹腰なのだ。

男も又、頭でっかちを止めて、腹を練るべく方向転換をすれば良い。
自然、野生への回帰だ。
生き物、動物としての身体、心身のベースを整えなければ、健全な文化、文明は造れないのだから。

AI、永遠の生命も良いが、それ以前の私たちの生命を育んできた母なる地球、海・大地=自然・野生、女=母性というものに心を馳せなくてはならないだろう。
頭でっかちでは、身体、心身という基礎が伴わないから、いずれかの時が来たならば折れてしまうだろう。
地に足のつかない頭でっかちは、足を持たぬはかないもの、幽霊出あると古人は示してきた。

昔は、うらめしやと恨み辛みの感情が凝り固まり頭に血が上ったが、今や体感を伴わない知識のみが頭に上っての幽霊状態。今や、知を頭に上らせた魑魅魍魎跋扈の時となってしまった。
その閉塞感を感じ取り、魑魅魍魎が祓われるときを待ち望み、その時が近いことを皆が感じ出している。

血、知を腹に下げなければならならない。
このような事を思わせた緊張感溢れる古式フラの後には、日本歌謡・ポップスのリズムにのせての創作フラと笑い泣きの漫談。
空気の張り詰めた後の、お二人のフラの経験から紡ぎだされる至言と笑い、涙の数々。心あたたまる時間を過ごさせてもらった。

・・・ 以下、長いコメント2件 ・・・

大地(土壌)、水(川・海)の豊かな恵みを受けていた時は、女性を中心にした社会が営まれていました。
だから、現在でも女性は女将(上・神)さんだし、山の神だし、かかあ、おっかあ(耀くもの)と呼ばれています。

西洋、Chinaのママ(乳房)、博多では、ごりょんさん(御寮さん)。子供のためだけの人ではありません。
衣服、器物などを含む家内の総てを取り仕切る、切り盛りする存在。家(内)の管理を行うもの、経営者です。
その中の一つに子を産み育てる、後継者造りが含まれます。

しかし、西洋文明という自然から離れたいびつな理解の仕方により、女性の本質を見失ってしまいました。
でも、まだまだ太古からの積み重ねの雰囲気が残され、伝えられているのがネイティブといわれる人々であり、日本人もまだその一族に繋がっているのです。

ハワイは、日本は、ネイティブでありながら、その色彩を残しながら西洋文明を受容しているという不思議な世界です。
この点で、そこに住む人々がそのまま世界遺産としても良いほどのものだと思っています。
そして、その雰囲気が消えないうちに、キチッと復活させ、伝えて行かなければならない体術、技法が、フラなどとして残っているのだと思います。

太古の昔は、身体を動かすことのできる範囲からの恵で足りた生活をしていました。
旧石器、縄文の時代です。漁労採取の時代の方が、時間の余裕があり、質の高い文化が営まれたとされています。
世界最古とされる縄文土器を造ったなどに、その一端が現れています。

土器は、女が、煮炊きをするために造ったものだとされています。
複雑な文様、形を創るという時間があったのです。
また、土偶のテーマは女、母神です。生命の賛歌、繋ぎです。

男は、鉄砲玉。
力仕事や遠方に狩りに出かけたのでしょう。
男は、女子供を守り、働くために、女が化けたものだから、それに生命をかければ良いのです。
女の持つX遺伝子の一部が欠けたものがY遺伝子ですから、男は女の化け物と言ってもあながち間違いではありません。

旧石器、縄文時代の、もっとも大きな願いは、産み落とした子供を、無事育て上げることだったと思うのです。
縄文土器には、赤ちゃんの足形が沢山残されています。ペンダントとして、肌身離さず持ち歩いていたようです。
生まれ出た生命を如何に大切に思い、慈しんだのですが、残念ながら育ちきらずに旅たった子への思いの程が、足形として残されているのです。

暑さ寒さに晒され、細菌に対する知識が無い時代ですから、大きく育つ、育てあげるという事は大変なことだったのだと思います。
人は、身動きできない頭でっかちで産まれたため、一人前になるまで手厚く守ってあげなければなりません。
他の動物は、生まれた時が一人前ですが、人は異なります。母親が面倒を見なければ、文化を伝えなければ生きて行けない存在なのです。

食は、周辺から手に入れることができたため、時間はたっぷりあります。
自ずと女達の井戸端会議?が始まります。井戸端会議の大きなテーマは如何に丈夫な子供が授かるか、その為にはどのようにしたら良いのか、どのように育てるか、だったのではないかと思われます。

子供を産む、それは自分の身体のなかで十月十日育てるわけですから、その身体の変化の観察により、母となるための身体づくりということを考え、実践し、その成果を子に伝え、さらなる工夫をし、と、連綿と練り続け、母嬢はと伝えて来たに違いないのです。

それが、女性を巡る様々な文化として結晶しているのであり、フラ、盆踊りなどは、単なる踊りではなく、身体づくりという要素を持っているのだと思うのです。

しかし、そのような女性、母性の文化を差別の賜物としてしまったのです。男女差、蔑視、軽視という見方です。
確かにそれは、差別の賜物ではありますが、現在の理解とは真逆。聖なるもの、大切に守り伝えて行くべきものとしての差別です。
女らしさ、男らしさという性の本質に基づく差別です。性は、生命、生き物としての本質に関わることです。

それが、何故問題となるのかが不思議なことです。現代の感覚は、如何に生命の道から離れているかが理解できるでしょう。
生き物は、生命を繋いでいくということが本質。
そのための準備、身体づくりという観点が抜け落ちてしまいました。
また、それが、文化、文明の本質を支える基盤となると言うことも。

まずは、その本質、生命を繋ぐという根っ子の部分に着目して、そのためにいかように身体を使いこなしたのか、ということについて、自己の身体を通じて掘り起こすという作業が大切なのだと思います。
それが、男女の和合、天地の和合となり、生命を紡ぎ出し、生命を伝えるということとなるのですから。

さらには、健全な文化、文明を作り上げる基礎となるのです。
身体を育て、使いこなすということが、世界の平和、平安の礎なのです。
女、母性の復活を切にのぞむ所以です。

・・・

とにもかくにも、女=母がいないと何事も始まらないし、生命を繋げない。
しっかりと、楽に、生命を繋いで行くためには、その土台となる身体づくりが大切となる。
その技法としてのフラなどがあったと思うのだ。

身体をしなやかに使いこなすならば、頭(脳・心)も柔らかく使えるようになる。
そのような人(女)が増え、そのような子供を増やすならば、世界は楽しくなる。

出産は自然の摂理。生命が地球上に生まれてこのかた、途絶えることなく生命を繋いできた。
それが苦しみである訳は無い。
ひねり出せば良い。出産(排泄)の快感があるだろう。

それを苦しんで生まなければならないような身体と頭に、自らがしてしまった。
教育、マスコミなど、文化のなせる業、洗脳のたまものだ。

女と子供を守るために、男に見せつけ、脅し、従わせるための出産パフォーマンスを、女自身が苦しいものと信じ込み、思い込んでしまった。
だます者が、騙される側に回ってしまうと言うことほど滑稽なことはない。

しかし、だまされるものとなり、心と体を固めてしまった。
身体と頭・心を固めてしまうならば、出産は苦しいものとなってしまう。
そのようなとらわれから逃れるためにも、女として、母となるための身体づくりが大切なのだ。
柔らかねしなやかで、かつ強靱な身体と頭・心造りだ。

身体の土台は骨盤だ。
脳を治めている頭蓋骨・後頭骨は、骨盤と相似だ。骨盤が動き出すと、後頭骨も動き出す。
脳も、心も動き出すのだ。

(身体は、季節に応じ変化する。植物と同じで、はる(張る)には芽吹き花開こうとするのだ。冬縮こまったものが、冬至を越えると春に向かって開いて行く。外へ向かって開いて行くのだ。そもそも、冬(増・殖ゆ)は、開くために籠もるときなのだから。骨盤、頭部は次第に開き、5月になっても頭部が拓かない場合は5月病といわれる症状となってしまう。その動きの滞ったところで症状が出る。頭が、後頭骨がスムーズに動かないと五月病と言われるような精神的な症状があらわれる。)

以上は、私の私淑する野口晴哉先生の観察によるものだが、産むごとに身体が整い健康になると言っていた。
身体の力の総てを総動員し、全力を発揮し出産するのだから、骨盤を中心として体中が動くのだから、その一連の経過をキチッと成し遂げることができるならば、元気にならないわけはないのだ。
ならば、出産を機に元気になるように産まなければならないのだし、その工夫をすれば良い。

西洋医学を取り入れ、出産を病気として位置づけ、医者が関与しだしてから、おかしくしてしまったのだ。
産む楽しみよりも、生む恐怖を与えるようになった。
その方が儲かるし、医者の権威も増すからだ。
医療というものが、自然の営みの流れをせき止めてしまったのだ。

そんな事にはお構いなしの、我が家のシェフ(かみさん)は、何人でも産んであげると言っている。(子ども達が大きくなり、反抗しだしたら、産むのは良いが育てるのは嫌いだと言い出したが~)
女=母となる身体を造りにより、強い女となるのだ、ということを、男どもは女がひねり出したのだ、ということを、多くの女性に伝えてあげてください。

強いばい菌として、伝染させ、文明というものが造り出した誤った思い込み・洗脳を解いてあげてください。
フラという技法は、強力で楽しいばい菌になるものと思います。
感染してしまう女性が増し、女=母としての自覚を持つならば、自ずと楽しい世界が訪れるもの思っています。

https://www.youtube.com/watch?v=yPVYMn-RbgAhttps://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=pfbid0Pq3fseLmMYtCJCHjvBtPP84eL6UGBTF4n9FfZQP9L5PDaWQLeUQoAysBHvtCu3WQl&id=100015857313340

https://l.facebook.com/l.php?u=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DyPVYMn-RbgA%26fbclid%3DIwZXh0bgNhZW0CMTAAYnJpZBExbDlSc0RkWWl0Vnl5UjNGU3NydGMGYXBwX2lkEDIyMjAzOTE3ODgyMDA4OTIAAR6YBrMhxRgY87iIxijd1GxswPFfEffHqoTfgZehmZc61n-qIe8IMvxWu6J_8g_aem_BnzHVX9cxglQIREHZ3ghkQ&h=AT6Spw-g6hXSPxj0suYVdUj8GvQzjOzHY1cfF22fWW-As4M_1yXOSv2prGja0Ke9hudXDrUZ6ZubBFOLDInyQF_DOvoMoco5jmLxPpTgq5N4SjwJLHqJP1dlQG40R52-TwZm78AOYlKROWx4op9k7EnLGeQW0z06&tn=-UK*F

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父の日だそうな-2

父の日だそうな-2

父の姿が霞んで見えないについて、更に辛辣に記しておこう。

こんな投稿をしたのでは炎上してしまうでしょう。

しかし、そんなことを恐れてはいられなくなってしまいました。

このままでは日本民族は滅んでしまいます。

そのことを理解してくれる方に届けば良いと思い、投稿をしています。

友達範囲の投稿にコメントしたら、次の返答が返ってきました。

> そうなんですよ、男と対等に張り合おうとする女が多すぎます、男を上手に操る女が減りました。

> 言い過ぎかもしれませんが、豚もおだてりゃ木に登ると言います、ブタは男それとも女(^^)

残念ながら、女も男も、どちらも豚になってしまいました。

近頃の政治家のたるんだ顔を見てください。

他国の政治家の引き締まった顔、背すじを伸ばした姿勢。

この覇気のなさ、口先三寸のみの逃げの答弁での責任感のなさの露呈。

他国に馬鹿にされ、舐められてしまってます。

これだけで、国は終わったなと思ってしまいます。

いいように喰わてしまう仕組みに、女も男も、楽ちんだと安直に乗ってしまった結果ですね。

餌と温かな住処が与えられ、幾分の遊びが許される環境。

しかし、いくら環境が良くても、与えられた畜舎という環境に満足する自己家畜化の群となってはいけません。

畜舎に囲い込まれ、楽しているうちにじわじわと足元が崩されてしまいました。

気が付くと亡国の民へと押しやられています。

一次産業はめちゃくちゃ、有事には餓えがまってます。

経済も外資が牛耳るようになり、失われた30年から浮上の見通しもないありさま。

そして今、土地が奪われています。

さらには、人の入替が行われています。

人そのものを武器としてしまう支那中共の得意技。

いずれはチベット、ウイグルの様に蹂躙されてしまいそうです。

植民地化が露骨となり、ステルス・ソフトジェノサイドへと向かっています。

しかし、その様な恐ろしい世界が国際政治だということに気が付かないまま、ぬるま湯につかった生活。

自分たちが茹で蛙状態、もう一炊きすると茹であがってしまう危機的な状態にあるということに気が付きません。

まずは女が雌豚になるように調教され、それに雄がついて行き豚化して行くというストーリーでした。

それが男女平等だし、3S政策、公団住宅による核家族、専業主婦・昼メロおばはんなどだったのです。

これによる女性の劣化はすごかった。

皆、一斉に崩れてしまったために気が付かない。

男はサラリーマン化し、働く姿から子供達は遠ざけられました。

男の素晴らしさからは目隠しされてしまいました。

それはTVの普及などにより加速化されました。

白物家電で時間の余裕ができたものだから、隣の芝生が青いと不平不満と嫉妬の固まりとなり、雄豚を尻に敷き、稼ぎが悪いと悪態をつき、その醜態を子供らに見せつけました。

そして、自分の境遇に対する呪いをカバーするために、子供達を自分の望みのための代理戦争に引き釣り込み、良き会社に入るための前哨戦としての受験戦争を造り出しました。

子供達は受験戦争で消耗し、大人の嘘っぱちの世界を垣間見、夢も希望もなくし自死を選択するものも出してしまいます。

「あきらめた子」を大量に造り出しています。

女の子は、母親の姿をみて、能ある鷹は角を隠すではなく、男を馬鹿にして尻に引くことを習い性にしてしまいました。

不平不満の渦巻く世の中にしてしまったのだから、個人、そして個人の集合体たる国の運、国運が良くなるわけはありません。

なので、

これでよいのかおっかさん。

母性よ甦れ。

子供達の明るい未来のために。

と叫んでいるのです。

・・・

画像は、

より拝借。

大意はありません。

1人、ユーストマ、、「男が、 こんな感じで いいのかな? 父 族が 族 家 家父 。 も が イ な イ ん だ 感 。 ど、 か じ イ だ イ 感 じ。 人それぞれ、 樣性 というけれど! BEAMS FATHER'S EAMFATHER'SDA DAY」というテキストのグラフィックのようです

3早川 奈穂子、他2人

父の日だそうな-1

父の日だそうな-1

しかし、父の姿は霞んで見えない。

何故だろう?

女と男、大きく俯瞰し考えて見ます。

男が、子供を守る、女を守るのは集団動物の基本的性質。

そして、女は自分たちを守ってくれるものを立てる。

これは集団動物としてはあたりまえ、自然なこと。

男はそれに答えるため、強くあらねばならないでしょう。

力がすべての場合は、強い男を中心として群れを造る。

それは、いのちを伝えるための智恵。

しかし人類は、知恵のある女を中心に母系性社会を造った。

集団が小さく、餌が豊富な場合は女系性の方がうまくゆく。

女の子も、男の子も等しく、女・母が産んだのだから。

女系性社会では、男は遊ぶことと種付けがもっぱらの仕事。

男の出番は有事の時となる。

そのような社会では、通い婚や入り婿となる。

女が男を選ぶのだから、当然のこと、女に認めてもらうため男を磨いただろう。

母もまた、男の子を男らしくなるように育てただろう。

やがて、1:1のつがいを作り、男は狩りやいざという時には力をあわせ協同するという集団動物へと進化した。

つがいを造るという方向の選択には、女、子育てが大きく働いた。

女が協同歩調を取らなければ、つがいはできないだろう。

生まれ落ちてから長い間、身動きのできない子と母親を守らせるため、固定的なペアを造る方向へと進んだのだろう。

食の主なものは女が近所で採取したが、肉などうまいものは狩りをして男が持ち帰った。

獲物を女、子どもに持ち帰るためには直立し、手を使うことは好都合だった。

男は持ち上げるほどによく働く、おいしいものを持ち帰る、その循環で男を磨き、さらに凛々しく男らしくなる。

利口な女達は、男を持ち上げてよい気分にし、よく傍楽方向へと進め、ついには財布の紐を握るのは女という世界を造った。

女系性社会の仕組みの延長だ。

男の子も母が産んだのだから、食の豊かな高温多湿な世界では母の思う方向へと進化した。

日常は母親の世界だが、非日常、憧れの対象は父親の世界と棲み分けを造ったのだろう。

人口が増えたり、異常気象などで餌の入手が困難となった場合は男の力がものをいうようになる。

そのような地域では男の力がものをいい、やがて男尊女卑、力で支配する社会となっていった。

乾燥地、寒冷地、砂漠の民の世界だ。

しかし、財を築いた場合は、財産権は女も持っていた。

支配し、虐げられる弱者を造る社会は、幾重にも重層的に弱者が造られ、ガス抜きが行われる。

力を持たない女にしわ寄せがなされ男尊女卑へと傾斜していったのたろう。

しかし、女系だろうが男系だろうが、いずれにしろ、女が男を立て、男を矢面に立て、女が奥に控えるというやり方でうまく機能してきた。

その知恵が文化として示されると、これらの書籍の説くところとなる。

いのちを伝え行くために、進化という時間をかけて作り出された智慧と体制だ。

わが国の場合は、食が豊かだったから女系性社会を基礎とし男系がその上に乗るという形の家族制度だった。

2階建て?、双系制と言うらしい。

家の経営は女が行い、外向きのことを男が行った。

家の経営とは、家・いのちの継続と、そのために子を産み育てる、すなわち人材育成だ。

男を立てる、雄々しく育てることは、男をしていのちをつなぐ核となる家を守るための必須のものだった。

その核とは女、女なしにいのちの継承はできないからだ。

そのような仕組みが崩れたのは、明治革命によりイギリス国教会をモデルにした天皇一神教により、女性をマリア的な存在、良妻賢母と位置付けたことによる。

女を経営者という座から、子を産み育て、男にかしづくものとしたのだ。

一般には儒教的とされているが、明治政府が狂育により埋めこんだのは猶基回一神教的な男尊女卑だったのです。

狂育により、高等狂育を受けた女性から経営者としての自覚が失われ、次第に下々にまで広がっていった。

しかし、農村、地方の大家族までは、このような考え方は拡散しなかった。

江戸自体は見かけは儒教的な男尊女卑であったがそれは武家であり、実態は女性上位だった。

かかあ・耀くもの、奥、ご内儀、そしてかみさん(神・上さま)という言葉に良く表れている。

明治革命により女性の権利が剥奪され、西洋的男尊女卑にすり替えられてしまったのだ。

ここに、わが国の女性性の劣化が始まった。

そして敗戦により押し付けられた自由、平等、平和。

西洋の虐げられ続けてきた女性を解放する運動、ウーマンリブの行き過ぎた流れが我が国にも押し寄せ、女は男と対立する存在と教えられ、農村部からも良俗は失われ、女性性の劣化に拍車がかけられたのです。

互いに助け合い、相和し子どもを育てる男女が、敵対する存在として教えられたのです。

男女同権、それは男も女も否定すること。

男と女、まるで異なる生物学的存在を同じと見なしてしまうのだから、混乱が生ずることは必定。

男と同じとは女性が男性化することであり、強くなった女性・母は、男の子のチンチンをとり、男を中性化してしまったのです。

女が、家族を守る存在という、生き物としての男の存在を否定したです。

しかし、女も生き物、集団動物であること、そして男を否定したならば、その根源的な存在基盤を失ってしまう。

それが核家族化だし、家の崩壊。

女は、他の手を借りず、独りで子を産み育てなければならない事態としてしまった。

自分の頭で考えることをせず、無批判なまま政治のなりゆきを受け入れてしまったため、女性の受難の時を造り出してしまったのです。

いのちの継承の危機を作り出してしまったのだ。

男は男らしく、女は女らしく、いたわり合い、助け合うという、生き物、人としての当たり前のことを、男女平等などという理念・理想の空理・空論を植え付けられ、信じてしまい過去の良俗、伝統文化を否定してしまった結果なのです。

その結果が現在の混迷状態となって顕れている。

しかし、現代の政治は狂育を通じて、生き物としての存在を否定することを教え、衰退、滅亡へと進めることを止めようとはしない。

国民を、グローバル金融勢力の仰ぐ、金・利の神のための人身御供とし続けている。

現況は母親が、男の子のチンチンを取りまくり、戦う気概を奪い続けているので、この流れは人を食い尽くすまで止むことはないのでしょう。

女性性を奪い、結果、男性性を失わせることによるステルスソフトジェノサイドが進められているのです。

で、

これでよいのかおっかさん。

蘇れ母性。

子供たちに明るい未来を残すため。

とあいなるのです。

————————————————————————-

いつもの悪い癖、保坂さんのスレッドに書込。

書込責任と記録としてシェア、コピペ。
https://www.facebook.com/kohki.hosaka.5/posts/pfbid0c5wjaXcdTf9aFSVXXMoWVNgnJiJ8zRpb6trvQzemzxXGCZPGgPZgLB49hcULvQe8l

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ことばを選択しよう-2 

ことばを選択しよう-2   FB 2025/05/09 プライバシー設定: 公開

・・・

先に、古来から「和顔愛語」と教えられてきたが、脳科学・情報科学の発達によりその理由、メカニズムが明らかになってきた。

古人の経験の積み重ね、時間のフィルターを経て残されてきた伝統的な智慧や恐るべし。

と述べた。

これに対し、「言霊ですね」というコメントが寄せられた。

ご明察。

このコメントに対する長い返答を浮上させておこう。

・・・

さらに付言するならば、言葉・言霊などを発する身心の問題があるのです。

人は言葉を操るようになった。

初期の言葉、それは身体をフルに使いこなし、そこで感じ取った溢れ出る思い・感情を周辺の人に伝える、共感を得るためのものだったのでしょう。

身体をフルに使う、共に全力発揮の体勢の中での共感があったのです。

それは、音・音楽とともにあったでしょう。

言葉を用い共有した思いは集団を動かすものとなるので、言葉に発した、もの、こと、は現実化するという言霊信仰となったのだろう。

それは、共感という波動の籠もった身体にひっついた言葉=言霊。

身体を動かし、感じたこと、その共感により家族、一族、集団を一つにし、厳しい自然の中で生き抜いてきたのでしょう。

やがて言葉を自在に紡ぎ出せるようになると、言葉は身体から遊離するようになってしまった。

集団が大きくなるにつれ、言葉は情報の伝達、共有へと進化し、感情を抜きフラットとなっていったのです。

脳の紡ぎ出す言葉となり、言葉と身体のつながりを希薄化させて行ったのです。

言葉を記号として扱うようになり、死する言葉としてしまいました。

人は、便利なものを不便に使う名人と何度も記してきましたが、文明の利器のみならず、人は言葉を操り、文字とする段階で同様のことをしているのです。

それは、人を縛り、支配するという欲によって行われてしまうのです。

その死せる言葉は文字となり、法・契約など人を縛るための道具となり、一方では科学という体裁を作り出したのです。

そして、IT・AIなど人工言語によるバーチャル空間という魔法の世界を作り出し、現実の世界から遊離させ、今、飲み込まれようとしています。

身体にひっついた言葉が失われてしまったのです。

現在は、言葉を固定化した書物を読むことなく、漫画すら読むことを忘れ、Web上に流れる動画に沈溺し、話す言葉は乱れに乱しています。

身体使いは雑になり、腰抜け、腑抜けとなり、発する言葉の力を失ってしまいました。

便利なものを便利に使いこなすという方向ではなく、便利だと思う、思わされるものに依存し、自分の頭で考えるということすら放棄してしまう方向へと流されてしまいました。

今や、衰退の危機に存しているといっても良いでしょう。

もはや「言葉を選んで使おう」などという世界すら希薄化させてしまっています。

その場しのぎ、責任逃れのための空疎な言葉の氾濫。

そして、差別だヘイトだ、などという上から目線の一方的な制約を、繰り返し繰り返し加えられ、発する言葉すら制限され、自分の感情を表現することを押さえつけられています。

結果、頭で考えず、条件反射的に忖度、自己規制を行うことを良しとする世界としてしまったのです。

自分の気持ちがわからないでは、相手の気持ちも当然わからないこととなります。

となると、閉じ込めた鬱屈した思いが発露を求め、負の感情を伴って吹き出させ、相手を傷つけてしまうことになってしまいます。

それが、相手の気持ちを察することのできないいじめの横行、周辺はそのいじめにも気づかない、気づいても見て見ない振りをするという感受性の鈍り、すなわち、五感・身体の鈍りを常態化させることになってしまいました。

ストカーのあげく、殺してしまうという身勝手、究極の鈍り、そしてその兆しが見えていても周辺が動かないという社会の大きな鈍りを造り出してしまいました。

原始的な世界で集団を保つために行われたことは、相手を尊重するということです。

それによって自分も尊重される。

相手があって自分があるという相対的な関係性の中で暮らしていたのです。

集団内を円滑とするために言葉も行動も選び、慎んだのです。

それが躾、身体を美しく使いこなすということに繋がります。

食生態学を提唱した西丸震哉は、首狩り族の社会に飛び込みフィールド調査を行いました。

西丸は、首狩りと食人は異なり、自分が調査したのは食人種と称していますが~。

首狩り族の社会はさぞや獰猛だろうと思いきや、相手に不快感を抱かせたら殺されてもしょうがないというものであり、おだやかな世界だったそうです。

相手に不快な思いをさせないとの思いは、自ずと行動・言葉使いは洗練され穏やかになってゆくのです。

身体にひっついた言葉は、このようにして洗練され磨かれてきたのでしょう。

しかし、法・契約などという死せる言葉が人と人との関係の間に立ちはだかるようになり、肥大化させてしまったことにより、身体にひっついた言葉が劣化させ、乱暴、げれつとして行き、精神性も退行させていったように思われます。

文字に書かれたことは守っても、それ以外は守らなくても良いという曲解が横行し、世を覆ってしまいました。

フェイク、ペテンの常態化です。

相手を思いやる、共感するという、集団動物としての人間の本性が脅かされるという事態にまで行き着いてしまいました。

それが、コロナ禍により明確になってしまいました。

身体を動かし感じたことを、周辺の共感を得るために思わず発する原初の言葉、支えとなる言霊を失ってしまった結果です。

これではなりません。

他と繋がる、共感の世界へと立ち戻らなければなりません。

それは、私たちの心を支えている身体、五感というものの見直しであり、意識を支えている無意識の世界、集団無意識への回帰となるのでしょう。

失った支えを取り戻し、作り直すことが急務となりました。

身体・五感を磨き、無意識を豊かにすることができるのは、三つ子の魂以前の自意識の未完成な時期の過ごし方にあると思うのです。

なので「母性よ蘇れ、子供達の明るい未来を創るため」となるのです。

大きくなってしまったもの達は、身体を動かし五感で感じ取り無意識の世界へ沈着させるという幼子の行為を思い出し、自分に取って不足しているもの、ことを振り返り、その不足を補うための行動へと結びつけることが重要となったのです。

不足の部分に気がつけば変わって行くのです。

真の反省です。

このためには身心の健康を取り戻す、五感の感受性の回復から始めなければなりません。

頭デッカチになったがための首、上体の力を弛め、身体の重心(丹田)に自ずと力が集まり、お腹に深い呼吸が入るように身体を導くのです。

で、「日の下に出よ、身体を動かし汗をかき、深呼吸~循環・排泄を整えよう」となるのです。

問題が発生したときは、迂遠なようでも原点に立ち返っての見直しが大切です。

対症療法、部分最適、先延ばし社会からの脱却が喫緊の課題となっているのです。

きちっと立ち、温かく光耀く太陽を心の中にイメージし、「あまてらすおおみかみ」と唱えましょう。

無意識への刷り込みです。

先達はこれを、十言の神咒(かじり)と伝えてきました。

「あまてらすおおみかみ」の裏には「ありがとう・おかげさま」の十言があり、「たのしいな・うれしいな」の十言が潜んでいるのです。

その他、十言のなかに多くの明るい言葉が浮かび上がってくることでしょう。

https://www.facebook.com/himanaka/posts/pfbid0M5X8cSxDjSebbXhzQHMppWBgLKV3Saqz9L4ZY8b4VG7UXawxDLUZfaxFyzfKcNa5l

・・・

・画像はいただきもの

選択理論えほん ワークショップ ファシリテーター養成講座

https://www.reservestock.jp/page/consecutive_events/23179

1人以上、、「しあわせ いいね ありがとう たのしいね たのしいね うれしいな うれしいな」というテキストの落書きのようです

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666,567と三つ子の魂について

カタカナ語を駆使し、むずかしいことを言わなくとも、祖先は「3つ子の魂まで」と称していたということをしっかりと理解すれば良いだろう。

妊娠・胎児の段階から、生理的早産・体外子宮状態の母子密実一体の時、乳児期、幼児期と家族・親族に囲まれ、やがて外界への興味いっぱいに動き回る、それぞれの段階で必要な体感を培う、経過させることにより、身心、身体を育てるとともに、身体・五感を通じて頭脳・心、豊かな潜在意識を育てていたという事実の理解だ。
カタカナ語を通して抽象的に語る必要はあるまい。
このころまでに腸内細菌叢の質が大人に近い状態になるのは偶然ではない。
3つ子の時までに、一人前となるための基礎がかたち造られるのだし、そのように育てるのだ。

3歳の頃にはその体感のうえに培った身心に、自我・顕在意識が目覚め、遊びという形で自然・外界(風土)との交流・刺激を求め、野生の身心を手に入れます。

そして、6歳6ヵ月6日に習い事はじめとなり、文化・文明(文武両道)を獲得し、継承するものへと歩みだすのです。
育つための経過すべき段階(ステージ)があるのです。

この段階・ステージを無視し始めさせられたのが男女平等という呪詛。
本来異なっているものを、丸めて同じとしてしまうのだから、不自然この上もない。

そして、今、567に対し666が象徴として浮上。
旧約・ヨハネの黙示録では獣とされるもの。
人を習い事、文化・文明の段階、自分の頭で考えるという段階の前に留めておくぞ、というサインに思われるのです。
(文明)人となる以前の存在とも解されるのです。

6⑥6とするならば、⑥は胎児・私。
私を取り巻く人たちが66です。
マスク、3密を避(裂)けよ人と人の間を分断し、過剰な消毒・清潔で共進化してきたばい菌たちとも分断され、免疫力、生きる力さえも奪われているのです。

この語呂合わせ的な数字を偶然と見るか否かは人それぞれ、感性の問題ですが、その裏に秘めたる意図を感じ取ることができる人は、受け手一方ではなく、準備・応戦の備えができることでしょう。

ちなみに、欧州と東洋・わが国は逆。
悪魔の使いのドラゴンは、神たる龍になるのです。
龍の吐く6⑥6は、567となり、369となるのです。

いつもの悪い癖。
Hさんのスレッドに長い書き込み。
書き込み責任と記録としてコピペ。

「三つ子の魂」、母子密実一体の時の大切さについて

ナショナル ジオグラフィックに「手先が不器用になる子どもたち、『驚くべき異変』を専門家が危惧 ファスナーを上げられない、ページをめくれない…親にできることとは」との記事がありました。


・ パンデミックの1年目(2020年3~12月)に生まれた250人以上の赤ちゃんを対象にした米国での研究によると、生後6カ月での微細運動テストでは、パンデミック中に生まれた赤ちゃんは、それ以前に生まれた赤ちゃんよりも点数が低かった。
・スマートフォンやタブレット端末、電子書籍、テレビなどの画面を見ている時間は、子どもが何かを作ったり組み立てたり、絵を描いたりする時間を削る。
そうした端末を使った算数の学習やデジタルアートの作成は、教育効果はあるが、書く、切る、色を塗るといった動作に伴う細かな運動能力を育てることはできない。
との記載がありました。

すなわち、
「動物の本質である身体を動かすことが少なくなっている。
人間の本質は、立ち、手を動かすということであり、身体を動かすことが少なくなっているため、人としての動作も劣化してしまった。
細かな動作ができないということは、その動作によって培われる細やかな感情もまた育てることができなくなっている。
荒っぽい動作、粗野な感情むき出しの世界となる方向へと進んでいる。」
それすなわち、退化。
ということを示しているのです。
人類・人としての危機的な状態に至っているといえましょう。
・・・
人類学では、
「人の脳は7万年前から縮小傾向となっているとしており、この2万年間で人間の脳が1500~1350ccに縮小したとされています。
縮小は、神経繊維の塊である白質ではなく、言語や文化、文字など、人間に特有の複雑な行動や能力をつかさどる灰白質が減少し、野生だった祖先よりも脳が10~15%ほど小さくなっている。」
としています。

脳容積が縮小した原因はわからず、様々な仮説が述べられています。
・最小のエネルギーで最大の知性を得る」ように進化した結果
・社会的動物・家畜化したため
・温暖期に入ったため暖かい気候に適応するために、体が小さくなり、同時に頭がい骨と脳が縮小した
・女性の骨盤が縮小していったため、頭がい骨も小さくなり、脳の容積も縮小した
・単に人間が怠惰になり、知能が低下したから
などなど

「最小のエネルギーで最大の知性を得る」という方向への進化ならば目出度いのですが、残念ながら知識は増えても知性が向上しているとは思えません。
他の仮説の示すところを大きくまとめると、身体を動かさなくなったことに対する適応・進化の結果となろうかと思われます。
身体を使わなくなったための退化といえるのです。

生物・動物に共通する仕組みとして「廃動萎縮」ということがあります。
エネルギーの効率的な配分を行うため、使わないところは萎縮させ、よく使うところを肥大させるというものです。
筋肉は廃動萎縮が顕著ですが、脳も又同様です。

脳を肥大化させる方向に進化した人は、生理的未熟児の状態で子を産み、体外子宮とも言うべき環境、母子密実一体の状態で自分で動くことのできる状態、すなわち動物の出産レベルの運動能力が発達するまで面倒を見るという方向に進化したのです。
脳を肥大化させた代償が、未熟児を一人前の子にするという手間、長時間の育児なのです。
しかし現代社会は、この手間を惜しむ方向へと進めてしまったため、退化の一途を辿っているといってよいのです。

出産後に脳は肥大化してゆき、神経細胞同士のつながり(シナプス)は1~3歳くらいまで過剰に作られ、その後、必要なつながりだけが残されていくのです。
ほぼ1歳で最大になるとも言われています。
神経細胞の繋がりを造り出している最中ですから、自我などというものを持つことはできません。
無意識の自己保全の本能によって生きている、本来ならば、未だ子宮の中で生長している時期といえます。

私はシナプスの繋がりが造られて行くこの時期・体外子宮の時期を、無意識の時期として示し、古人は三つ子の魂とし、この時期の母子密実一体を基礎とする子を取り巻く環境が大切なことを訴えてきたのです。

なぜならば、赤ちゃんは身体・五感をとおして感じた快・不快などの情報、なめ回し、触りまくった皮膚感覚によって脳神経の繋がりを密に、太くして行く時だからなのです。

感じ取った情報、身体を動かしフィードバックした情報により神経回路が形成されて行くのです。

それを、古人は「三つ子の魂百まで」と称したのです。

脳の基礎が形づくられるのですから文字通り「魂の時期」です。

脳科学の世界が、やっと古人の示したことを理解し、説明できるようになったのです。

そして、3~7歳の脳では過剰なシナプスの刈り込みが行われ、神経回路が整備され効率的な処理が行えるようになっていきます。

三つ子の魂の時期に形成された神経回路を中心に、自然の中で遊び回り、感じ、身体を動かすことで、更に強く強固な神経回路へと育てて行くのです。

そして、使わない神経、余分な神経が刈り込まれ失われて行くのです。

身体を動かし、感じることで、外界と脳の配線が照合され、外界との繋がりが確実にされて行くのです。

これで、野生の身体と脳の基礎を完成させることができるのです。

逆にいうならば、野生の身心を完成させるための育児を行わなければならないのです。

その後、6歳6ヵ月の稽古始めから、これまで培ってきた身心をもとに、文化・知恵・知識を植え付け、また、自得して行く時期となるのです。

すなわち、野生の身心を獲得した上に、文化遺伝子(ニーム)という側面を受け持つ父親・男の出番となるのです。

これが進化に即した育児、個体発生は系統発生を繰り返すという原則に則した育児なのです。

他の動物と異なり、人の場合は個体発生、子宮内での進化をなぞり育って行くという歴史は、出産後も続き、三つ子の魂の時期、6歳6ヵ月まで続くのです。

・・・

数日前、人類の脳は縮小しているとの一文を入れた投稿をしました。

すると、脳の容積は増えている、縮小ということについては何のエビデンスもないという指摘・コメントが医療者から寄せられました。

私は数万年の変化という人類学的な見地を述べたのですが、数10年という現代医学のデータを示してのご指摘、反論です。

当然ながら、時間のスパンの異なる比較不能のデータですから意味をなしません。

私はこのデータからは、長いスパンでは縮小傾向にある脳が、なぜ現代になって増加しているのかという疑問が出てきます。

野生の時代に比較するならば身体能力は劣る一方であり、しかも、受け身の情報にさらされるだけで、脳容量が大きくなるという原因・理由は考えにくいのです。

整体的な見地から見るならば、脳が疲れると頭蓋骨が弛み、頭が大きくなるという傾向があります。

すなわち私には、現代の脳容積の肥大は、脳の極度の疲労、身体を引き締めて使うことができなくなってしまった身体の病理が反映されているように感じられるのです。

大きなトレンドからのズレがあった場合は、その原因を究明するのが医学の役割の一つと思うのですが、いかがでしょうか?

私がなにを語らんとしいてるのかという文脈・大意について触れることなく、短期間のデータを示し、全体を否定するイメージを惹起させるものとなっていると感じました。
自分の頭でキチッと考え、判断をしてほしいものです。

私は、述べんとすることの一つの傍証として脳容積の縮小という問題を示したのであって、脳容積が拡大しようが縮小しようが、大意は変わりません。
私が述べていることそのものが誤りならば、もっと俯瞰的なコメントが欲しいと感じましたが、世界観のことなるものの平行線の応酬を避けるために、あえて反論は行いませんでした。
しかし、放置しておくことも意に沿わないため、整理し述べてみました。
・・・

・「手先が不器用になる子どもたち、『驚くべき異変』を専門家が危惧 ファスナーを上げられない、ページをめくれない…親にできることとは」

・ヒトの脳は7万年前から縮小しつつある

・❸ 子どもの頭の中では何が起こってる? <幼児期に効く! 脳コラム5選>

・3歳までにやっておきたい「育脳」! 脳の発達には、基礎となる”生活”が大事

令和7年4月9日 FBに投稿

動物の調和的行動

2015/11/28 FB投稿より

またまたの悪い癖。
錦織さんのスレッドに、長い書込。
記録のため、転載。
・・・・・
昔からこのようだったのか、近頃このようになったのか?
動物などの行動が、調和的という動画・画像が目につき来ます。
弱肉強食というイメージは、植え付けられたもの?
人間の弱肉強食という行動が投影されたもの?
そのような気が募って行く。
これが、進化ならば、人間様の世界にも起きて欲しい。
・・・・・
鬼塚さんから、同感の意見。
・・・・・
錦織さんから、
感覚器からの感覚が進化を進めるのでしようから、感覚器を怠けさせる品々にどっぷり浸かっていると難しいのでしようね。
・・・・・
そして、進化という問題についてブツブツと。

共感、感応する力が進化の原動力だと思います。
進化は、個ではなく、種がなるべくして成るという今西流の進化の仕方があるのでしょう。
今の進化学では、進化の原動力・仕組みが不明です。
しかし、細胞レベルでの情報交換、共感とも思える相互作用により秩序が作られ組織化されることがわかっています。互いに察知し合うのです。
細胞が寄り集まって、別の階層のもの、組織が生まれて行くのです。
構成要素は同じ細胞なのですが、分化し役割分担が決まって行くのです。
細胞レベルでさえ、相互に影響を与え合い、変化して行くのですから、私は、種だけでなく、他の種も含めた共感による共進化が、進化の本質だと思っています。

他の種、生き物の間に、この画像に示されるような融和的な進化?が発生しているとするのならば、いずれ、人間様の世界にも起きてくると言う期待を感じます。

生命は、始原の一つの細胞の別れ。
深い所でつながり、共感しているものと思います。
このような姿が、今、種を超えた生き物の交流に現れているのでしょう。

科学では、未だ捕まえきれない世界があるのでしょう。
弱肉強食と見えるものも、己を己に捧げ、新たな生命を産むための行為、循環のための行為と見ると、まったく異なった世界がみえてきます。
生命の本質は、エネルギーの循環、同じものなのですから。

産(生)まれることと死の様相・表情、性と苦の様相・表情が相似であることもその現れなのでしょう。
同じものが位相を少し変えただけということなのでしょう。
そこには、苦楽共に同じものという超宗教的な世界が広がっています。

しかし、己のためという我良しの強固な信念が、楽に、効率的に富を得る、独占するという信念が、共感力を損なわせています。
個我を超えた共感力、超宗教的な世界への肉薄、自然との共生を妨げています。

しかし、一方で、精神世界の教えでは、今、必要としている事のみ眼前に出現する、宿題として現れる。
という、原則があるとされています。

このような観点から見るならば、今、進化の道程として、一神教的、大脳的、我良しの世界観を克服するという問題が示され、臨界の時となっているとも理解出来ます。

その先に待っている世界を、この画像に示されている生き物たちが見せてくれているのかもしれません。

今、それぞれの置かれている立場で眼前に見えている、一神教的な世界に住む人々が演じ、示している我良の世界という問題、これに気がついたならば、その解決に向けて立ち向かわなければならないのでしょう。
この問題に気づいた人々が、これを解決する使命を与えれたらと思う必要があるのでしょう。

そして、私は、その解決の糸口が日本的母性への復帰にあると思っている訳なのです。
マリア信仰を始め、地母神、母性に対する信仰は世界中に残されているわけですが、脈々と息づいているのは、日本だと思うからです。

一神教的科学文明、男性原理の文明を母性原理が包み込み、融合するとき、分別する事による科学ではなく、共感力を主とする本物の科学、総合・統合の科学が完成し、進化の螺旋階段を一つ登る事ができると思うのです。

大問題、眼前の大きな障害こそが進化の原動力。
大勢の人がそれに気づき、意識に上らせたとき、真に共感しあったとき、変わるべくして変わる。
量か質に変わると確信し、そのための、種、ばい菌となれたら、と思って発信しているのです。