「ひまなか(中野裕司)」の感じ、考えたこと・・・・・・・・・。                                  ML・FBなどの投稿を掲載します。

R08.04.26  

なにやら近頃、昭和の「普通」、などとして昭和の教育が問題だらけだったとする投稿が目につくようになった気がする。
取り上げられるのは体罰だ。しかも、多くはカリュカライズして、大げさにしている。

-なぜ、昭和を蔑まなければならないのか?
先の戦争はひたすら我が国を悪ものに仕立ててきたが、それが昭和という時代へと拡大しようとしているのだろうか?
総括、反省は行わなければならないが、自虐的に走ることはなんの意味もなく、マイナスとなるだけである。
この動画、誰がどのような意図で創ったのだろう。
AIを使えば、極端な画像をたやすく造り、拡散できるからね。
新たな自虐史観が立ち現れて来たように思える。そのようなことも考えて見なければならないだろう。

-たしかに体罰はあったが、それによってトラウマになったというようなものはなかったとは言わないが、僅かだろう。昭和の「普通」と称するには余りにも侮蔑的。
成績の順番を張り出すということも、異常な例として示されているが、私は出来が良くない方だが、だからといって傷付くなどいうことはなかった。

-逆に、これらによって精神力が培われたし、成績などは置いといて、おかしいなと思うことは拒否する、興味を持ったものしかやらないという個性を潰されることはなかった。
好きなことをやらせてもらったことには感謝をしている。
投稿のような状態ならば、我々の年代はトラウマの塊となっていただろう。

-ウサギ跳び、連帯責任などの体罰も例として上げれていたし、別の投稿ではフリチンで立たせられるなどの記載もあるが、これもまた極端な取り扱い。不幸にして極端な先生がおり、極端なことがあったにしても、特殊な事例である。
それは、現在もまた同じだろう。

-否、子ども達、孫の幼稚園、学校の状態を、私が見聞きしたことを言わせてもらえば、先生は感情を抑え込むこと、モンスターペアレント対策、責任回避に走り、教育が狂育化している。体罰という目に見える罰から、ステルス化した罰、あるいは、子ども達の行動に対し関わりを薄くするという方向に向かっている。このような点では、むしろ学校、学習環境は昭和よりも悪化しているといえよう。

-その左証として、教師の中途退職、それも鬱など精神を乱し、壊しての逃避的退職が多い。
そして、教師のなり手がいないから、教師はドンドン劣化し、子ども達がその被害に晒されることとなる。
こんなことは昭和にはあり得なかった。

-男女協働参画、共働きでなければ家庭を維持できない時代であるからこそ、子ども達の教育、保育所・幼稚園、学校がすこぶる大切になってきている。
そのような問題こそ正面から向かわなければならないのだが、なぜかまともに取り上げられることはない。
教育全体の底上げを如何に行うか、ではなく、教師・学校の失体をことさら大きく取り上げ、条件反射的に責任回避行動をとるという悪しき方向へと走らせているようだ。

-子ども達の身体を観るが良い。皆、コチコチだ、身体を、手先をキチッと仕えない子が多い。
体罰だとか色々言うが、昭和・私達の時代は、皆、身体、手足を動かし、しなやかな身体を持っていた。それが昭和の活力の源線だろう。

-また、昭和と言っても64年もあり、一緒くたにしてはならない。
この動画は、敗戦後の教育を示しているようだから、昭和後期であり、私達の年代が生きた時期だ。それを昭和と一括りにしてはならない。
行政的な言葉を用いるならば、「戦後教育」であり、これをあえて「昭和」と拡大する物言いには悪意を感じる。
あるいは、戦前狂育のつもりだろうか?

-社会に出てからは、超々ブラックな働き方をさせられたが、目の前に現れたものをこなすのが精一杯で、他のことは考える余裕はなかった。しかし、これをこなす体力はあったし、それによって実力はついた。
これは昭和(後期)を生きたものの実感である。

-現代の目線・価値観で、過去の体罰的な問題をあげ連ねても意味は無い。
身体、心の柔らかなものは、これを跳ね返し生きてきた。それが、野生の力だろう。

-現代はむしろ、昭和の良い意味での活力を、いかに現代に甦らせられるか、いかに元気な子を育てるか、という工夫が重要だろう。
古くて新しいもの、科学的に裏付けされた教育法、トレーニングなどが生まれてきている。
しかし、伸び伸びと子ども達を伸ばすという方法を取り上げ実践している教師、トレーナー、師匠と称される方が僅かなことがむしろ気かがりである。

-どうも学校の教師は、教育者ではなく、国は、子ども達を管理するものとしての役割を強化されているようであり、それも書類で記録を残す、見せるための管理、責任回避のための管理が強化しているようだ。
まずは、このような制度を見直さなければならないだろう。

-いつも説くことだが、子ども達の教育については、学齢期にはいる前、習い事始めの時期以前に、キチッと野生の時期を経過させる事ができたかということが大きいだろう。
これは、心身の野生ということでもあるが、人間集団としての野生の心得を身に付けるということでもある。
それが「躾」だろう。

-児童の教育について、森信三先生は次のことを記している。
> 小学校入学前に躾ける。
> 学齢に達するということは、ものの道理が分かるということ。
> 裏返すと、我が強くなったということ。
> 親から言われたら反抗してしまう。
> 我の出ないうちに躾けなければならない。

-私の説くところと同じことを示しており、これが人間集団の中で学ぶ、学校で学ぶ前に、静かに長時間椅子に座り話しを聞くことのできる体力、気力、集団の中での和する力を培うということなのだろう。

-これもまた、極端に走ると軍国主義的な集団狂育となり、逆に悪しき自由に走ると統制の取れないものとなってしまう。昭和(後期)は、ある面軍国主義の残渣があり、現代は制限なしの自由により、いずれも極端に揺れ、子ども達を傷つけている。

-しかし、昭和の子は、元気に跳ね返し生きてきたのだが、現在のひ弱にしてしまう狂育では、今後予想される様々な環境の劣化・悪化のなかでは生き残ることが困難となるだろう。
いずれも極端は狂育と称する状態となってしまうので、バランスの取れた本来の、子ども達を元気にし、能力を目一杯に伸ばしてあげることのできる本来の教育へと回帰してほしいと願っている。

-そのためには、教師を管理要員ではなく、本来の教師として振る舞うことのできるよう、国民・親が、教育制度そのものに対して厳しい目を向けなければならないだろう。
私が狂育と揶揄する世界から、真の教育へと脱皮を願うのみである。

-真の教育・それは、昭和だ、現代だ、というものではなく、普遍的なものだろう。戦乱・混乱の時代は、そのような良きものが裏に隠されてしまう。明治、昭和、そして現在もまた、一見平和で安定している時代のように見えるが、精神的バックボーンは揺れまくり、不安定な状態が続いている。このことを意識し、普遍的な世界が現れるような教育が行われるよう願い、動き、働くのみ。皆が、普遍的な世界に気づくまで

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