足尾銅山煙害(亜硫酸ガス)によるはげ山を緑化したところです。
多くの人々が、低山ながらも展望がよいとして訪れる草原状の中倉山、沢入山の稜線は、はげ山だった時代の名残なのです。
これをネタに、いつもの大きな話をしてみましょう。
長いですよ。
足尾鉱山は、日本の銅産出量の40%を算出し、近代国家となる礎の一つとなったのです。。
しかし、一方では、洪水被害の拡大、鉱毒問題などを発生させました。
歴史的には、正と負の側面を明確に対峙させて見せてくれる面白い場所なのです。
そして、そのような正負の問題は、足尾ほど極端ではないものの、現在まであちこちで続いているといえるのです。
負による側面に対しては、田中正造を中心とする公害問題の指摘活動、それに続く人々の100年にわたる訴訟が行われました。
我が国の公害防止活動の原点となりました。
また、このはげ山を緑化するために新たな緑化の方法が考案され実施されました。
階段状に土留めし、土砂流出を防ぎ、先駆樹種を植えるという明治から続く伝統的な治山緑化手法とともに、外来牧草を緑の絆創膏として用い、早急に緑化被覆し表土の保全、表土の生成をはかり、その後の植生遷移による自然回復のスターターとしたのです。
我が国における、公害・緑化、環境問題の原点ともいえる場所なのです。
この景色から、正と負?、両方の側面を持つものとして見ていただけるとよいと考えます。
また、現在の我々の抱えている問題に対して、田中正造の活動などを逆照射していただけると幸甚です。
現在は、過大な被害者意識、負の側面のみを上げへつらい個人の保証を求めるという風潮が強くなってしまったのですが、田中正造が中心となって行った命がけの農民運動(押し出し)などの活動は地域の生活の場を守るという国に対峙する運動、真摯に今一度見直すことが必要と思われます。
当時の欧米列強の植民地に組み込まれないための殖産興業の一環としてた足尾銅山があるのですが、それによる環境問題の発生により地域住民が大きな被害を被りました。
その負の問題に対抗するために、地域住民の生活自衛のために時の権力に対し立ち上がったのが田中正造でした。
地域の自立自尊の生活を守ろうという信念が根っこにあったものと考えられます。
現在は、地域の生活自衛というものてではなく、個人が保証・助成金に絡め取られ、地域の独立心がそがれ、地域地域コミュニティが解体されようとしています。
都会では、すでに地域コミュニティはなきに等しい状態。
田中正造が目指した世界は、個人の保証ではなく、地域の生活を守るということだったと思っています。
しかし、現在は個人保証という毒薬により、地域のコミュニティが分断され、地域の活力が失われてしまっています。
生き物としての群れが暮らす場・地域よりも、個人を優先させてしまった結果です。
地域、個人のバランス感覚を失わせてしまった結果です。
その結果、地域との絆を取り去り、個人という側面のみを強調し、人の労働に対してまで、流動性などという言葉を使い、経営社の都合により切り捨てられるもの、根無し草となる方向へと推し進められました。
互いに助け合って生きてゆく群れではなく、個に分割されると身を守るすべを失ってしまいます。
個人は自由だ、好き勝手ができると、わがままが認められてゆく、その陰で進められた個の分断です。
今後は、さらにそのような方向性が強化されそうです。
地域コミュニティの自立自尊の精神がそがれてしまったため、未来を見ることなく、今さえよければということで、種子法の廃止、TTPなど我が国の未来、子々孫々の未来を奪い取るような問題に対し、無関心でいられるのです。
最近の動きについて、逆照射してみるとこのようにいえると思います。
それは、国(官僚)がなんとかしてくれるという、ぶら下がりの思想が根底にあるからです。
しかし、国(官僚)は民を効率的に治めるための知恵を絞るところであり、その国は、民の方を向いているとは限らないのです。
足尾の場合は、そのような傾向が大きく出、公害問題として噴出したわけですが、世界の政治・経済の運営は概ねそのような仕組みの上にできています。
民主主義とは、民の代表である代議士が、国を運営する官僚と対峙するこにより、民意が政治に反映されるということを指すのですが、地域コミュニティが解体された今、そのようなことは望めません。
地域のためというよりも、個人の利益により票を集めることができるからです。
そして、選挙の棄権とは、官僚に白紙委任するという意思表示となっていることに気がつきません。
地域のため、子々孫々が豊かに暮らすためということよりも、今が大切ですから、今の利益、目の前のにんじんを食べるために票を投じてしまうのです。
にんじんをぶら下げるのは、経済サイドです。
これにより、短期のもうけが優先され、未来の美林を作ろうという観点からの法は作られることがなくなり、美林、豊かな国土、農業を子孫に残せない状態となってしまいました。
民が食べてゆくための農業・産業ではなく、もうけを出すための農業・産業へと目的の変換がなされたのに、多くの民が気がつきません。
産業廃棄物、環境汚染は大きな問題。
しかし、TTPや二国間協議により、じわじわと健康被害をもたらす農薬、遺伝子組み換え食品の組み合わせ、食品添加物などの防波堤が打ち壊され、無制限に押し寄せ、鉱毒などよりも数段大きな産業公害、直接体内の汚染が進むという状態が発生してるのですが、問題としようとしません。
田中正造のようなリーダー、政治家の出現を願うとともに、公害を認めさせるために100年間闘い続けた民がいた、100年もかかったということを思いだし、子々孫々が安心て暮らすことにできる、豊かな国土をバトンタッチできるようになることを祈らざるをえません。
足尾の地は江戸時代から続く鉱山故、山の木は鉱石の精錬のため切り出され、はげ山となり、さらに近代精錬技術による亜硫酸ガスの発生により草木・低木類まで失ってしまいました。
当然、緑の被覆を失った山は崩れ、河川下流に堆積し天井川となり、台風による洪水により流され、下流に甚大な洪水被害をもたらすことになります。
鉱毒による健康被害も発生させるととなります。
このような問題に対し、立ち上がったのが田中正造です。
そして、はげ山を緑化し、洪水被害の軽減を図ることとなりました。
そのとき大活躍をしたのが、安価で効率的な外来牧草でした。
敗戦後の貧しいとき、安価に効率的に緑化し国土を守ったのです。
はげ山という面では足尾は極端でしたが、昭和30年代、燃料革命により石油を燃やすようになるまでは、全国の山ははげ山だらけでした。
大雨が降れば洪水となり、下流に土石が流され大被害が発生するということが続いていました。
そのはげ山を、治山・砂防工事などにより緑化し、また、治水・利水のためダム・護岸工事を行い、安全・安心な国土造りを行ってきたのです。
そのとき広い面積を利四日するために、外来牧草が用いられたのです。
私たちの先輩の仕事です。
結果、山は緑になり、安心・安全の国土を作ることができました。
そのような功績が大きな外来牧草を、60年以上使い続け、日本の国土を緑に服すきっかけ作りをした外来牧草を、60年をかけ緑になったからと、その緑だけを見て、ペテンにも等しい論文で外来だから悪者だと決めつける生態学者は何様のつもりでしょう。
恩を忘れた、人非人、天に唾する者と指弾をしておきましょう。
そのような論調を認め、悪乗りしている環境行政も国民を欺くものといえ、等しく同罪です。
治山事業によりはげ山は緑となりました。
また、人手の入れられるはげ山や、はげ山に近い薪炭林には有用樹が植えられました。
スギ、ヒノキなどの針葉樹・人工林です。
急勾配地や深山などの薪炭林はそのままです。
そして、燃料革命となりました。
結果、薪炭林としてきた里山は放置され、そのまま大きくなり、人工林にも手を入れることができなくなった状態で大きくなりました。
40年で、はげ山が緑になってしまうのですが、このようなことが全国で大なり小なりの規模で起きていたのです。
大きく見るならば経済変化の問題、市場の変化の問題ですが、なぜそのまま放置してしまうこととなったのでしょう。
このような国土の緑は、戦国以来のこと、この500年来、かつてなかった状態の景色なのです。
現在は、人手を入れらることのできなくなった緑は、どのように推移してゆくかということを、全国の山で大実験をしているのです。
しかし、生態学者は、そのような人の活動とともにあった緑を、大昔からあった自然、自然は弱いものだから手をつけるなと教え、自然は保護すべきもの、それが正義、人工林は悪、自然に手を入れることは悪だと教え、世論を誘導します。
白黒、善悪という単純化した話は、わかりやすいやすいため、皆、自然保護という安直な考え方による洗脳されてしまい、山の緑の管理を忘れてしまいました。
と、いうよりも、管理をしなくともほっとくのが自然だという手抜きのための根拠を与えてしまったのです。
管理をしなくともよいという理屈は便利ですから、行政が管理を先送りするための理屈としても用いてしまったとおもいます。
そして、その傷口は大きくひろがってしまいました。
結局、外観は緑であっても、山の緑、生態系は荒れ果ててしました。
大いなる質の低下です。
人手の入らなくなった自然の中で、シカ、イノシシ、クマ、サルなどが我がもの顔で跋扈するようになりました。
人間様を含む生態系の崩壊です。
生態学者のいう人間を含まない生態系は、日本の中には高山などごく一部にしか存在しないのですが、理念的な生態系のみが教育され続けました。
自然に手をつけるな、守れといい続けてきた人たちは、このような状態になるということは予想もできなかったのでしょうし、その適切な対策を示すこともありません。
人間を含まない生態系は存在しないのですから、日本全国、人手の入った緑ばかりですから、良好な自然を維持するためには管理をし続けなければならないのです。
ならば、誤りを認め管理しろ、といえばよいのですが、そのような提案は出てきません。
里山の荒廃が明らかになった時点で、里山管理について最近になって最もらしく言い出した程度です。
そんなことは、結果論ですから学者でなくともわかります。
問題は理屈ではなく、放置を許容してきたから、管理費が膨大になり、手のつけようがないということなのです。
しかし、生態学者は相変わらず、里山以外に対する自然に手を入れることを否定し続けています。
木を切る木こりは悪者、それでいて人工林は悪者、また、外来牧草を播くものは悪者と、悪者造りを続けています。
このような考え方が環境行政に組み込まれ、生物多様性保全が自然保護の隠れ蓑となって叫ばれてしまいました。
60年以来使い続けてきた、枯れた技術までも用いてはならぬとし、様々な問題を発生させてしまいました。
悪者を作り出すことは、紙芝居としては面白いのかもしれませんが、物事は解決に向かわず悪化させてしまうばかりです。
ひょっとしたら、これまで言い続けてきた悪者を作り出すという論法が皆の頭の中にすり込まれ、子供たちのいじめを助長しているのではないかと思うほどです。
健全・健康な緑、国土を形成してゆくためには、身近な自然に対しては適切な管理が必要なのです。
また、必要に応じて外来牧草なども含む多様な植物を使いこなすことが必要なのです。
これまで善悪二元論により洗脳された頭を切り替え、多様な技術を使いこなし、適正な管理をいかに行うかについて、自分の頭で考えていただけるならば幸いです。
足尾をネタにして、公害と緑の側面について長々記しました。
物事には正負の両方の側面があり、善悪二元論的な説明を信じ込んでしまうと、思わぬしっぺ返しがやってくる。
大きな事業を行うに際しての官の綺麗な説明、そして官の動きを保証する学とのなれ合いにより、民を洗脳によって方向付け推進する正義の仮面をかぶった事業という側面について、足尾のみの問題とせず、全国、今現在の問題として認識してもらいたいのです。
いったん始まってしまうとその動きは止めることができず、足尾鉱毒事件の法的な解決には100年を要し、失われた山の緑を取り戻すために今なお事業が継続されているという事実について、今一度真摯に考える必要があるでしょう。
2018.09.24.FB
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