「ひまなか(中野裕司)」の感じ、考えたこと・・・・・・・・・。                                  ML・FBなどの投稿を掲載します。

「生物多様性保全」カテゴリーのアーカイブ

生物多様性と生物多様性「保全」なにが違う?

けふ(もう昨日か)は、東京農大で打合せ。
サクラは丁度良い塩梅です。
道中、新入社員、新入生の初々しい姿が見え、なにか嬉しい気分となりましたね。

私の預かる(特非)日本緑化工協会は、毎年7月下旬に東京農大で緑化工技術講習会を行っている。
その内容、協会の今後の方向性などについて意見交換を行った。

「生物多様性」については多様性が高まるほど生態系は安定するから異存はない。
しかし、「生物多様性保全」と「保全」が入ると極めて政治色の強いものとなり、学問が政治に汚染されてしまった。
なにせ、お国の方針に従わないと研究費が手に入らないのだから。
また、自然には手を付けるなと言う自然保護論者が、生物多様性保全を隠れ蓑にして浮上してきた。
政治に敵対してきた自然保護運動が、政治に取り込まれたのだから大喜び。
高温多雨な我が国の自然は、徹底的に管理を行わなければ荒れ果ててしまうのに、そのような方向へは進めようとはしないのだ。

連合国(国連)地球サミット(1992年)で始まった生物多様性保全条約による取組なのだが、自然の中に外来種という悪者がいるので、その悪者を排除しろというもの。
やり玉に挙がったのは外来牧草。
法面は面積が大きく目立つから、昔から自然保護論者の目の敵にされてきた。
政治と密着したことによりおおっぴらに叩くことができると大喜び。
以前は「牧草」で済んでいたのに、生物多様性保全の取組が始まってからは、外来牧草と「外来」というレッテル張りが行われました。
法面緑化では、70年以上前から牧草を用い続けており、牧草で覆ったところは自然に復元していて問題はないのにね。
問題とする理由は、自生する在来種を駆逐するというのだ。
しかし、その原因を探るならば人間様が環境を改変し、在来種が生育できなくなくしてしまった、砂漠のような状態としてしまったからである。
にもかかわらず、外来種、外来牧草は敵だ、駆逐しろ、使うな、という論法。
その原因を造った、自然環境の中に砂漠のような状態をつくったのは人間様だし、環境が整うならば特殊な環境にしか生育できない牧草は衰退してしまうのだが~。
自分たちが行った行為に対し糾弾するたけの不思議な論法がまかり通る学問としてしまったのは金と政治のため。
おかしい、問題だ、世界より遅れている、世界標準に従うのだと騒ぐほどに予算がつくのだから。

本気で外来種を駆逐したいのならば、改変した環境を元に戻さなければならないのだが、それは物理的に無理なので、牧草に八つ当たりしているのだ。
放っておげは、時間が経つならば自然に消えて行く牧草にはいい迷惑だ。

外来牧草は敵だという論法の生物多様性保全が法面緑化に本格的に及んでから20年以上が経過した。
私は、自然保護運動的な取組の時代から、このような偏った考え方に棹さし続けてきた。
桃太郎の鬼退治じゃあるまいし、悪者を退治すれば済む話しではない。
お役所の見せるための仕事に振り回されてきたのだ。
学問(生態学)の世界は猫も杓子も生物多様性保全に汚染されっぱなして20年以上が経過した。
そろそろ現実に即したところ、当たり前のことがあたりまえに行えるようにしようよという取組に関する打合せ。

家に戻ったら、カラフルな餃子が出てきたよ。
ババの果樹園から、ネギと共にほうれん草を沢山持ち帰った。
有機栽培無農薬。
餃子の具はほうれん草。
ついでに、皮にもほうれん草を入れたんだとさ。

しばらくはネギとほうれん草攻めと思ったが、ほうれん草は茹でて冷凍してすこしづづ使うんだってさ。
ならばネギもそうしたらと、提案したのだが~。

食べ物は農薬や食品添加物などで汚染され、これを何とかしなければならない。
法面の外来種退治などにうつつを抜かしている暇はない、生活習慣病などいのちに係わる問題を優先課題とすべきなのに、縦割り行政は予算消化のために見せるための仕事、連合国(国連)の命を遂行すべく作業を続けている。

こんな非生産的なことをするために税金を納めているのではないと言いたくなってしまいます。
否、サラリーマンは税金を給与からむりやり抜き取られているから、自分の懐が痛んだという気がしないのですね。
欧米のように、収入は自己申告する仕組みに変えなければなりませんね。
さすれば、政治に対して無関心ではいられなくなるはずですね。

足尾銅山煙害地の緑化・自然回復

足尾銅山煙害(亜硫酸ガス)によるはげ山を緑化したところです。
多くの人々が、低山ながらも展望がよいとして訪れる草原状の中倉山、沢入山の稜線は、はげ山だった時代の名残なのです。

これをネタに、いつもの大きな話をしてみましょう。
長いですよ。

足尾鉱山は、日本の銅産出量の40%を算出し、近代国家となる礎の一つとなったのです。。
しかし、一方では、洪水被害の拡大、鉱毒問題などを発生させました。

歴史的には、正と負の側面を明確に対峙させて見せてくれる面白い場所なのです。
そして、そのような正負の問題は、足尾ほど極端ではないものの、現在まであちこちで続いているといえるのです。

負による側面に対しては、田中正造を中心とする公害問題の指摘活動、それに続く人々の100年にわたる訴訟が行われました。
我が国の公害防止活動の原点となりました。

また、このはげ山を緑化するために新たな緑化の方法が考案され実施されました。
階段状に土留めし、土砂流出を防ぎ、先駆樹種を植えるという明治から続く伝統的な治山緑化手法とともに、外来牧草を緑の絆創膏として用い、早急に緑化被覆し表土の保全、表土の生成をはかり、その後の植生遷移による自然回復のスターターとしたのです。

我が国における、公害・緑化、環境問題の原点ともいえる場所なのです。

この景色から、正と負?、両方の側面を持つものとして見ていただけるとよいと考えます。
また、現在の我々の抱えている問題に対して、田中正造の活動などを逆照射していただけると幸甚です。

現在は、過大な被害者意識、負の側面のみを上げへつらい個人の保証を求めるという風潮が強くなってしまったのですが、田中正造が中心となって行った命がけの農民運動(押し出し)などの活動は地域の生活の場を守るという国に対峙する運動、真摯に今一度見直すことが必要と思われます。

当時の欧米列強の植民地に組み込まれないための殖産興業の一環としてた足尾銅山があるのですが、それによる環境問題の発生により地域住民が大きな被害を被りました。
その負の問題に対抗するために、地域住民の生活自衛のために時の権力に対し立ち上がったのが田中正造でした。
地域の自立自尊の生活を守ろうという信念が根っこにあったものと考えられます。

現在は、地域の生活自衛というものてではなく、個人が保証・助成金に絡め取られ、地域の独立心がそがれ、地域地域コミュニティが解体されようとしています。
都会では、すでに地域コミュニティはなきに等しい状態。

田中正造が目指した世界は、個人の保証ではなく、地域の生活を守るということだったと思っています。
しかし、現在は個人保証という毒薬により、地域のコミュニティが分断され、地域の活力が失われてしまっています。
生き物としての群れが暮らす場・地域よりも、個人を優先させてしまった結果です。
地域、個人のバランス感覚を失わせてしまった結果です。

その結果、地域との絆を取り去り、個人という側面のみを強調し、人の労働に対してまで、流動性などという言葉を使い、経営社の都合により切り捨てられるもの、根無し草となる方向へと推し進められました。
互いに助け合って生きてゆく群れではなく、個に分割されると身を守るすべを失ってしまいます。
個人は自由だ、好き勝手ができると、わがままが認められてゆく、その陰で進められた個の分断です。
今後は、さらにそのような方向性が強化されそうです。

地域コミュニティの自立自尊の精神がそがれてしまったため、未来を見ることなく、今さえよければということで、種子法の廃止、TTPなど我が国の未来、子々孫々の未来を奪い取るような問題に対し、無関心でいられるのです。
最近の動きについて、逆照射してみるとこのようにいえると思います。

それは、国(官僚)がなんとかしてくれるという、ぶら下がりの思想が根底にあるからです。
しかし、国(官僚)は民を効率的に治めるための知恵を絞るところであり、その国は、民の方を向いているとは限らないのです。
足尾の場合は、そのような傾向が大きく出、公害問題として噴出したわけですが、世界の政治・経済の運営は概ねそのような仕組みの上にできています。

民主主義とは、民の代表である代議士が、国を運営する官僚と対峙するこにより、民意が政治に反映されるということを指すのですが、地域コミュニティが解体された今、そのようなことは望めません。
地域のためというよりも、個人の利益により票を集めることができるからです。
そして、選挙の棄権とは、官僚に白紙委任するという意思表示となっていることに気がつきません。

地域のため、子々孫々が豊かに暮らすためということよりも、今が大切ですから、今の利益、目の前のにんじんを食べるために票を投じてしまうのです。
にんじんをぶら下げるのは、経済サイドです。
これにより、短期のもうけが優先され、未来の美林を作ろうという観点からの法は作られることがなくなり、美林、豊かな国土、農業を子孫に残せない状態となってしまいました。

民が食べてゆくための農業・産業ではなく、もうけを出すための農業・産業へと目的の変換がなされたのに、多くの民が気がつきません。
産業廃棄物、環境汚染は大きな問題。
しかし、TTPや二国間協議により、じわじわと健康被害をもたらす農薬、遺伝子組み換え食品の組み合わせ、食品添加物などの防波堤が打ち壊され、無制限に押し寄せ、鉱毒などよりも数段大きな産業公害、直接体内の汚染が進むという状態が発生してるのですが、問題としようとしません。

田中正造のようなリーダー、政治家の出現を願うとともに、公害を認めさせるために100年間闘い続けた民がいた、100年もかかったということを思いだし、子々孫々が安心て暮らすことにできる、豊かな国土をバトンタッチできるようになることを祈らざるをえません。

足尾の地は江戸時代から続く鉱山故、山の木は鉱石の精錬のため切り出され、はげ山となり、さらに近代精錬技術による亜硫酸ガスの発生により草木・低木類まで失ってしまいました。
当然、緑の被覆を失った山は崩れ、河川下流に堆積し天井川となり、台風による洪水により流され、下流に甚大な洪水被害をもたらすことになります。
鉱毒による健康被害も発生させるととなります。
このような問題に対し、立ち上がったのが田中正造です。

そして、はげ山を緑化し、洪水被害の軽減を図ることとなりました。
そのとき大活躍をしたのが、安価で効率的な外来牧草でした。
敗戦後の貧しいとき、安価に効率的に緑化し国土を守ったのです。

はげ山という面では足尾は極端でしたが、昭和30年代、燃料革命により石油を燃やすようになるまでは、全国の山ははげ山だらけでした。
大雨が降れば洪水となり、下流に土石が流され大被害が発生するということが続いていました。
そのはげ山を、治山・砂防工事などにより緑化し、また、治水・利水のためダム・護岸工事を行い、安全・安心な国土造りを行ってきたのです。
そのとき広い面積を利四日するために、外来牧草が用いられたのです。
私たちの先輩の仕事です。
結果、山は緑になり、安心・安全の国土を作ることができました。

そのような功績が大きな外来牧草を、60年以上使い続け、日本の国土を緑に服すきっかけ作りをした外来牧草を、60年をかけ緑になったからと、その緑だけを見て、ペテンにも等しい論文で外来だから悪者だと決めつける生態学者は何様のつもりでしょう。
恩を忘れた、人非人、天に唾する者と指弾をしておきましょう。
そのような論調を認め、悪乗りしている環境行政も国民を欺くものといえ、等しく同罪です。

治山事業によりはげ山は緑となりました。
また、人手の入れられるはげ山や、はげ山に近い薪炭林には有用樹が植えられました。
スギ、ヒノキなどの針葉樹・人工林です。
急勾配地や深山などの薪炭林はそのままです。
そして、燃料革命となりました。
結果、薪炭林としてきた里山は放置され、そのまま大きくなり、人工林にも手を入れることができなくなった状態で大きくなりました。
40年で、はげ山が緑になってしまうのですが、このようなことが全国で大なり小なりの規模で起きていたのです。

大きく見るならば経済変化の問題、市場の変化の問題ですが、なぜそのまま放置してしまうこととなったのでしょう。

このような国土の緑は、戦国以来のこと、この500年来、かつてなかった状態の景色なのです。
現在は、人手を入れらることのできなくなった緑は、どのように推移してゆくかということを、全国の山で大実験をしているのです。

しかし、生態学者は、そのような人の活動とともにあった緑を、大昔からあった自然、自然は弱いものだから手をつけるなと教え、自然は保護すべきもの、それが正義、人工林は悪、自然に手を入れることは悪だと教え、世論を誘導します。
白黒、善悪という単純化した話は、わかりやすいやすいため、皆、自然保護という安直な考え方による洗脳されてしまい、山の緑の管理を忘れてしまいました。
と、いうよりも、管理をしなくともほっとくのが自然だという手抜きのための根拠を与えてしまったのです。
管理をしなくともよいという理屈は便利ですから、行政が管理を先送りするための理屈としても用いてしまったとおもいます。
そして、その傷口は大きくひろがってしまいました。

結局、外観は緑であっても、山の緑、生態系は荒れ果ててしました。
大いなる質の低下です。
人手の入らなくなった自然の中で、シカ、イノシシ、クマ、サルなどが我がもの顔で跋扈するようになりました。
人間様を含む生態系の崩壊です。

生態学者のいう人間を含まない生態系は、日本の中には高山などごく一部にしか存在しないのですが、理念的な生態系のみが教育され続けました。
自然に手をつけるな、守れといい続けてきた人たちは、このような状態になるということは予想もできなかったのでしょうし、その適切な対策を示すこともありません。

人間を含まない生態系は存在しないのですから、日本全国、人手の入った緑ばかりですから、良好な自然を維持するためには管理をし続けなければならないのです。
ならば、誤りを認め管理しろ、といえばよいのですが、そのような提案は出てきません。
里山の荒廃が明らかになった時点で、里山管理について最近になって最もらしく言い出した程度です。
そんなことは、結果論ですから学者でなくともわかります。
問題は理屈ではなく、放置を許容してきたから、管理費が膨大になり、手のつけようがないということなのです。

しかし、生態学者は相変わらず、里山以外に対する自然に手を入れることを否定し続けています。
木を切る木こりは悪者、それでいて人工林は悪者、また、外来牧草を播くものは悪者と、悪者造りを続けています。
このような考え方が環境行政に組み込まれ、生物多様性保全が自然保護の隠れ蓑となって叫ばれてしまいました。
60年以来使い続けてきた、枯れた技術までも用いてはならぬとし、様々な問題を発生させてしまいました。

悪者を作り出すことは、紙芝居としては面白いのかもしれませんが、物事は解決に向かわず悪化させてしまうばかりです。
ひょっとしたら、これまで言い続けてきた悪者を作り出すという論法が皆の頭の中にすり込まれ、子供たちのいじめを助長しているのではないかと思うほどです。

健全・健康な緑、国土を形成してゆくためには、身近な自然に対しては適切な管理が必要なのです。
また、必要に応じて外来牧草なども含む多様な植物を使いこなすことが必要なのです。
これまで善悪二元論により洗脳された頭を切り替え、多様な技術を使いこなし、適正な管理をいかに行うかについて、自分の頭で考えていただけるならば幸いです。

足尾をネタにして、公害と緑の側面について長々記しました。
物事には正負の両方の側面があり、善悪二元論的な説明を信じ込んでしまうと、思わぬしっぺ返しがやってくる。
大きな事業を行うに際しての官の綺麗な説明、そして官の動きを保証する学とのなれ合いにより、民を洗脳によって方向付け推進する正義の仮面をかぶった事業という側面について、足尾のみの問題とせず、全国、今現在の問題として認識してもらいたいのです。
いったん始まってしまうとその動きは止めることができず、足尾鉱毒事件の法的な解決には100年を要し、失われた山の緑を取り戻すために今なお事業が継続されているという事実について、今一度真摯に考える必要があるでしょう。

2018.09.24.FB

生物多様性保全、「悪夢のような時代は終わった」    「外来種の駆除を保全の目的としてはならない」

生物多様性保全、「悪夢のような時代は終わった」。
そのようになって欲しいですね。

現在の環境省主導で行っている駆逐・駆除を前提とする生物多様性保全は、自然保護というイズムを行政が取り込んだ対症療法的なものであり、過去の姿を固定化してしまおうという力付くの方法ともいえ、生態系の総合的な保全にはなり得ないと主張してきた。

人間の時間感覚ではなく、自然というレベルの時間の流れの中では、外来種を含んでの安定した生態系が生まれ出るだろう。
もう少し、時間のスパンを長くみての事実確認が必要だろう。
自然の時間の流れの中で、生物多様性保全というものを考えて行くということが本質であって、生物純血主義的な過去・現在の姿を固定してしまおうという現在のあり方は、むしろ生物多様性保全に対し棹さすやり方ではないのか、という素朴な疑問を持っている。

また、人体に直接的な被害を及ぼす生き物の場合は駆逐・駆除も1つの手段だが、過去数十年、数百年に遡り、国内に帰化し生きてきた種にまで、法の力によって遡り、駆逐・駆除を計るのはいかがなものであろうか、という問いでもあった。

今後に備えてという立場なら良いが、理念法を拵え、過去に遡り悪者としようという方法は、法の不遡及という大原則に反するもの、裁量により何でもありとなってしまいかねない。
過去に移入した種に対しては、個別に法を作り、承認を得るという丁寧な作業が必要だろう。

さらには、自然の中に外来種という悪者がいるから退治するのだという、勧善懲悪的な自然観を子ども達に植え付けるな、本来の自然、中立的な自然、ありのままの自然を観察するという感性が失われてしまう、という主張でもあった。

以上の問いかけに対し、キチッと答えてくれる行政・専門家・学者は残念ながら皆無であった。
黒船のようやってきた生物多様性条約により始まった、政治・行政的なトップダウンの動き、生物多様性保全の名を借りた自然保護的な政策なのだが、学問の世界は流行に乗り遅れるなという動きのみが目立った。

このような疑問に対して明確に答えてくれたのが、フレッド・ピアスの「外来種は本当に悪者か-新しい野生 THE NEW WILD-(草思社)」であった。
外来種を含む生態系、外来種が造り出す生態系というものを明確に示してくれた。
外来種は悪者ではない、新たな生態系の担い手だ、ということを明確に示してくれた。

私は、その感想として、後10年もしたらこのような考え方が我が国にも現れ、まともな生物多様性の取組がなされるようになるのではないかと、記した。

しかし、嬉しいことにそのような考え方が既に示されていた。
ピアスも海の中の孤島の生態系について扱っていたが、ここでは小笠原列島の母島が舞台となる。
海鳥の繁殖地の島と、海鳥が絶滅してしまった島の比較である。

保護的な色彩の強い現在の生態学の考え方からいうならば、海鳥の繁殖する島の方が豊かな生態系を持っているものと想像してしまうが、あにはからんや、海鳥が絶滅した島の方が緑豊かな、すなわち多様性の富む生態系となっているというのだ。
海鳥が消失した島は、海鳥により植生が踏み荒らされないため、緑豊かになるというのだ。
すなわち、ただ守れば良い、昔に戻せば良いという訳ではない、ということになる。

生態系は、動的に絶えず変化し、その時々の条件に即した安定を保とうとするのだ。
条件の変化にフレキシブルに対応するためにこそ、生物多様性が重要となるのだ。
生態系を現状のまま固定化しようとする、行政主導で進めている自然保護的な生物多様性保全と、生物多様性は異なる概念なのだ。

海鳥の住む島は、昔はグアノ(リン鉱石・窒素源)の掘削地だった。
リン酸、窒素源として掘削されつくし、現在ではグアノ資源は枯渇してしまった。
そのようにいわれてみれば、グアノの採掘した島々は、緑豊かな島というイメージはない。
グアノの島は、生物多様性という面では劣っていた、脆弱な自然ということになる。

動的な自然、気象・人間活動も含め動的な自然を過去・現在を含め、固定的に捉えることは、どだい無理な話なのだ。
固定的に考える、自然には手をつけるべきではない、ということも含め、管理という観念が先にある。
すなわち、保護・保全だろうが、開発だろうが、私たちの価値観で物事を見ているということでは同じということなのだろう。

昔、米国では、グアノ法という法律を作って、所有者(白人)のいないグアノを堆積する島は、世界のどこであっても米国の領土とするとして、グアノ採掘を行った。
米国に限らず、西洋列強の植民地政策による資源争奪の1つがグアノ、リン鉱石・窒素を巡るものであった。
今では、海鳥を保全せよ、手をつけるなだ。
化学合成など、他の手段により窒素・リン酸分の確保が可能となったから、海鳥の保全が可能となったのであり、ご都合主義といわれても仕方が無いだろう。

海鳥を失ったこの島の場合、海鳥の生息の復元を計り遠い将来のグアノの蓄積を計るか、海鳥を失った後に成立した豊かな緑を良しとし認めるか、ということになるが、理念・原理原則的な生物多様性保全の考え方をするならば、海鳥の復活ということになるのだろうし、現実的な考え方に立つならば現状の肯定ということとなろう。

いずれにしろ、現状では人間様の都合、声の大きな方になびくということになるのだろうから、このレポート「外来種の駆除を保全の目的としてはならない」は、無理無駄のない、多くの人々が納得できる常識的な範囲での生物多様性保全の取組へと進むための一歩となるニュースとなると良いなと考える。

・外来種の駆除を保全の目的にしてはならない理由
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/web/17/120700018/030200003/?P=3

FB:H300307

地球温暖化・生物多様性保全、どこまで本気?

外来種問題:クズ -外国では侵略的外来種-

外来種問題:タカサゴユリ

外来種は本当に悪者か? 新しい野生 THE NEW WILD 読後感想

外来生物法:生態系・生物多様性保全を人間よりも上位とする法?

外来種は悪者か? 新しい野生 THA NEW WILD 書評を読んで

里地・里山管理を公共事業に!

里地・里山の風景は日本の原風景。
生物多様性の保全、外来植物の駆逐などという正体不明なものに税金を投ずる事はナンセンス。
里地、里山の保全にこそ投資をすべき。
さすれば、自ずから生物多様性は保全される。
外来の弱い自然を相手にする翻案生態学こそ駆逐すべきもの。
わが国の自然・風土、暴力的ともいえる再生力を無視し、実態と乖離した説を唱えるため、様々な嘘がはいる。
極相、自然林、広葉樹信仰。
挙げ句の果てには、自然林の生えている山は崩れない。
人工林は駄目。
この、神話により、多くの人の命が失われた。
樵、林業を悪者扱いするために、林業労働者のなり手が居なくなった。
今流行りについて乗り遅れるなと、やっと、管理が必要、里山は大切と言い始め、微妙に方向修正をし始めたのがここ数十年(十数年?)。
しかし、過去の神話はそのまま生かしつつ、生物純血主義を説き、新たな神話を作り出した。
外来種を駆逐するために多様な主体を動員するとの行動計画・国民総動員。
外来種というテロとの戦いだ。
永遠の戦いとなってしまう。
もう、信仰の世界だ。
このようなものに税金を投ずるのは無駄だろう。
理念理想を唱えるのではなく、里地・里山の保全・管理と具体的に示し、行うべきだろう。
減反など、何もしない農家に助成を行い続けてきた。
ならば、里地・里山の管理こそ助成をすべきだろう。
国土 ・景観・水源・多様性などの保全、国土の自然という公共財の保全、いくらでも理由は見つかる。
観光立国などとも言っていた。
緑の税、環境税など目的税が流行ってきたが、目的税としての徴収が可能だし、環境のためと言えば反対は少ない。
里地・里山管理を、田舎、故郷の産業・公共事業とするならば、お金・物の循環が始まり、高齢化、過疎化の歯止め、観光を含めた人の循環にもなることだろう。
悪者を探し出し、悪者退治をし、生物純血主義を金科玉条としていてもつまらない。
心が暗くなるだけだ。
日本の国土、里地・里山に手を入れて、ピカピカにし、豊かな自然と風土を誇れる国とし、世界の憧れとなる国造りをしようと誰も言わないのが不思議だ。
これが、究極の生物多様性保全だろう。
日本の国土、里地・里山には、それだけの潜在的パワーがある。
誰が、それに、気づき、掘り出してくれるのか。
掘り出してくれるのを待っている。
そのためには、生態学神話からの解放、暴力的とも言える再生力を組み込んだ生態学の確立、縦割り行政を風通しの良いものにする事が必要だ。
TTPが始まるならば、日本の農家は壊滅的な状況に陥るだろう。
それでは、農家は絶滅し、食の自給、食の防衛ができなくなる。
食の防衛のためには、助成が必須となるだろう。
農林業の従事者は、食の防衛、里地・里山の防衛のための防人として位置付けることが必要だろう。

黒田さんのFBスレッドへの書き込みを転載。