「ひまなか(中野裕司)」の感じ、考えたこと・・・・・・・・・。                                  ML・FBなどの投稿を掲載します。

「教育・狂育」カテゴリーのアーカイブ

明治70年の敗戦、敗戦後70年の経済敗戦

さてさて困ったな。
10年前の国は巨大ヤクザと指摘した投稿が浮上してきたよ。
10年前はスルーだったが、今はどうなるのやら。
類似の投稿は、差別的な表現として削除されてしまいました。
10年前から私の発言は不動です。

これが差別的な発言とされるのなら、世も末だ。
それとも、文中で「ガ○キ○」という言葉に対する言葉狩りでレッテルを貼り付け、削除するのかな?
念のため、言葉狩りに合いそうな言葉は○○としておこう。
・・・
2015年4月13日/プライバシー設定: 公開
コピペし、見やすくなるよう編集。
・・・
「左から見れば、真ん中も右に見える」至言だ。
このような動画をシェアすれば、右というレッテルを張られてしまうご時世。
さしづめ私は、超右翼という事になるかもしれない。
最も、右翼・左翼という定義を理解した上でレッテルを貼っているとは思えないが。
いつのまにかすり込まれた色眼鏡を通して語っているだけだろうから・・・。

しかし、右だ左だと言っている平和な時は過ぎた。
戦争反対、平和憲法を守れと、理念・理想を言っていれば良い時は過ぎた。
米国のソフト植民地の元であるからこそ、その傘の下だからこそ言えたこと。
守られている、自立していない子ども、○○の言い分だ。

自立した者は、自らを守るための手立てが必要となる。
理念・理想ではなく、現実の社会・世界をありのままに見ることのできる者ならば理解出来ることだ。
学校で教えられた、習った、いつの間にか自分の考えだと勘違いしているきれい事ではなく、現実を見定めることが必要だ。

現実の社会は、ソフト化された「力」の論理で動いている。
「力」をあからさまに示すのではなく、間接的にし見えにくくしているが、「力」であることには変わりはない。
現実は、人が集まり、集団が大きくなるにつれ「力」による統制が必要となる。
すなわち暴力的となる。
自らの組織を自らの「力」、直接的な「力」で守ろうとすると暴力団・ヤクザの世界となる。
その最大の組織を国家と称している。

税金という冥加金を納めることにより、治安のための警察、防衛のための軍、を造り、税金により暴力装置の外注が始まる。
税金を納めるということは、そのような事なのだと認識する必要がある。
実際には、理念・理想というオブラートで包み暴力的な「力」をソフト化し、見えにくくしているだけのことだ。

納税者は、このような現実を見定めた上で、国の方向性・税金の使い道を監視する必要があるのだ。
これを、見えにくくなっているから無いとし、見ない、聞かない、言わざる状態とし、理念・理想という表面のみを教えている。
このような状態を知の後退という。

江戸の昔は、武士という「武」の「力」を熟知した上で、精神修養を重ねた支配層がいた。
一般庶民も又、そのような前提の元、自らを守ると言う事を行ってきた。
また、商道など、自らの生業を道の領域にまで高めようという思いがあった。
理念・理想などというものではなく、実践を通じた地に足のついた方法で修養を重ねていた。
それが、明治教育では「修身」として花開いた。

しかし、戦後はこのような良俗を捨て去ってしまった。
そして、理念・理想という明らかな矛盾・嘘を含んだものを、平気で教えるから、子ども達の社会に対する信頼感を損なう事になってしまう。
理性を麻痺させなければ生きて行けないという国にしてしまっている。
そんな国、社会では、生き生きと生きることは困難だ。

矛盾を飲み込めない子ははじき飛ばされ、教えられた通りに覚え込むお利口さんのみが生き残る。
明治期に始まったエリート教育の結果で既に実証されている。
頭デッカチのお利口さんが国の中枢を占めたとき、国の舵切りを誤り、先の敗戦を招いた。
明治維新から70年後に現れた教育の成果である。

国民の生命・財産を守ると言う事が国の基本的な機能だ。
極論するならば、対外的には外交・防衛であり、対内的にはインフラ整備・防災であり、後は付け足しに過ぎない。
国の機能を基本的な部分に限るならば小さな政府・夜警国家となる。
国家の基本的な機能、最小限の機能とは、安全保障や治安維持だ。
すなわち、外交と外交の手段としての暴力装置である軍、治安のための暴力装置を持つことだ。

余分な部分を拡大して行くのが大きな政府、福祉国家である。
現在の我が国は、福祉国家的な政策により大赤字となっているわけである。
福祉・医療に名を借りた銭儲けが大流行り。
自分の身体を精神的な人質に取られてしまい、グーのもでない状態。

しかし、国家の最小機能としての安全保障を自力で行うことができないわけであるから国家とは言えず、米国の半植民地・ソフト植民地・属国という事になるわけである。

このようなことを踏まえ分かり易く言うならば、国とは、最大のヤクザ組織という事になる。
ただし、その本性をむき出しにしないようにインテリヤクザを装っているという存在と見ることが本質に近いとおもう。
現実の国際社会は、互いに俺のシマを荒らすなよとしのぎを削り、弱いところは傘下に組みこもうと虎視眈々と狙っている。
植民地主義と異なるのは、直接的な「力」の行使ではなく、ソフト化された金融という「力」を用いることである。
ソフト植民地主義の時代と言えるのだろう。

日本国は、地球という星の最大派閥の米印ヤクザの傘下に入り、せっせと貢ぎ続けていたからこそ脳天気なことを言い続けられた。
そのポジションを守るにあたってはソ連との冷戦構造が幸いしたが、情勢が様変わりしているにもかかわらず、惚けた状態のままでいる。
戦後70年が経過して、戦争責任を国軍の暴走として片付け、ほおかむりをしてきたが、そろそろその化けの皮がはげ始めてきた。
敗戦後70年にわたり続けられた頭デッカチとする教育の成果が失われた20年として現れた。
明治70年が敗戦、敗戦後70年で新たな敗戦ともいえる。

巷に植え付けられた敗戦教育、負けるべくして負けたなどと言う教育であるが、事態はそんな単純なものではない。
負けるはずの無い戦いを、完膚無きまでにたたきのめされ敗戦に導いた官僚、陸軍・海軍の知性の劣化の著しさにはあきれかえるが、その暴走を認めたのは国民で有り、国を守るために一般庶民の貴い生命が捧げられた。
しかし、明治70年の敗戦、敗戦後70年の経済敗戦に対する総括は行われていない。

その貴い生命を無駄にしないためにも、国と言うものの本性を見定め、理念・理想という陥穽に陥ること無く、現実の世界に立ち向かって行かなければならない。
じわじわと戦後70年間の義務教育の成果が現れてきた。
明治に始まるエリート教育の結果による敗戦。
その反省から、新たな義務教育制度が惹かれた(はずだ)。
しかし、頭の詰め込みという基本的な部分は変わらず、むしろ多様な教育を不可能とし、人として生きるための基本を教えることをおろそかにしたため、さらに状況は悪化している。
戦前のエリートが抱いた頭でっかちの世界観が、一般庶民にまで病魔のように拡がっている。
この点では、明治70年の敗戦よりも頭デッカチ病は重篤化しているといえる。

まずは、現実を見る目を曇らせている、理念・理想というベールを取り去る必要がある。
その上で、どんな方法が、組織が、現実世界に順応的なのか考える必要があるのだろう。
なにかおかしいな、変だなと感じている庶民、サイレントマジョリティーの目覚めが必要だ。
・・・
残念ながらこの動画のリンクは切れておりました。
・10年前の投稿
https://www.facebook.com/himanaka/posts/pfbid024H8ePwLkUrvnasoMmaTjKhJHN1XsmJCe4F3uKm81dSuQJGMeRJtPjyf62AponihZl

考えない・省力思考へと導いた現代狂育の罪

学校狂育による丸呑み学習の弊害が大きい。
考えずに丸呑みするのだから効率的に学習できる。
しかも、身体をキチッと使い、動かすことも教えられる教師がいない。
身体を使い、感じ、考え考え、脳に上書きを繰り返し獲得した記憶、身に付いた記憶ではないから劣化は速い。
すなわち、大学受験などには役にたってもそれ以降は消えてしまう。

大学狂育も高校なみといわれてから久しい。
頭の筋肉を振り絞り、汗を出し考え考える、という脳の筋肉を鍛える、脳トレの
習慣を身に付けるのが大学教育なはずだが、そのような習慣を身につけた者は極々僅かだろう。
鍛えていない頭の筋肉、脆弱なままで社会へと出て行く。
身体も頭も脆弱。

社会に出るならば、長いものに巻かれろが大正解となる世の中。
すなわち、指示を待ち、指示以上のことはせず、一日を無難に過ごす。
上司に媚びを売ることに専念すれば良い。
それが出世の王道。
先生に好かれ、内申書をよくするという延長で暮らして行くのだ。

出る杭は打たれる。
脳力のあるものは、下剋上は許さぬと皆で潰しにかかり、逆らうものは虐め放逐する。
仲好しクラブ日本。

適応できない人、あきらめた人は、無気力、鬱など病になってしまうよね。
慢性的無意識の自殺願望。
これが若齢化していっているから怖い。

敗戦後狂育によって培われたマインドだ。
だから、省エネ思考に走り、なにも考えなくても良い楽ちん人生を選ぶこととになる。
劇場化し与えられたストーリーに、受け身となって流されて行くこととなる。
頭の中身は空っぽで省エネ、一方では食は豊だからエネルギーは有り余ってしまう。
余剰エネルギー発散のために自分探しなんていうことになる病的な世界。
頭の中身が詰まり、考えることにエネルギーを消費するならば、それが自分なのだから、他に自分を求めることなど不要。

余剰エネルギーを無駄な消費に費やすのだからに大量生産・大量消費にはうってつけ。
経済・為政者には都合が良いが、劣化に劣化を重ね数世代。
病膏肓に入り、我が身すら守ることを忘れてしまった家畜化の群。
何処も同じ秋の夕暮れ。
身体を動かし、キチッと感じ、考えることからやり直そう。
・・・
政党政治ということが民主主義であるわけはない。
徒党を組むということは、組織票を動かすということ。
しかし、代議制民主主義が現在の民主主義と言うことであるのならば、私は、庶民感覚に近い物言いをする政党に投票する。

更に言うならば、組織票を機能させないためには、政党の好き嫌いではなく、政治的に振る舞い、与野党拮抗するように投票するということが有権者の智慧だろう。