「ひまなか(中野裕司)」の感じ、考えたこと・・・・・・・・・。                                  ML・FBなどの投稿を掲載します。

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ことばを選択しよう-2 

ことばを選択しよう-2   FB 2025/05/09 プライバシー設定: 公開

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先に、古来から「和顔愛語」と教えられてきたが、脳科学・情報科学の発達によりその理由、メカニズムが明らかになってきた。

古人の経験の積み重ね、時間のフィルターを経て残されてきた伝統的な智慧や恐るべし。

と述べた。

これに対し、「言霊ですね」というコメントが寄せられた。

ご明察。

このコメントに対する長い返答を浮上させておこう。

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さらに付言するならば、言葉・言霊などを発する身心の問題があるのです。

人は言葉を操るようになった。

初期の言葉、それは身体をフルに使いこなし、そこで感じ取った溢れ出る思い・感情を周辺の人に伝える、共感を得るためのものだったのでしょう。

身体をフルに使う、共に全力発揮の体勢の中での共感があったのです。

それは、音・音楽とともにあったでしょう。

言葉を用い共有した思いは集団を動かすものとなるので、言葉に発した、もの、こと、は現実化するという言霊信仰となったのだろう。

それは、共感という波動の籠もった身体にひっついた言葉=言霊。

身体を動かし、感じたこと、その共感により家族、一族、集団を一つにし、厳しい自然の中で生き抜いてきたのでしょう。

やがて言葉を自在に紡ぎ出せるようになると、言葉は身体から遊離するようになってしまった。

集団が大きくなるにつれ、言葉は情報の伝達、共有へと進化し、感情を抜きフラットとなっていったのです。

脳の紡ぎ出す言葉となり、言葉と身体のつながりを希薄化させて行ったのです。

言葉を記号として扱うようになり、死する言葉としてしまいました。

人は、便利なものを不便に使う名人と何度も記してきましたが、文明の利器のみならず、人は言葉を操り、文字とする段階で同様のことをしているのです。

それは、人を縛り、支配するという欲によって行われてしまうのです。

その死せる言葉は文字となり、法・契約など人を縛るための道具となり、一方では科学という体裁を作り出したのです。

そして、IT・AIなど人工言語によるバーチャル空間という魔法の世界を作り出し、現実の世界から遊離させ、今、飲み込まれようとしています。

身体にひっついた言葉が失われてしまったのです。

現在は、言葉を固定化した書物を読むことなく、漫画すら読むことを忘れ、Web上に流れる動画に沈溺し、話す言葉は乱れに乱しています。

身体使いは雑になり、腰抜け、腑抜けとなり、発する言葉の力を失ってしまいました。

便利なものを便利に使いこなすという方向ではなく、便利だと思う、思わされるものに依存し、自分の頭で考えるということすら放棄してしまう方向へと流されてしまいました。

今や、衰退の危機に存しているといっても良いでしょう。

もはや「言葉を選んで使おう」などという世界すら希薄化させてしまっています。

その場しのぎ、責任逃れのための空疎な言葉の氾濫。

そして、差別だヘイトだ、などという上から目線の一方的な制約を、繰り返し繰り返し加えられ、発する言葉すら制限され、自分の感情を表現することを押さえつけられています。

結果、頭で考えず、条件反射的に忖度、自己規制を行うことを良しとする世界としてしまったのです。

自分の気持ちがわからないでは、相手の気持ちも当然わからないこととなります。

となると、閉じ込めた鬱屈した思いが発露を求め、負の感情を伴って吹き出させ、相手を傷つけてしまうことになってしまいます。

それが、相手の気持ちを察することのできないいじめの横行、周辺はそのいじめにも気づかない、気づいても見て見ない振りをするという感受性の鈍り、すなわち、五感・身体の鈍りを常態化させることになってしまいました。

ストカーのあげく、殺してしまうという身勝手、究極の鈍り、そしてその兆しが見えていても周辺が動かないという社会の大きな鈍りを造り出してしまいました。

原始的な世界で集団を保つために行われたことは、相手を尊重するということです。

それによって自分も尊重される。

相手があって自分があるという相対的な関係性の中で暮らしていたのです。

集団内を円滑とするために言葉も行動も選び、慎んだのです。

それが躾、身体を美しく使いこなすということに繋がります。

食生態学を提唱した西丸震哉は、首狩り族の社会に飛び込みフィールド調査を行いました。

西丸は、首狩りと食人は異なり、自分が調査したのは食人種と称していますが~。

首狩り族の社会はさぞや獰猛だろうと思いきや、相手に不快感を抱かせたら殺されてもしょうがないというものであり、おだやかな世界だったそうです。

相手に不快な思いをさせないとの思いは、自ずと行動・言葉使いは洗練され穏やかになってゆくのです。

身体にひっついた言葉は、このようにして洗練され磨かれてきたのでしょう。

しかし、法・契約などという死せる言葉が人と人との関係の間に立ちはだかるようになり、肥大化させてしまったことにより、身体にひっついた言葉が劣化させ、乱暴、げれつとして行き、精神性も退行させていったように思われます。

文字に書かれたことは守っても、それ以外は守らなくても良いという曲解が横行し、世を覆ってしまいました。

フェイク、ペテンの常態化です。

相手を思いやる、共感するという、集団動物としての人間の本性が脅かされるという事態にまで行き着いてしまいました。

それが、コロナ禍により明確になってしまいました。

身体を動かし感じたことを、周辺の共感を得るために思わず発する原初の言葉、支えとなる言霊を失ってしまった結果です。

これではなりません。

他と繋がる、共感の世界へと立ち戻らなければなりません。

それは、私たちの心を支えている身体、五感というものの見直しであり、意識を支えている無意識の世界、集団無意識への回帰となるのでしょう。

失った支えを取り戻し、作り直すことが急務となりました。

身体・五感を磨き、無意識を豊かにすることができるのは、三つ子の魂以前の自意識の未完成な時期の過ごし方にあると思うのです。

なので「母性よ蘇れ、子供達の明るい未来を創るため」となるのです。

大きくなってしまったもの達は、身体を動かし五感で感じ取り無意識の世界へ沈着させるという幼子の行為を思い出し、自分に取って不足しているもの、ことを振り返り、その不足を補うための行動へと結びつけることが重要となったのです。

不足の部分に気がつけば変わって行くのです。

真の反省です。

このためには身心の健康を取り戻す、五感の感受性の回復から始めなければなりません。

頭デッカチになったがための首、上体の力を弛め、身体の重心(丹田)に自ずと力が集まり、お腹に深い呼吸が入るように身体を導くのです。

で、「日の下に出よ、身体を動かし汗をかき、深呼吸~循環・排泄を整えよう」となるのです。

問題が発生したときは、迂遠なようでも原点に立ち返っての見直しが大切です。

対症療法、部分最適、先延ばし社会からの脱却が喫緊の課題となっているのです。

きちっと立ち、温かく光耀く太陽を心の中にイメージし、「あまてらすおおみかみ」と唱えましょう。

無意識への刷り込みです。

先達はこれを、十言の神咒(かじり)と伝えてきました。

「あまてらすおおみかみ」の裏には「ありがとう・おかげさま」の十言があり、「たのしいな・うれしいな」の十言が潜んでいるのです。

その他、十言のなかに多くの明るい言葉が浮かび上がってくることでしょう。

https://www.facebook.com/himanaka/posts/pfbid0M5X8cSxDjSebbXhzQHMppWBgLKV3Saqz9L4ZY8b4VG7UXawxDLUZfaxFyzfKcNa5l

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・画像はいただきもの

選択理論えほん ワークショップ ファシリテーター養成講座

https://www.reservestock.jp/page/consecutive_events/23179

1人以上、、「しあわせ いいね ありがとう たのしいね たのしいね うれしいな うれしいな」というテキストの落書きのようです

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