「ひまなか(中野裕司)」の感じ、考えたこと・・・・・・・・・。                                  ML・FBなどの投稿を掲載します。

「口」カテゴリーのアーカイブ

引き締める力 口・肛門

身体を自分で引き締め保つ力、それは身体の芯、そして重心を保つ力ということなのです。

中心力ともいいます。

別の言い方をするならば、魂魄か遊離することをとどめておく力。

土左衛門など助かるかどうかは肛門の緊まり具合でわかると伝えられてきました。

肛門の締まりがなくなってしまう。

それは、魂魄が離れ、身体を保つ力を失ってしまっているということなのです。

なので、呼吸法(息・生き)では肛門を締めることを基本とします。

肛門を引き締めることにより、仙椎が立ち、骨盤が引き締まります。

すなわち、身体の芯が立ち、重心・丹田の在処が明確となる、意識しやすくなるのです。

肛門を引き締める、としていますが、それは口(入り口)から肛門(出口)にまで繋がっている胃腸を引き締め活発化させるということでもあるのです。

このため、普段の口元はキチッと締まっていることが大切です。

そして、笑うときは、口元を弛め大きな口を開いて笑うことのできる弾力を保っていることが大切なのです。

大きく笑うとき、大きな息をし、お腹、内臓まで動くのです。

それが生きているということなのです。

悲しみ、怯えなどは、息を潜め、息を止め、元気を失うことになってしまうのです。

FBではくり返し口の大切さをお伝えしてきました。

それは内臓、そして肛門へと連なるものだからなのです。

口も肛門も、内臓が飛び出したものなのです。

口元、歯茎を叩打する、左右の口角に小指を入れ、左右に引く、口・唇の運動をするなどの方法もお伝えしてきました。

生きる元となる内臓を活性化させ、そして肛門までつづく深層筋を引き締めるための方法なのです。

このことからも、コロナ禍では大きな罪作りをしてしまいました。

口パンツ、猿ぐつわ装着の忖度強要により、口呼吸へと導き、締まりのない口元の人間を増やしてしまいました。

いまだに多くの人々が受け身・守り一方のくつわ族としてしまったことは罪深い行為だった、ということが理解できるでしょう。

死に行く年寄りがいのち汚く老醜をさらすのは勝手ですが、周囲のものにとってはみっともなく不快ですね。

大勢やっているから平気、皆で渡れば怖くない症候群なのでしょうね。

それでは、周囲のものまで暗く滅入らせ、身心を硬くさせてしまいます。

それにも増して、選択権のない子供達へのマスク強要は止めさせなければなりません。

生きる力を失った半病人を作り出してしまいます。

不健康な状態となる因子を埋込み、子供達の未来を狭めてしまうのです。

引き締めるということと、弛めることとが対をなし弾力を保っているのです。

どちらにも極端に偏ることなく、必要に応じて自在に動くことができる状態が弾力であり、締弛の幅が大きく、自在に使うことができる状態が良いのです。

偏りが固定化され弾力を失うことにより病と称される症状となり、究極の偏りに到り弾力を失うと死が訪れるのです。

身体(からだ・空だ)から、中身(霊魂=本体)が離れてしまうのです。

これが我が国古来から伝わる、体感に基づく霊魂観なのです。

当然ながら、入り口・出口の本体である胃腸が健全で弾力を持っていることが大切です。

すなわち、適切な食により共生している腸内細菌叢の健全さを保つことが大切となるのです。

これを、「悔い改めは食い改めから」と称しているのです。

胃腸の健全さは皮膚の張りになって現れます。

また、胃腸の健全さが鳩尾や丹田などに出て来るのです。

不健全なものは、身体の面では「腰抜け」、精神の面では「腑抜け」と称される状態になってしまうのです。

このような観点から言うならば、現在は、一億総病人、腰抜け・腑抜けの状態になっているといえましょう。

腸、皮膚は地続き、第一の脳、脳の始まり、無意識・心の脳なのです。

また、身体も一つ、地続きですから、肛門を引き締める力は、身体、心、精神、魂魄・霊魂にまで係わることなのです。

歯茎の叩打などを「仙人になる入り口・方法」としてお伝えしてきました。

以上の理屈からはあながち的外れではないということがご理解いただけるかと思います。

このような理屈をきく前に僅かなヒントで、感じ、気付き行えるものを「上根」、理屈を理解し行うものを「中根」、それでも理解できず、行わないものを「下根」、縁なき衆情と申します。

私は「中根」に属する部類故、理解し得た屁理屈を交えお伝えし仲間を増やそうとしているのです。

縁のある方々に届きますように。
https://www.facebook.com/naoko.harmonie/posts/pfbid0vywhTqPAtWCyHKhqCiR2EYh69qVaL4PpohAp9gY2BHubfgZ3CbYGyJ4JD25d22uml?__tn__=-UK*F


食品添加物など体内に取り入れる薬剤と、身体、特に「口」との関係について

化学調味料も食品添加物の一種ということになろう。

すなわち、薬剤ということになる。
現在の食品は、合成された薬剤を用いて化学的(味覚・色覚)のみならず、物理的(食感)にもまた改良している。

合成したもの、あるいは精製し純化したものは、細胞レベルで化学反応的な撹乱を起こすことはよく知られ、問題視されている。
一方、物理的な面、味覚・食感については等閑視されている。

合成物質、精製純化されたものに味覚は馴らされ、口触りの良いものを食べ続ける、ということにより、口を使うという動物の最も基本的感覚(味覚)・舌を鈍らせると共に、口を動かすという動作、筋力を低下させている。
結果、鰓の張った顔が消え、表情を乏しくさせてしまっている。
これが、食品添加物の使用による、物理的、筋肉的・運動的な側面だ。

柔らかで甘い食物は、口蓋周辺、舌部の筋力の低下を引き起こす。
よく噛まないで飲み込むという雑な食べ方となり、胃腸、腸内細菌叢へ負荷を与えるとともに、口まわり、舌、顔面の筋肉による血流ポンプの機能を低下させるために、頭部・脳への血流を減らし、考える力を低下させ、また、心臓、頭部を支える筋力を低下させる。
口のことと安易に考えることにより、化学的にも、物理的にも、身体全体にたいし連鎖的にダメージを及ぼしているものと感じる。

口は、動物が生きるための入り口なのだから、大切にし、動かさなければなければならない。
試しに、口をできるだけ大きく開けてみるが良い。
そして、大きく開けた口の空間の中で、ベロ・舌を大きく動かして見が良い。
首が引き締まり、背筋が伸び、姿勢がただされ、また、顔面とのつながりが意識されることだろう。
ついでに、顔面の筋肉を色々と動かすならば、脳の血行も良くなり、頭がすっきりすることを感じられるだろう。
かように、口は全身、頭・脳と繋がっているのだ。

美人になりたければ、口を動かす事が大切だし、美人になる努力は、脳も又すっきりさせ、姿勢を含め身体全体をキチッとさせることとなるのだ。
全身美人への入り口なのだ。
口が大切という所以である。
ただし、口を使うといっても調子に乗ってのおしゃべりは、いただけない。

話しが横道にずれたが、食品添加物の効果については、体内の化学的撹乱・汚染という側面とともに、物理的な側面、筋力、体力、姿勢などの側面からも検討すべきものと考える。
私たちは、全体で一つの生き物。
細胞の組織だった集合体ではあるが、部品の寄せ集めではない。
一つは、部分は、全体に波及するのだ。
口を動かしてみて、理解できただろう。

動物は、腸を作り口で物を食べることにより、進化した。
すなわち、口・腸が動物の出発点なのだ。
仇や口・腸を、口から入るもの(鼻・息を含め)おろそかにする無かれ。

ましてや、入れたら出すもの。
口からの飲食は、便、小水、汗として、鼻・口からの息は吐き、消化吸収されたものは、身体を構成する組織の材料として新陳代謝を繰り返し、片やエネルギーとなって動き、考えることにより発散・排泄?している。
その入力と出力の間に自分がいる。
難しくいうならば、動的平衡ということになる。

体内に取り入れた化学薬品は、細胞レベルの攪乱・汚染を引き起こし、汚染物質は排出されず滞留、蓄積することが問題なのだろう。
攪乱に対しては、身体は回復力を持つものであるため、適度の攪乱は身体を強くするものであり好ましいものといえる。
薬は、この適度のかく乱を招く範囲で使い個こなすのが原則だろう。
千差万別の各個人に対して処方することが、さじ加減ということであった。
さじ加減を忘れ、感覚を鈍らせるほどの大量・長期の薬剤の使用と、その結果の残留、汚染に薬害問題の本質があるのだろう。

生き物の常として、刺激に対する慣れがあり、大量・長期に使用し続けてしまうと、狎れとなり、癖がつき、偏ってしまう。
使い続けることにより、身体、細胞が慣れ、狎れ、さらに強度を上げなければ効能を期待できなくなってしまう。
すなわち、依存度を次第に高めてゆくということになる。

身体に取って良いもの、悪いもの総てに対し慣れの反応がある。
このため、元気・健康を保つためには、適度なかく乱を繰り返しつつ、動的なバランスを取って行くことが好ましいのだ。
一概に食品添加物、薬剤、農薬、肥料について否定しているのではなく、その使いよう、慣れと汚染に問題があると言っているのだ。
適、さじ加減を忘れた事に問題があると言っているのだ。

化学薬品だけでなく、動作についてもなれると言うことは同様だ。
慣れることにより、自動化される、無意識に動けるようになるというように身体の構造はできている。
意識的な運動から、無意識的な運動への移行、変化だ。
これが、身体に取っては合理的だし、余分なエネルギーを消費しなくとも良くなる方法だ。

体内の場合の慣れも又、細胞レベルでの合理化、エネルギーの摂生だ。
体内で合成していた物質を、体外から大量に与えられ続けるならば、体内で製造する必要はなくなり、そのような組織・器官は萎縮する。

筋肉を使うという面でも同じだ。
鍛えれば鍛えるほど性能を増し、逆に杖などを与えれば頼る、使わなければ萎縮する、というフィードバックが身体の中に埋め込まれているからだ。

そのフィードバックを良き方向へ回す、善循環とするか、悪しき方向へ回す、悪循環とするかは、私たちの選択に任されているのだ。

依存度を高めるほど商売には好都合の善循環となるわけだが、個人の心身の健康ということではマイナスとなり、悪循環を形成させて行く。
時間の経過と共に組織としての商売(ムラ)の経済循環と、個人の健康面での悪循環の乖離が拡大し、問題が大きくなってゆく。
現代は、まさにその乖離が開きすぎた故の社会問題に直明しているといえるのだ。

楽に流れる、流そうとするものが沢山ありすぎる今日。
楽、快適とは、依存度を高めるという方向。
その楽に乗り過ぎ、自らの心身の健康を、社会・環境の健康を害してしまったのが今日。
その行き過ぎた依存から抜け出すのは、依存度を高めやすい脳の声に偏るのではなく、胃腸などを含む身体の声を聞き入れる感覚を磨き、慎みと時としては撹乱も許容する、適度なバランスを保つ生活への切替が必要だ。
絶えず慎みを持ち、動かないと、楽に流れ、崩れてしまうからだ。

FB 2017.12.24