精神性・霊性の劣化と強欲ネズミ講資本主義
音楽の素養なし、チェンバロ、ハープシコード、バージナルなどと呼ばれる古典的な楽器の音色が好きで、仕事等の際のバックグランドミュージックとして聞き流す程度だから、作曲者も題も記憶することはない。
聞いても、どこかで聞いたな、という程度。
私に取っては、聞いて邪魔にならない音楽が良い音楽。
時々、はっとする、心に響く音色などがある。
身の回りの自然とおなじ、ということかな。
精神性、霊性などということも深く考えることはない。
心地よく流れてゆく、それが自然だと勝手に思っている。
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これに比較すると今の音楽?は、私にとってはうるさいだけ。
雑音だから、頭、心の中に残ることのなく消えて行く、消費し捨て去るだけの音。
現代の使い捨ての資本主義の様相が音にも現れているのだろう。
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資本主義という巨大ネズミ講の生産システムは奴隷が支えている。
昔の奴隷は轡をはめられ、手足を鎖で繋ぎ、身心を縛り上げて酷使された。
現代の奴隷は、轡の代わりに口パンツを着けることを厭わぬよう、精神操作されたソフトな奴隷。
合法的に見えない鎖で縛り上げられた奴隷。
その奴隷が、労働者兼消費者としてマッチポンプの仕掛けにより使役され、利益、税だと称してピンハネされている。
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合法奴隷は狂育、マスゴミなどにより飢餓感を植え付けられ物欲の固まりに育てられる。
当然のごとく奴隷に精神性・霊性などと意識は無用だから、剥奪されることとなる。
今、喰うことができ、刹那の楽しみに心奪われるように仕向け、消費という美名の元、サラリーを吐き出させれば良いのだ。
当然、精神性・霊性は低下・劣化の一途を辿って行くこととなる。
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精神性・霊性が劣化してしまうと、逆説的に精神性・霊性の復興が叫ばれるのだが、ただ今は、そのような動きに対してもスピ系という商品が提示され、ガス抜きとして使われている。
音の劣化もこれと機を一にしているように感じる。
失われた30年の劣化の程度は著しい。
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自由・平等・平和(博愛)などと理念理想の精神性を吐いたって、それは特定の人々、ネズミ講の胴元となっている人々にのみ許された境遇。
底辺を支える講員(消費奴隷)は、物欲をかき立てられる一方であり、物欲中毒に導かれ、リピーターとなるように仕向けられ、物を手に入れるためのサラリー欲しさに酷使される合法奴隷の境遇となってしまう。
すなわち、タコ部屋、女郎小屋に閉じ込められて自分の手足を喰う生活となってしまうのだ。
今や、日本列島タコ部屋、女郎小屋化。
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強欲資本主義・巨大ネズミ講の実体は、奴隷制植民地主義だし、武器による植民地支配、支那清国を解体したアヘン戦争の時と本質は変わってはいないのだ。
富む支那清国に売りつけるものがなく、清国には西洋列強の垂涎となる物が溢れていたので、阿片・麻薬を売りつけ、支那人を中毒にし、それに抗議する清国を、西洋列強の唯一の強みである武器によって支配し、グローバルマーケットと称する巨大ネズミ講にに組込んだのだ。
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市場が飽和してしまう、売るものが無くなってしまうと、ネズミ講の胴元への上納システムが止まってしまう。
これを防ぐため、戦争などによりリセットし、新たな市場を立ち上げにかかるのだ。
科学技術の進歩により、飢える心配がなくなったにもかかわらず、世界から戦争・騒乱が消えない理由だ。
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昔は、奴隷というあからさまに過酷な条件の中での酷使だったから、その境遇から抜け出そうと必死でもがいた。
現在は、真綿で首を絞めるような巧妙な手口に支配方法が改良された。
精神改造により、自らが進んで奴隷の境遇になって行く自己家畜化の群とするるソフトな支配に変えたのだ。
進んで奴隷の境遇になって行くように仕向け、支配コストの効率化、縮減ができるからだ。
支配されるものは進んで畜舎というぬるま湯環境のなかで感性を閉じ、茹で蛙となってしまうように導くのだ。
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精神性・霊性を高めるためには、そのぬるま湯から抜け出し、動き・感じ・考え・決断するという身心を適度なストレス・フィードバックのかかる環境、当たり前の環境に身を置かなければならないだろう。
グローバルマーケットへの依存度を減じて行くのです。
地域分散型の社会へと切り替えて行くのです。
自立自存・自律自尊・自足独立の人となることにより、精神性・霊性は高めることができるのです。
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で、
これでよいのかおっかさん。
蘇れ母性。
子供達の未来のために。













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