教育の志と目的
2015/11/28 FB より
国を栄えさせるためには 人材・人財を育成することが大切。
人材が財産。
そのことについては同意するが、しかし、この記事は何か違う。
教育費を無償とし、公平な教育を受けさせることが、人材確保のポイントとしている様だ。
何か違うという点について、いつもの悪い癖、大きな観点から俯瞰し論じてみよう。
何かとは、教育の目的と志という点だ。
そんな事は分かっているよ。
青臭いことをグズグズ言うなとの声が聞こえてきそうですが・・・。
公平以前の問題をぶつぶつと。
・・・・・
我が国の大昔の学問は、芸。
芸を磨き、伝えるものとして学問を行った。
家学としての学問、それを教伝と言う形で、教え伝え、磨いていった。
厳しいものではあったろうが、学び深める楽しみがあった。
もっと大昔、野山・川海からの採取により糧を得ていた縄文の時代は、農業を行う時代よりも余暇時間が多く、その余裕時間を土器や土偶などを作る事に当てたのではないかとの説がある。
その主体は女性であった。
土器・土偶は、土と水と火を使った、セラミック造り、最初の科学といえる。
自然観察と様々な試行錯誤と工夫の積み重ねによりその技術を会得しし、子供達に伝え、洗練させていったのだろう。
そこには、創意工夫と発見の楽しみがあったのだろう。
我が国の物造り、学の原点と言える。
その伝統が、紫式部、清少納言などと言う才女を生み出した。
仏需の学問が入って、学問は男のものとなったが、女は女としての学びの姿勢は残されたものと思う。
そのような伝統のもと、江戸期に学問・教育が隆盛となった。
武士の学問は、修身斉家治国平天下。
武を武道に高めつつ、修身斉家を学び、教養としたのだ。
そして、故郷を隆盛に導いた。
郷土の伝統的な産業は、このような考えを持つ人々により造られていった。
自藩を守り、発展させるための学問であり、それを儒教に求めた。
表は理学である朱子学を学び、裏では、実践を解く陽明学を学んだ。
そして、これが洋学を学ぶ基礎となった。
幕末には、西洋に対するコンプレックスなどはなく、オランダ語を習得し、オランダ語が役に立たないとしるやずくさま英語へと切り替え、必要とすることは積極的に習得した。
その知的欲求はすさまじいものがあった。
それを、母が支えた。
(現在は、子どもの頃から米欧、諸外国に対する贖罪意識とコンプレックスを無意識下に植え付けられるために、英語を始めとする語学学習の障害になり、語学を生理的に受け付けない状態としているように思える。
それでいて、小学校から英語学習をせよ、というのだから本末転倒。
自国に対する揺るぎの無い自信を植え付け、他国を飲み込むほどの気概を持たせるならば、語学の問題は片付くだろう。
幕末の洋学ブームは、まさにそれであった。
不十分な語学ではあったのだろうが、志と気概により西洋人を圧倒した。)
江戸期には、民衆の間に読み書きそろばんという実学が拡がった。
また、石門心学などにより道徳が教えられた。
学びの場として寺子屋が隆盛となった。
寺子屋は、男のみならず女も通い、手習いの先生の1/3は女であったと言われている。
明治を支えたのは、武士階級のみではなく、これら実学を修めた多くの民衆であった。
江戸の平安の時代、武士も民衆も、実際に使える知識を求めると共に、知的な興味、知りたいという衝動に溢れていたものと思える。
幕末、明治初期に我が国を訪れた欧米の人々は、皆、庶民の識字率、知的レベルの高さに驚き、記している。
否、戦国時代に布教に来たバテレン・宣教師は、異口同音、知的レベルが高く、日本での布教は大変だとバチカンに報告している。
日本人の遺伝子には、知識の旺盛な吸収欲というものが埋め込まれていると思うのだ。
明治に入ると、江戸期の知的財産をベースに西洋科学を吸収し、富国強兵を国策とした。
武道・儒教的センスの上に、洋学を接ぎ木した。
和魂洋才だ。
これは、成功を納めた。
瞬く間に洋学・技術をマスターし、世界の大国にのし上がった。
知的な底力と、道徳力、胆力の賜であった。
その一方、薩長の藩閥による要職の独占に歯止めをかけるため、義務教育が導入された。
新たなタイプの科挙と言える。
知識を詰め込んだ秀才が、官僚となり国の舵取りをするシステムだ。
また、つよい軍隊を造るため、工業化の推進ため、生まれ・身分、及び、地方差をなくし、平均的な人材を造ることを目的としたものである。
これは、故郷人(藩に属す人)から、日本人・国民への切り替えでもあった。
義務教育の最初は、国の予算は乏しく、各地の篤志家が土地を提供し、拠金し、小学校を造った。
地域の識者が先生を務めた。
各地に藩校というモデルもあった。
郷土のためになる、郷土経営をし盛んとする人材造るため、力を、財を出すことは惜しまなかった。
郷土を愛し、郷土の延長上の国造りをする事のできる人材の育成であった。
故郷を出ても、錦に御旗を立てて帰ることを理想とした。
理念・理想の国ではなく、郷土の延長にある、地に足のついた国である。
これにより、力を出し切り没落した地域の名家、資産家もあった。
しかし、このような学校は、政府の統制により郷土色を失い、お国のために働く、工業社会に馴染む均一な人材づくりの場となっていった。
このような教育の中より選抜された知的な訓練のみに偏るエリート達が、天皇を神とする神国日本という理念の元に、国の運営を始める。
その結果が、大東亜戦争と敗戦である。
国の運営を誤るのである。
米国による長期にわたる様々な謀略により、戦いに引きずり込まれたのではあるが、安易にその謀略に乗ったのは、知識偏重のエリートの放漫さ、ガードの甘さに真因を求めることができるのだろう。
また、知的エリートの総ては、欧米に留学をしており、洗脳的教育やハニートラップなどを含めたインテリジェンスの餌食となり、欧米崇拝におちいり、国内で優越感を持ちつつ、劣等感ももったのだろう。
このような人々が国家経営を行うのだから、その劣等感が民衆にも広がり、潜在意識に植え込まれていったものと考えられる。
幕末・明治初期の志を持ち、対等に掛け合ったという伝統が廃れ、劣等感が植え付けられてしまった。
エリートの知識偏重、欧米崇拝に対し、庶民には、縄文から積み重ねられ、江戸時代に築き完成を見た道徳・美徳が根付いており、これが国の底力となり、明治以降70年余りの総力戦を戦い、耐え抜いた。
それは、母性的なパワーに下支えされたものと、私は思うのだ。
国家経営に当たるエリートの力量は見切っていた米国だが、その技術力と国民皆兵、庶民兵の猛烈、強烈な戦い方に畏れをなした米国は、敗戦により、二度と日本を大国の位置に登らせないため、日本魂を抜き去るものとした。
男のチンチンを取ってしまうのである。
それを、WGIP(ウオーギルトインフォメーションプログラム)と称している。
これまでと異なった富国挙兵とは逆コースの教育・洗脳である。
(この敗戦後の日本占領政策が大成功したことにより、その後の米国の海外戦略を決定づけた。
諸外国の総てが、日本のように力で占領し、洗脳することによって問題解決できるということが基本的な戦略となった。
これは、素直に御上に従うことが平和解決の道という日本的道徳の賜から生まれた特殊現象であることに気がつかないから、ベトナム、中東における戦争は、極致戦で勝っても民衆を治めることができず、混乱を後に残すものとなってしまった。
ジャスミン革命なども同じだろう。
米国の占領も、新たな八百万の神がやってきたという日本的感覚と、一神教的なセンスの差である。)
ここで、あえて洗脳といったのは、米国は意識して日本人に対し優勢学的な見地に基づく精神的な手術を行ったからである。
精神改造を行うため、あらかじめ日本に関する情報を集め、分析し、用意周到に取りかかったのだ。
日本学というものは、基教を日本に布教するためにはじめられたものだが、米国の日本学は、日本人を精神改造するために研究したことが始まりだ。
あろう事か、敗戦後、GHQのWGIPに積極的に協力した。
協力したのは、日本国の官僚とマスコミ、進歩的?知識人である。
エリートと称される人々である。
GHQは、戦争犯罪者を日本陸軍と決めつけ、処罰した。
協同謀議により、平和に対する罪、人道に対する罪を侵したという罪状だ。
なぜか、海軍は解体されたが、海軍からはA級戦犯として処罰されたものはいない。
リメンバーパルハーバー、が米国が戦争に踏み切る切っ掛けとなったわけだし、GHQは、大東亜戦争という我が国の名称は認めず、太平洋戦争としたわけだから、海軍こそが処罰の対象となるべきものと考えられる。
ここに、歴史の闇がありそうだが、ここでは触れない。
官僚とは、権力者に従い、その意志を代行し実施する集団。
天皇から、マッカーサー、米国へと権力が移っただけのこと。
八百万の神に一柱増えただけのこと。
マッカーサー、米国も、日本国民をトラブルなく納めるためには、官僚組織を温存し、そのまま使う事が効率的だから、官僚組織の上に新たな為政者・神として乗っかった。
これを、新たな幕府が開設されたと唱える人もいる。
現在も、この米幕府はそのまま続き、日本国は米幕府の占領下に置かれたままと言える。
話しを拡散させたようだが、現代教育の淵源はここに求めることができる。
GHQにより温存された官僚組織は、GHQの権力を背景に、敗戦前よりも更に統制を強めていった。
戦時下の体制をソフト化したものの、戦争による疲弊から立ち上がるためと称し、更に統制を強化したのだ。
名目は、国の再生・復興。その通り、しかし、そのため統制が更に強化され、現在まで続いている。
教育の問題もしかり。
敗戦前は、私学の設立は比較的容易であった。
そこでは、まだ、特徴のある人材を育てることが可能であった。
しかし、戦後は、一定の設備要件を満たさないと、新たな学校は開設できなくなった。
また、文科省の助成無しに、私学の運営ができないようにしてしまった。
学習教材、すなわち教科書は検定と称する手続きにより、一様に均され、生まれた国を貶める洗脳教育を行うアイテムとなっている。
学習時間がだんだん少なくなり、ゆとり教育などが実施され、地理・生物・地学など、実学的な面をもつ学科がどんどん削られ、地に足がつかない子供達を造り出している。
実学、自然・地に足のつく教育、身体で理解できる教育をしなければ、抽象的なことを教えても理解はできないのだ。
知識を減ずるだけでなく、知識を身につかないようにするためのカリキュラムとしている。
子供達を育てるという教育を通じ、WGIPという洗脳がこの70年間持続され、強化されてきたのだ。
これにより、親の教育権が奪われている。
親の教育権は、憲法以前の権利。
その大切な権利が奪われ、義務教育にすり替えられているのだが、問題にすることが無い。
考えてみるが良い、松下村塾のような設備のないところから、吉田松陰の感化力で多くの人材が輩出し、時代が変わったのだ。
このような現象は、松陰だけではなく、全国各地の私塾で人財を輩出させていたからこそ生まれたのだ。
教育は、設備ではなく、育てようという人の感化力と、育つ側の気概の問題なのだ。
現在の教育制度は、教育者の感化力を奪い、教えを請う子供達の気概を殺ぐ事ばかりを行っている。
学問の面白さを伝えるのではなく、出世のための手段としてのみ伝えている。
しかも、出世ということを経済的成功というものに矮小化している。
出世とは国のため、人のために役立つ人というものであるはずだが、己が経済的に楽に暮らすことができるよう、良い大学に入り、良い会社に入るというものだ、と世を挙げ洗脳している。
母親までもが、教育ママ、モンスターペアレントと化し、子どもの、社会の健全な未来を奪うことに腐心している。
これでは、子供達は授業がつまらなくなるのは当たり前。
教育が成り立たなくなり、学級崩壊に至るのは当たり前だろう。
生きることに対する意味を見いだせなくなり、無気力になるのが当たり前だろう。
人間は、自分のためだけに生きて行くことはできない。
集団で暮らす動物だから、他者から認められることなく生きて行くことはできないのだ。
このような、偏った教育システムに素直に従うことができる従順な子どもが成績が良いとされ、疑問をもつ元気なものは阻害され、アウトローになって行く。
そして、本来ならば笑い話となってしまうような事が当たり前となってしまっている。
それは、義務教育では偏差値を上げることはできず、良い大学には受からないから、義務教育の他に塾へ通うことが必要ということだ。
そして、子供達は塾の方が楽しい、ためになると言い出す始末。
傍から見ていたら漫才だが、皆、本気で一生懸命だ。
義務教育は百害あって一利無しという状態となってしまったのだから、潰せば良い、税金を払わなければ良いのだが、一端でき上がった制度は潰すことはできず、税金は給料から天引きされてしまうから、抵抗できない。
また、現行の教育制度は、神であり、権力者である米親分のもくろみ通りに進んでいるから、米親分にとっては、すこぶる成績優秀なシステムであり、さらに磨きをかけ持続させなければならないものになっているのだろう。
今の教師は教育目的を果たしていると言う点で、成績優秀と言える。
しかし、子供達に取ってはよけいなお節介、迷惑きわまりない存在。
我が国の将来を危うくする存在となっているのだが、教育要領というマニュアルに従っているだけなのだから・・・。
先生達は、このような事を続けていたのでは、人格に変調をきたしてしまうことだろう。
これを逃れるためには、日本人であることを捨てなければならなくなる。
そのために都合が良いのが世界一家、共産主義、グローバリズムだ。
国境をなくしてしまえば問題は解決する。
子どもを学校に通わせたことのある親達は、このような状態に疑問を持たないのだろうか?
残念ながら、疑問を持ったとしても、義務教育を否定する事は、法律違反となり罰則が適用される。
また、義務教育を否定し、家庭教育をするだけの財力も時間もないのが実際だ。
従って、財力のあるものと、ないものの教育較差が広がり、格差社会が嫌が上でも展開することとなる。
昔は、勉学に励むことが立身出世の道であり、頭のよい子は郷土の誉れとして奨学金を出し合い、上級の学校へと送り込んだが、今や、そのような道も閉ざされてしまい、教育格差が経済格差に直結する時代となったのである。
教育は、このような歪んだ社会で生き残るための手段と化し、塾に通い、有名大学に入り、良い会社に入るための手練手管を覚える場としてしまった。
このような状態で、記事に示されているように学費を無料にして、教育を受ける機会を平等にする事により人材・人財を育てることができるということは、不可能である。
教育の目的が正しい方向を向き、子どけも達の率先模範・師匠となる教育者が存在し、子供達の志を高めることができる人材・人財がいてこそ、教育を受ける機会均等というシステムが生きるのだ。
否、勉学、学問をしたいと言う志を植え付けるならば、否が応でも教育を受けるための機会を求めるのだ。
そのような志を持つ者を支援する仕組みさえ造れば良いのだ。
その志を誰が植え付けるのか、そこが思案のしどころなのだろう。
教育システムが、子供達を損なう方向を向いている場合、学費を無料として、教育を受ける機会を平等にすると言うことは、現在の統制・洗脳をさらに強化し、気力のない子ども達を大量に造り出すということになるのだと言う事について考える必要がある。
日本人の遺伝子には、学ぶという事がしっかりと刻まれている。
この良き遺伝子が、教育統制により著しく傷つけられている。
現在の教育のあり方について、表面のみ、部分のみではなく、全体、及び根っ子の部分まで掘り下げて確認し考える必要がある。
いつもの台詞となるが、総てが同じ土壌から生まれているのだ。
その土壌が、根っ子には触れさせまいと言う部分最適の繰り返しと、自己家畜化に向かう人々を造り出している。
いつものツッコミ所が沢山ある意見です。
いろいろツッコミ、考えてみてください。
私の屁理屈はともかく、教育が、社会がおかしくなっているということは、皆さんが感じていることと思います。
子々孫々に、子々孫々が、元気で心豊かな生活ができる故郷を引き渡すためにどのようにしたらよいのでしょうか。
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