「ひまなか(中野裕司)」の感じ、考えたこと・・・・・・・・・。                                  ML・FBなどの投稿を掲載します。

身体について理解する、身体を使いこなし健康を保つという観点からは、大切な事柄と思うので、再度シェアし、スレッドへの私の書込を浮上させておこう。

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ここで西原先生は、手足を呼吸、循環、免疫という、身体の古い体制の部分について記している。

古い体制とは、その大元は腸管に由来する不随意筋の世界だ。

精神・心の世界としては、古い体制は感情・無意識の世界に繋がっている。

一方で、手足は、古い体制より生まれ、新しい体制を作り出す元となっている。

古い体制と、新しい体制、両者の繋ぎとなっているということも知っておく必要がある。

手足を動かす事により運動系の筋肉・神経系が発達してきた。

この究極が、運動を司る脳の発達ということになる。

随意筋、顕在意識の世界へと繋がるものだ。

生物の進化という面から身体の仕組みについて考察すると、いろいろな繋がりを見いだすことが出来、健康に暮らして行くための多くのヒントを見いだすことができる。

手足を動かすということは、肺・循環系の活性という事以上の意味があるということが理解できる。

手足を使うことにより脳は肥大し進化してきたのだから、手足を動かす、適度の運動により、脳の世界もまた活性化されてゆくのだ。

脳神経が増殖し、新たな神経ネットワークが創られて行くのだ。

乳幼児、子供、大人、老人となるにつれ、その活性度は低下するが、脳神経の可塑性は保たれ、変化して行く。

動く事により発達し、動きを止めるならば萎縮して行くのだ。

動く事により、より良き方向への循環が始まり、動きを止めることにより悪循環が始まるのだ。

すなわち、知力アップのため、老化防止のためには、積極的に動く事が大切なのだ。

動物という命名は、本質を得ているという事だ。

動けなくなったら死に至るのだから、健康に生き抜くためには逆を行えば良い、ということだ。

心身の健康を守り、育てて行くためには、無意識と意識、不随筋と随意筋、感情と思考などのバランスが大切なのだ。

お腹、腸内細菌叢を含む内臓系を健全に保つと共に、運動により筋肉系・脳系統の健全さも合わせて保つことが大切なのだ。

動物は、食を得るために動くという戦略を採用したのだから、動き続けることで心身の健康が増進するということになる。

動きつつけるためには、休息・骨休めをとるというバランスは大切だということは、言うまでも無いことだが、ついつい忘れがちとなる。

現代は、大脳を肥大化させすぎ、大脳の快をもとめることを良きこととし、社会が、経済を動かすため、常習性の高いものに安易に依存してしまう仕組みを作り上げてしまった。

新しい体制を突出させ、古い体制を置き去りにしてしまったのだ。

このため、内臓系、運動・脳系、両者のバランスを崩し、関係性を希薄なものとしてしまい、身体も社会も病的なものとしてしまった。

身体を動かすことなく、頭だけを動かし、頭でっかちな人間が社会を構成するのだから、病的な社会が築かれて行くことは自明の理だろう。

健康を保つ土台、身体と脳・精神を経済の神に捧げてしまったのだ

脳で味合う味覚を追い求め、私たちに共生し、共進化してきた腸内微生物叢の都合は無視。

体内を観察し、感じるという繊細な感覚を失い、目、舌など大脳感覚のみを満足させようとする。

そして、自分の未来の健康を食い潰し、子ども達の未来の健康を食いつぶすための仕組みを作り上げてしまった。

大脳を手なずけることが、常習性を植え付け、商売となるのだ。

それが、現在の経済社会だ。

特に、人間を消費者という抽象的な存在としてしまったグローバリズムが世界を席巻してから、その勢いが加速化している。

このような状況を改善するためには、私たちの身体の成り立ちに対する理解が大切だし、大脳の持つ傾向についての理解を進めることが重要だ。

古い体制と、新しい体制を繋ぐものが手足だし、運動と言う事になる。

さらに端的に、煎じ詰めて言うならば、呼吸と言う事になる。

呼吸は、無意識の裡に行っているが、意識的にもコントロールできる唯一の運動だ。

無意識と意識を結びつける唯一のチャンネルだ。

キチッとした呼吸を行うことにより、身体を構成する細胞の一つ一つ、隅々にまでエネルギーを造り出す元となる酸素をとどけると共に、意識と無意識、思考と感情、脳と腸を結びつけることかできるのだ。

そのような気持ちとなり、身体の隅々まで観察するという心持ちを持つならば、健康に暮らすことができるようになり、大病に陥ることを未然に防ぐ事ができるようになるだろう。

適度の運動をし身体を動かし、身体を温め、深い呼吸をし、良き排泄をしよう。

そして、良い食べ物を食し、良き水を飲み、腸内細菌叢を喜ばせ、大脳には、善知識を取り入れよう。

この循環が滞りなく行われるならば、免疫力はアップし皆が元気となるし、元気な人々が動き出すならば、社会の循環も滞りなく働き出すことになるだろう。

そして、両者のバランスを取り戻されることにより、個人・社会の健康が担保されるようになるのだ。

2017年2月24日  · FB 

笑顔

美しい笑顔の女性が増えると、世の中は天国になる。

中身は大切だけれど、入り口は見掛け・化粧から。
きれいに化粧し、面白くなくとも笑うところから、見掛けから楽しい事は始まる。
そして、続けると本物になって行く。

沢山の美しい笑顔が溢れる世界にしたいね。

緑化を、「緑で化かす」と解き、蔑んだ某生態学者がいた。
自然こそがすばらしいのだ、といいたかったのでしょう。
しかし、蔑んだ先生は厚化粧をしてました。
本音と建て前の乖離です。

言葉(頭・脳)の世界で生きている人は、見た目よりも言葉に騙されます。
言葉よりも、目の前の事実こそが本物です。
言葉で語られた自然よりも、目の前の緑化こそが本物です。

近頃は、自然を叫ぶ人達の間に、自然の中の悪者探しが流行っています。
外来種は、侵略的外来種は悪者だ、として悪者探しをするのです。
そんなことをしていたら、額にしわを寄せ、目が三角になってしまいます。
侵略的外来種と目くじらを立てるより、帰化植物と優しく語れば良いのに、理念を真理として賢しらに叫びます。
格好は良いのですが、世の中をぎくしゃくさせることとなってしまいます。

片目をつぶり、化かし合いを楽しみ、おおらかにしなければ、世界は平和にはなりません。
嬉し楽しの世界にはなりません。

笑顔の絶えない、適当、おおらかな世界にしたいですね。
頭から、はらわたの世界に切り変えると、良い加減の笑顔の絶えない世界になりそうです。

2015/11/28 FB より

国を栄えさせるためには 人材・人財を育成することが大切。
人材が財産。
そのことについては同意するが、しかし、この記事は何か違う。
教育費を無償とし、公平な教育を受けさせることが、人材確保のポイントとしている様だ。

何か違うという点について、いつもの悪い癖、大きな観点から俯瞰し論じてみよう。
何かとは、教育の目的と志という点だ。
そんな事は分かっているよ。
青臭いことをグズグズ言うなとの声が聞こえてきそうですが・・・。

公平以前の問題をぶつぶつと。

・・・・・

我が国の大昔の学問は、芸。
芸を磨き、伝えるものとして学問を行った。
家学としての学問、それを教伝と言う形で、教え伝え、磨いていった。
厳しいものではあったろうが、学び深める楽しみがあった。

もっと大昔、野山・川海からの採取により糧を得ていた縄文の時代は、農業を行う時代よりも余暇時間が多く、その余裕時間を土器や土偶などを作る事に当てたのではないかとの説がある。
その主体は女性であった。
土器・土偶は、土と水と火を使った、セラミック造り、最初の科学といえる。
自然観察と様々な試行錯誤と工夫の積み重ねによりその技術を会得しし、子供達に伝え、洗練させていったのだろう。
そこには、創意工夫と発見の楽しみがあったのだろう。
我が国の物造り、学の原点と言える。
その伝統が、紫式部、清少納言などと言う才女を生み出した。

仏需の学問が入って、学問は男のものとなったが、女は女としての学びの姿勢は残されたものと思う。

そのような伝統のもと、江戸期に学問・教育が隆盛となった。
武士の学問は、修身斉家治国平天下。
武を武道に高めつつ、修身斉家を学び、教養としたのだ。
そして、故郷を隆盛に導いた。
郷土の伝統的な産業は、このような考えを持つ人々により造られていった。

自藩を守り、発展させるための学問であり、それを儒教に求めた。
表は理学である朱子学を学び、裏では、実践を解く陽明学を学んだ。
そして、これが洋学を学ぶ基礎となった。
幕末には、西洋に対するコンプレックスなどはなく、オランダ語を習得し、オランダ語が役に立たないとしるやずくさま英語へと切り替え、必要とすることは積極的に習得した。
その知的欲求はすさまじいものがあった。
それを、母が支えた。

(現在は、子どもの頃から米欧、諸外国に対する贖罪意識とコンプレックスを無意識下に植え付けられるために、英語を始めとする語学学習の障害になり、語学を生理的に受け付けない状態としているように思える。
それでいて、小学校から英語学習をせよ、というのだから本末転倒。
自国に対する揺るぎの無い自信を植え付け、他国を飲み込むほどの気概を持たせるならば、語学の問題は片付くだろう。
幕末の洋学ブームは、まさにそれであった。
不十分な語学ではあったのだろうが、志と気概により西洋人を圧倒した。)

江戸期には、民衆の間に読み書きそろばんという実学が拡がった。
また、石門心学などにより道徳が教えられた。
学びの場として寺子屋が隆盛となった。
寺子屋は、男のみならず女も通い、手習いの先生の1/3は女であったと言われている。
明治を支えたのは、武士階級のみではなく、これら実学を修めた多くの民衆であった。

江戸の平安の時代、武士も民衆も、実際に使える知識を求めると共に、知的な興味、知りたいという衝動に溢れていたものと思える。
幕末、明治初期に我が国を訪れた欧米の人々は、皆、庶民の識字率、知的レベルの高さに驚き、記している。
否、戦国時代に布教に来たバテレン・宣教師は、異口同音、知的レベルが高く、日本での布教は大変だとバチカンに報告している。

日本人の遺伝子には、知識の旺盛な吸収欲というものが埋め込まれていると思うのだ。

明治に入ると、江戸期の知的財産をベースに西洋科学を吸収し、富国強兵を国策とした。
武道・儒教的センスの上に、洋学を接ぎ木した。
和魂洋才だ。
これは、成功を納めた。
瞬く間に洋学・技術をマスターし、世界の大国にのし上がった。
知的な底力と、道徳力、胆力の賜であった。

その一方、薩長の藩閥による要職の独占に歯止めをかけるため、義務教育が導入された。
新たなタイプの科挙と言える。
知識を詰め込んだ秀才が、官僚となり国の舵取りをするシステムだ。
また、つよい軍隊を造るため、工業化の推進ため、生まれ・身分、及び、地方差をなくし、平均的な人材を造ることを目的としたものである。
これは、故郷人(藩に属す人)から、日本人・国民への切り替えでもあった。

義務教育の最初は、国の予算は乏しく、各地の篤志家が土地を提供し、拠金し、小学校を造った。
地域の識者が先生を務めた。
各地に藩校というモデルもあった。
郷土のためになる、郷土経営をし盛んとする人材造るため、力を、財を出すことは惜しまなかった。
郷土を愛し、郷土の延長上の国造りをする事のできる人材の育成であった。
故郷を出ても、錦に御旗を立てて帰ることを理想とした。
理念・理想の国ではなく、郷土の延長にある、地に足のついた国である。
これにより、力を出し切り没落した地域の名家、資産家もあった。

しかし、このような学校は、政府の統制により郷土色を失い、お国のために働く、工業社会に馴染む均一な人材づくりの場となっていった。
このような教育の中より選抜された知的な訓練のみに偏るエリート達が、天皇を神とする神国日本という理念の元に、国の運営を始める。
その結果が、大東亜戦争と敗戦である。
国の運営を誤るのである。

米国による長期にわたる様々な謀略により、戦いに引きずり込まれたのではあるが、安易にその謀略に乗ったのは、知識偏重のエリートの放漫さ、ガードの甘さに真因を求めることができるのだろう。
また、知的エリートの総ては、欧米に留学をしており、洗脳的教育やハニートラップなどを含めたインテリジェンスの餌食となり、欧米崇拝におちいり、国内で優越感を持ちつつ、劣等感ももったのだろう。
このような人々が国家経営を行うのだから、その劣等感が民衆にも広がり、潜在意識に植え込まれていったものと考えられる。
幕末・明治初期の志を持ち、対等に掛け合ったという伝統が廃れ、劣等感が植え付けられてしまった。

エリートの知識偏重、欧米崇拝に対し、庶民には、縄文から積み重ねられ、江戸時代に築き完成を見た道徳・美徳が根付いており、これが国の底力となり、明治以降70年余りの総力戦を戦い、耐え抜いた。
それは、母性的なパワーに下支えされたものと、私は思うのだ。

国家経営に当たるエリートの力量は見切っていた米国だが、その技術力と国民皆兵、庶民兵の猛烈、強烈な戦い方に畏れをなした米国は、敗戦により、二度と日本を大国の位置に登らせないため、日本魂を抜き去るものとした。
男のチンチンを取ってしまうのである。
それを、WGIP(ウオーギルトインフォメーションプログラム)と称している。
これまでと異なった富国挙兵とは逆コースの教育・洗脳である。

(この敗戦後の日本占領政策が大成功したことにより、その後の米国の海外戦略を決定づけた。
諸外国の総てが、日本のように力で占領し、洗脳することによって問題解決できるということが基本的な戦略となった。
これは、素直に御上に従うことが平和解決の道という日本的道徳の賜から生まれた特殊現象であることに気がつかないから、ベトナム、中東における戦争は、極致戦で勝っても民衆を治めることができず、混乱を後に残すものとなってしまった。
ジャスミン革命なども同じだろう。
米国の占領も、新たな八百万の神がやってきたという日本的感覚と、一神教的なセンスの差である。)

ここで、あえて洗脳といったのは、米国は意識して日本人に対し優勢学的な見地に基づく精神的な手術を行ったからである。
精神改造を行うため、あらかじめ日本に関する情報を集め、分析し、用意周到に取りかかったのだ。
日本学というものは、基教を日本に布教するためにはじめられたものだが、米国の日本学は、日本人を精神改造するために研究したことが始まりだ。
あろう事か、敗戦後、GHQのWGIPに積極的に協力した。
協力したのは、日本国の官僚とマスコミ、進歩的?知識人である。
エリートと称される人々である。

GHQは、戦争犯罪者を日本陸軍と決めつけ、処罰した。
協同謀議により、平和に対する罪、人道に対する罪を侵したという罪状だ。
なぜか、海軍は解体されたが、海軍からはA級戦犯として処罰されたものはいない。
リメンバーパルハーバー、が米国が戦争に踏み切る切っ掛けとなったわけだし、GHQは、大東亜戦争という我が国の名称は認めず、太平洋戦争としたわけだから、海軍こそが処罰の対象となるべきものと考えられる。
ここに、歴史の闇がありそうだが、ここでは触れない。

官僚とは、権力者に従い、その意志を代行し実施する集団。
天皇から、マッカーサー、米国へと権力が移っただけのこと。
八百万の神に一柱増えただけのこと。

マッカーサー、米国も、日本国民をトラブルなく納めるためには、官僚組織を温存し、そのまま使う事が効率的だから、官僚組織の上に新たな為政者・神として乗っかった。
これを、新たな幕府が開設されたと唱える人もいる。
現在も、この米幕府はそのまま続き、日本国は米幕府の占領下に置かれたままと言える。

話しを拡散させたようだが、現代教育の淵源はここに求めることができる。
GHQにより温存された官僚組織は、GHQの権力を背景に、敗戦前よりも更に統制を強めていった。
戦時下の体制をソフト化したものの、戦争による疲弊から立ち上がるためと称し、更に統制を強化したのだ。
名目は、国の再生・復興。その通り、しかし、そのため統制が更に強化され、現在まで続いている。

教育の問題もしかり。
敗戦前は、私学の設立は比較的容易であった。
そこでは、まだ、特徴のある人材を育てることが可能であった。
しかし、戦後は、一定の設備要件を満たさないと、新たな学校は開設できなくなった。
また、文科省の助成無しに、私学の運営ができないようにしてしまった。

学習教材、すなわち教科書は検定と称する手続きにより、一様に均され、生まれた国を貶める洗脳教育を行うアイテムとなっている。
学習時間がだんだん少なくなり、ゆとり教育などが実施され、地理・生物・地学など、実学的な面をもつ学科がどんどん削られ、地に足がつかない子供達を造り出している。

実学、自然・地に足のつく教育、身体で理解できる教育をしなければ、抽象的なことを教えても理解はできないのだ。
知識を減ずるだけでなく、知識を身につかないようにするためのカリキュラムとしている。
子供達を育てるという教育を通じ、WGIPという洗脳がこの70年間持続され、強化されてきたのだ。

これにより、親の教育権が奪われている。
親の教育権は、憲法以前の権利。
その大切な権利が奪われ、義務教育にすり替えられているのだが、問題にすることが無い。

考えてみるが良い、松下村塾のような設備のないところから、吉田松陰の感化力で多くの人材が輩出し、時代が変わったのだ。
このような現象は、松陰だけではなく、全国各地の私塾で人財を輩出させていたからこそ生まれたのだ。
教育は、設備ではなく、育てようという人の感化力と、育つ側の気概の問題なのだ。

現在の教育制度は、教育者の感化力を奪い、教えを請う子供達の気概を殺ぐ事ばかりを行っている。
学問の面白さを伝えるのではなく、出世のための手段としてのみ伝えている。
しかも、出世ということを経済的成功というものに矮小化している。
出世とは国のため、人のために役立つ人というものであるはずだが、己が経済的に楽に暮らすことができるよう、良い大学に入り、良い会社に入るというものだ、と世を挙げ洗脳している。
母親までもが、教育ママ、モンスターペアレントと化し、子どもの、社会の健全な未来を奪うことに腐心している。

これでは、子供達は授業がつまらなくなるのは当たり前。
教育が成り立たなくなり、学級崩壊に至るのは当たり前だろう。
生きることに対する意味を見いだせなくなり、無気力になるのが当たり前だろう。
人間は、自分のためだけに生きて行くことはできない。
集団で暮らす動物だから、他者から認められることなく生きて行くことはできないのだ。

このような、偏った教育システムに素直に従うことができる従順な子どもが成績が良いとされ、疑問をもつ元気なものは阻害され、アウトローになって行く。
そして、本来ならば笑い話となってしまうような事が当たり前となってしまっている。

それは、義務教育では偏差値を上げることはできず、良い大学には受からないから、義務教育の他に塾へ通うことが必要ということだ。
そして、子供達は塾の方が楽しい、ためになると言い出す始末。
傍から見ていたら漫才だが、皆、本気で一生懸命だ。

義務教育は百害あって一利無しという状態となってしまったのだから、潰せば良い、税金を払わなければ良いのだが、一端でき上がった制度は潰すことはできず、税金は給料から天引きされてしまうから、抵抗できない。

また、現行の教育制度は、神であり、権力者である米親分のもくろみ通りに進んでいるから、米親分にとっては、すこぶる成績優秀なシステムであり、さらに磨きをかけ持続させなければならないものになっているのだろう。
今の教師は教育目的を果たしていると言う点で、成績優秀と言える。

しかし、子供達に取ってはよけいなお節介、迷惑きわまりない存在。
我が国の将来を危うくする存在となっているのだが、教育要領というマニュアルに従っているだけなのだから・・・。
先生達は、このような事を続けていたのでは、人格に変調をきたしてしまうことだろう。
これを逃れるためには、日本人であることを捨てなければならなくなる。
そのために都合が良いのが世界一家、共産主義、グローバリズムだ。
国境をなくしてしまえば問題は解決する。

子どもを学校に通わせたことのある親達は、このような状態に疑問を持たないのだろうか?
残念ながら、疑問を持ったとしても、義務教育を否定する事は、法律違反となり罰則が適用される。
また、義務教育を否定し、家庭教育をするだけの財力も時間もないのが実際だ。
従って、財力のあるものと、ないものの教育較差が広がり、格差社会が嫌が上でも展開することとなる。
昔は、勉学に励むことが立身出世の道であり、頭のよい子は郷土の誉れとして奨学金を出し合い、上級の学校へと送り込んだが、今や、そのような道も閉ざされてしまい、教育格差が経済格差に直結する時代となったのである。

教育は、このような歪んだ社会で生き残るための手段と化し、塾に通い、有名大学に入り、良い会社に入るための手練手管を覚える場としてしまった。

このような状態で、記事に示されているように学費を無料にして、教育を受ける機会を平等にする事により人材・人財を育てることができるということは、不可能である。
教育の目的が正しい方向を向き、子どけも達の率先模範・師匠となる教育者が存在し、子供達の志を高めることができる人材・人財がいてこそ、教育を受ける機会均等というシステムが生きるのだ。

否、勉学、学問をしたいと言う志を植え付けるならば、否が応でも教育を受けるための機会を求めるのだ。
そのような志を持つ者を支援する仕組みさえ造れば良いのだ。
その志を誰が植え付けるのか、そこが思案のしどころなのだろう。

教育システムが、子供達を損なう方向を向いている場合、学費を無料として、教育を受ける機会を平等にすると言うことは、現在の統制・洗脳をさらに強化し、気力のない子ども達を大量に造り出すということになるのだと言う事について考える必要がある。

日本人の遺伝子には、学ぶという事がしっかりと刻まれている。
この良き遺伝子が、教育統制により著しく傷つけられている。
現在の教育のあり方について、表面のみ、部分のみではなく、全体、及び根っ子の部分まで掘り下げて確認し考える必要がある。

いつもの台詞となるが、総てが同じ土壌から生まれているのだ。
その土壌が、根っ子には触れさせまいと言う部分最適の繰り返しと、自己家畜化に向かう人々を造り出している。

いつものツッコミ所が沢山ある意見です。
いろいろツッコミ、考えてみてください。
私の屁理屈はともかく、教育が、社会がおかしくなっているということは、皆さんが感じていることと思います。

子々孫々に、子々孫々が、元気で心豊かな生活ができる故郷を引き渡すためにどのようにしたらよいのでしょうか。

西田さんのシェアをシェア。

2015/11/28 FB投稿より

またまたの悪い癖。
錦織さんのスレッドに、長い書込。
記録のため、転載。
・・・・・
昔からこのようだったのか、近頃このようになったのか?
動物などの行動が、調和的という動画・画像が目につき来ます。
弱肉強食というイメージは、植え付けられたもの?
人間の弱肉強食という行動が投影されたもの?
そのような気が募って行く。
これが、進化ならば、人間様の世界にも起きて欲しい。
・・・・・
鬼塚さんから、同感の意見。
・・・・・
錦織さんから、
感覚器からの感覚が進化を進めるのでしようから、感覚器を怠けさせる品々にどっぷり浸かっていると難しいのでしようね。
・・・・・
そして、進化という問題についてブツブツと。

共感、感応する力が進化の原動力だと思います。
進化は、個ではなく、種がなるべくして成るという今西流の進化の仕方があるのでしょう。
今の進化学では、進化の原動力・仕組みが不明です。
しかし、細胞レベルでの情報交換、共感とも思える相互作用により秩序が作られ組織化されることがわかっています。互いに察知し合うのです。
細胞が寄り集まって、別の階層のもの、組織が生まれて行くのです。
構成要素は同じ細胞なのですが、分化し役割分担が決まって行くのです。
細胞レベルでさえ、相互に影響を与え合い、変化して行くのですから、私は、種だけでなく、他の種も含めた共感による共進化が、進化の本質だと思っています。

他の種、生き物の間に、この画像に示されるような融和的な進化?が発生しているとするのならば、いずれ、人間様の世界にも起きてくると言う期待を感じます。

生命は、始原の一つの細胞の別れ。
深い所でつながり、共感しているものと思います。
このような姿が、今、種を超えた生き物の交流に現れているのでしょう。

科学では、未だ捕まえきれない世界があるのでしょう。
弱肉強食と見えるものも、己を己に捧げ、新たな生命を産むための行為、循環のための行為と見ると、まったく異なった世界がみえてきます。
生命の本質は、エネルギーの循環、同じものなのですから。

産(生)まれることと死の様相・表情、性と苦の様相・表情が相似であることもその現れなのでしょう。
同じものが位相を少し変えただけということなのでしょう。
そこには、苦楽共に同じものという超宗教的な世界が広がっています。

しかし、己のためという我良しの強固な信念が、楽に、効率的に富を得る、独占するという信念が、共感力を損なわせています。
個我を超えた共感力、超宗教的な世界への肉薄、自然との共生を妨げています。

しかし、一方で、精神世界の教えでは、今、必要としている事のみ眼前に出現する、宿題として現れる。
という、原則があるとされています。

このような観点から見るならば、今、進化の道程として、一神教的、大脳的、我良しの世界観を克服するという問題が示され、臨界の時となっているとも理解出来ます。

その先に待っている世界を、この画像に示されている生き物たちが見せてくれているのかもしれません。

今、それぞれの置かれている立場で眼前に見えている、一神教的な世界に住む人々が演じ、示している我良の世界という問題、これに気がついたならば、その解決に向けて立ち向かわなければならないのでしょう。
この問題に気づいた人々が、これを解決する使命を与えれたらと思う必要があるのでしょう。

そして、私は、その解決の糸口が日本的母性への復帰にあると思っている訳なのです。
マリア信仰を始め、地母神、母性に対する信仰は世界中に残されているわけですが、脈々と息づいているのは、日本だと思うからです。

一神教的科学文明、男性原理の文明を母性原理が包み込み、融合するとき、分別する事による科学ではなく、共感力を主とする本物の科学、総合・統合の科学が完成し、進化の螺旋階段を一つ登る事ができると思うのです。

大問題、眼前の大きな障害こそが進化の原動力。
大勢の人がそれに気づき、意識に上らせたとき、真に共感しあったとき、変わるべくして変わる。
量か質に変わると確信し、そのための、種、ばい菌となれたら、と思って発信しているのです。

 

足尾銅山煙害(亜硫酸ガス)によるはげ山を緑化したところです。
多くの人々が、低山ながらも展望がよいとして訪れる草原状の中倉山、沢入山の稜線は、はげ山だった時代の名残なのです。

これをネタに、いつもの大きな話をしてみましょう。
長いですよ。

足尾鉱山は、日本の銅産出量の40%を算出し、近代国家となる礎の一つとなったのです。。
しかし、一方では、洪水被害の拡大、鉱毒問題などを発生させました。

歴史的には、正と負の側面を明確に対峙させて見せてくれる面白い場所なのです。
そして、そのような正負の問題は、足尾ほど極端ではないものの、現在まであちこちで続いているといえるのです。

負による側面に対しては、田中正造を中心とする公害問題の指摘活動、それに続く人々の100年にわたる訴訟が行われました。
我が国の公害防止活動の原点となりました。

また、このはげ山を緑化するために新たな緑化の方法が考案され実施されました。
階段状に土留めし、土砂流出を防ぎ、先駆樹種を植えるという明治から続く伝統的な治山緑化手法とともに、外来牧草を緑の絆創膏として用い、早急に緑化被覆し表土の保全、表土の生成をはかり、その後の植生遷移による自然回復のスターターとしたのです。

我が国における、公害・緑化、環境問題の原点ともいえる場所なのです。

この景色から、正と負?、両方の側面を持つものとして見ていただけるとよいと考えます。
また、現在の我々の抱えている問題に対して、田中正造の活動などを逆照射していただけると幸甚です。

現在は、過大な被害者意識、負の側面のみを上げへつらい個人の保証を求めるという風潮が強くなってしまったのですが、田中正造が中心となって行った命がけの農民運動(押し出し)などの活動は地域の生活の場を守るという国に対峙する運動、真摯に今一度見直すことが必要と思われます。

当時の欧米列強の植民地に組み込まれないための殖産興業の一環としてた足尾銅山があるのですが、それによる環境問題の発生により地域住民が大きな被害を被りました。
その負の問題に対抗するために、地域住民の生活自衛のために時の権力に対し立ち上がったのが田中正造でした。
地域の自立自尊の生活を守ろうという信念が根っこにあったものと考えられます。

現在は、地域の生活自衛というものてではなく、個人が保証・助成金に絡め取られ、地域の独立心がそがれ、地域地域コミュニティが解体されようとしています。
都会では、すでに地域コミュニティはなきに等しい状態。

田中正造が目指した世界は、個人の保証ではなく、地域の生活を守るということだったと思っています。
しかし、現在は個人保証という毒薬により、地域のコミュニティが分断され、地域の活力が失われてしまっています。
生き物としての群れが暮らす場・地域よりも、個人を優先させてしまった結果です。
地域、個人のバランス感覚を失わせてしまった結果です。

その結果、地域との絆を取り去り、個人という側面のみを強調し、人の労働に対してまで、流動性などという言葉を使い、経営社の都合により切り捨てられるもの、根無し草となる方向へと推し進められました。
互いに助け合って生きてゆく群れではなく、個に分割されると身を守るすべを失ってしまいます。
個人は自由だ、好き勝手ができると、わがままが認められてゆく、その陰で進められた個の分断です。
今後は、さらにそのような方向性が強化されそうです。

地域コミュニティの自立自尊の精神がそがれてしまったため、未来を見ることなく、今さえよければということで、種子法の廃止、TTPなど我が国の未来、子々孫々の未来を奪い取るような問題に対し、無関心でいられるのです。
最近の動きについて、逆照射してみるとこのようにいえると思います。

それは、国(官僚)がなんとかしてくれるという、ぶら下がりの思想が根底にあるからです。
しかし、国(官僚)は民を効率的に治めるための知恵を絞るところであり、その国は、民の方を向いているとは限らないのです。
足尾の場合は、そのような傾向が大きく出、公害問題として噴出したわけですが、世界の政治・経済の運営は概ねそのような仕組みの上にできています。

民主主義とは、民の代表である代議士が、国を運営する官僚と対峙するこにより、民意が政治に反映されるということを指すのですが、地域コミュニティが解体された今、そのようなことは望めません。
地域のためというよりも、個人の利益により票を集めることができるからです。
そして、選挙の棄権とは、官僚に白紙委任するという意思表示となっていることに気がつきません。

地域のため、子々孫々が豊かに暮らすためということよりも、今が大切ですから、今の利益、目の前のにんじんを食べるために票を投じてしまうのです。
にんじんをぶら下げるのは、経済サイドです。
これにより、短期のもうけが優先され、未来の美林を作ろうという観点からの法は作られることがなくなり、美林、豊かな国土、農業を子孫に残せない状態となってしまいました。

民が食べてゆくための農業・産業ではなく、もうけを出すための農業・産業へと目的の変換がなされたのに、多くの民が気がつきません。
産業廃棄物、環境汚染は大きな問題。
しかし、TTPや二国間協議により、じわじわと健康被害をもたらす農薬、遺伝子組み換え食品の組み合わせ、食品添加物などの防波堤が打ち壊され、無制限に押し寄せ、鉱毒などよりも数段大きな産業公害、直接体内の汚染が進むという状態が発生してるのですが、問題としようとしません。

田中正造のようなリーダー、政治家の出現を願うとともに、公害を認めさせるために100年間闘い続けた民がいた、100年もかかったということを思いだし、子々孫々が安心て暮らすことにできる、豊かな国土をバトンタッチできるようになることを祈らざるをえません。

足尾の地は江戸時代から続く鉱山故、山の木は鉱石の精錬のため切り出され、はげ山となり、さらに近代精錬技術による亜硫酸ガスの発生により草木・低木類まで失ってしまいました。
当然、緑の被覆を失った山は崩れ、河川下流に堆積し天井川となり、台風による洪水により流され、下流に甚大な洪水被害をもたらすことになります。
鉱毒による健康被害も発生させるととなります。
このような問題に対し、立ち上がったのが田中正造です。

そして、はげ山を緑化し、洪水被害の軽減を図ることとなりました。
そのとき大活躍をしたのが、安価で効率的な外来牧草でした。
敗戦後の貧しいとき、安価に効率的に緑化し国土を守ったのです。

はげ山という面では足尾は極端でしたが、昭和30年代、燃料革命により石油を燃やすようになるまでは、全国の山ははげ山だらけでした。
大雨が降れば洪水となり、下流に土石が流され大被害が発生するということが続いていました。
そのはげ山を、治山・砂防工事などにより緑化し、また、治水・利水のためダム・護岸工事を行い、安全・安心な国土造りを行ってきたのです。
そのとき広い面積を利四日するために、外来牧草が用いられたのです。
私たちの先輩の仕事です。
結果、山は緑になり、安心・安全の国土を作ることができました。

そのような功績が大きな外来牧草を、60年以上使い続け、日本の国土を緑に服すきっかけ作りをした外来牧草を、60年をかけ緑になったからと、その緑だけを見て、ペテンにも等しい論文で外来だから悪者だと決めつける生態学者は何様のつもりでしょう。
恩を忘れた、人非人、天に唾する者と指弾をしておきましょう。
そのような論調を認め、悪乗りしている環境行政も国民を欺くものといえ、等しく同罪です。

治山事業によりはげ山は緑となりました。
また、人手の入れられるはげ山や、はげ山に近い薪炭林には有用樹が植えられました。
スギ、ヒノキなどの針葉樹・人工林です。
急勾配地や深山などの薪炭林はそのままです。
そして、燃料革命となりました。
結果、薪炭林としてきた里山は放置され、そのまま大きくなり、人工林にも手を入れることができなくなった状態で大きくなりました。
40年で、はげ山が緑になってしまうのですが、このようなことが全国で大なり小なりの規模で起きていたのです。

大きく見るならば経済変化の問題、市場の変化の問題ですが、なぜそのまま放置してしまうこととなったのでしょう。

このような国土の緑は、戦国以来のこと、この500年来、かつてなかった状態の景色なのです。
現在は、人手を入れらることのできなくなった緑は、どのように推移してゆくかということを、全国の山で大実験をしているのです。

しかし、生態学者は、そのような人の活動とともにあった緑を、大昔からあった自然、自然は弱いものだから手をつけるなと教え、自然は保護すべきもの、それが正義、人工林は悪、自然に手を入れることは悪だと教え、世論を誘導します。
白黒、善悪という単純化した話は、わかりやすいやすいため、皆、自然保護という安直な考え方による洗脳されてしまい、山の緑の管理を忘れてしまいました。
と、いうよりも、管理をしなくともほっとくのが自然だという手抜きのための根拠を与えてしまったのです。
管理をしなくともよいという理屈は便利ですから、行政が管理を先送りするための理屈としても用いてしまったとおもいます。
そして、その傷口は大きくひろがってしまいました。

結局、外観は緑であっても、山の緑、生態系は荒れ果ててしました。
大いなる質の低下です。
人手の入らなくなった自然の中で、シカ、イノシシ、クマ、サルなどが我がもの顔で跋扈するようになりました。
人間様を含む生態系の崩壊です。

生態学者のいう人間を含まない生態系は、日本の中には高山などごく一部にしか存在しないのですが、理念的な生態系のみが教育され続けました。
自然に手をつけるな、守れといい続けてきた人たちは、このような状態になるということは予想もできなかったのでしょうし、その適切な対策を示すこともありません。

人間を含まない生態系は存在しないのですから、日本全国、人手の入った緑ばかりですから、良好な自然を維持するためには管理をし続けなければならないのです。
ならば、誤りを認め管理しろ、といえばよいのですが、そのような提案は出てきません。
里山の荒廃が明らかになった時点で、里山管理について最近になって最もらしく言い出した程度です。
そんなことは、結果論ですから学者でなくともわかります。
問題は理屈ではなく、放置を許容してきたから、管理費が膨大になり、手のつけようがないということなのです。

しかし、生態学者は相変わらず、里山以外に対する自然に手を入れることを否定し続けています。
木を切る木こりは悪者、それでいて人工林は悪者、また、外来牧草を播くものは悪者と、悪者造りを続けています。
このような考え方が環境行政に組み込まれ、生物多様性保全が自然保護の隠れ蓑となって叫ばれてしまいました。
60年以来使い続けてきた、枯れた技術までも用いてはならぬとし、様々な問題を発生させてしまいました。

悪者を作り出すことは、紙芝居としては面白いのかもしれませんが、物事は解決に向かわず悪化させてしまうばかりです。
ひょっとしたら、これまで言い続けてきた悪者を作り出すという論法が皆の頭の中にすり込まれ、子供たちのいじめを助長しているのではないかと思うほどです。

健全・健康な緑、国土を形成してゆくためには、身近な自然に対しては適切な管理が必要なのです。
また、必要に応じて外来牧草なども含む多様な植物を使いこなすことが必要なのです。
これまで善悪二元論により洗脳された頭を切り替え、多様な技術を使いこなし、適正な管理をいかに行うかについて、自分の頭で考えていただけるならば幸いです。

足尾をネタにして、公害と緑の側面について長々記しました。
物事には正負の両方の側面があり、善悪二元論的な説明を信じ込んでしまうと、思わぬしっぺ返しがやってくる。
大きな事業を行うに際しての官の綺麗な説明、そして官の動きを保証する学とのなれ合いにより、民を洗脳によって方向付け推進する正義の仮面をかぶった事業という側面について、足尾のみの問題とせず、全国、今現在の問題として認識してもらいたいのです。
いったん始まってしまうとその動きは止めることができず、足尾鉱毒事件の法的な解決には100年を要し、失われた山の緑を取り戻すために今なお事業が継続されているという事実について、今一度真摯に考える必要があるでしょう。

2018.09.24.FB

生物多様性保全、「悪夢のような時代は終わった」。
そのようになって欲しいですね。

現在の環境省主導で行っている駆逐・駆除を前提とする生物多様性保全は、自然保護というイズムを行政が取り込んだ対症療法的なものであり、過去の姿を固定化してしまおうという力付くの方法ともいえ、生態系の総合的な保全にはなり得ないと主張してきた。

人間の時間感覚ではなく、自然というレベルの時間の流れの中では、外来種を含んでの安定した生態系が生まれ出るだろう。
もう少し、時間のスパンを長くみての事実確認が必要だろう。
自然の時間の流れの中で、生物多様性保全というものを考えて行くということが本質であって、生物純血主義的な過去・現在の姿を固定してしまおうという現在のあり方は、むしろ生物多様性保全に対し棹さすやり方ではないのか、という素朴な疑問を持っている。

また、人体に直接的な被害を及ぼす生き物の場合は駆逐・駆除も1つの手段だが、過去数十年、数百年に遡り、国内に帰化し生きてきた種にまで、法の力によって遡り、駆逐・駆除を計るのはいかがなものであろうか、という問いでもあった。

今後に備えてという立場なら良いが、理念法を拵え、過去に遡り悪者としようという方法は、法の不遡及という大原則に反するもの、裁量により何でもありとなってしまいかねない。
過去に移入した種に対しては、個別に法を作り、承認を得るという丁寧な作業が必要だろう。

さらには、自然の中に外来種という悪者がいるから退治するのだという、勧善懲悪的な自然観を子ども達に植え付けるな、本来の自然、中立的な自然、ありのままの自然を観察するという感性が失われてしまう、という主張でもあった。

以上の問いかけに対し、キチッと答えてくれる行政・専門家・学者は残念ながら皆無であった。
黒船のようやってきた生物多様性条約により始まった、政治・行政的なトップダウンの動き、生物多様性保全の名を借りた自然保護的な政策なのだが、学問の世界は流行に乗り遅れるなという動きのみが目立った。

このような疑問に対して明確に答えてくれたのが、フレッド・ピアスの「外来種は本当に悪者か-新しい野生 THE NEW WILD-(草思社)」であった。
外来種を含む生態系、外来種が造り出す生態系というものを明確に示してくれた。
外来種は悪者ではない、新たな生態系の担い手だ、ということを明確に示してくれた。

私は、その感想として、後10年もしたらこのような考え方が我が国にも現れ、まともな生物多様性の取組がなされるようになるのではないかと、記した。

しかし、嬉しいことにそのような考え方が既に示されていた。
ピアスも海の中の孤島の生態系について扱っていたが、ここでは小笠原列島の母島が舞台となる。
海鳥の繁殖地の島と、海鳥が絶滅してしまった島の比較である。

保護的な色彩の強い現在の生態学の考え方からいうならば、海鳥の繁殖する島の方が豊かな生態系を持っているものと想像してしまうが、あにはからんや、海鳥が絶滅した島の方が緑豊かな、すなわち多様性の富む生態系となっているというのだ。
海鳥が消失した島は、海鳥により植生が踏み荒らされないため、緑豊かになるというのだ。
すなわち、ただ守れば良い、昔に戻せば良いという訳ではない、ということになる。

生態系は、動的に絶えず変化し、その時々の条件に即した安定を保とうとするのだ。
条件の変化にフレキシブルに対応するためにこそ、生物多様性が重要となるのだ。
生態系を現状のまま固定化しようとする、行政主導で進めている自然保護的な生物多様性保全と、生物多様性は異なる概念なのだ。

海鳥の住む島は、昔はグアノ(リン鉱石・窒素源)の掘削地だった。
リン酸、窒素源として掘削されつくし、現在ではグアノ資源は枯渇してしまった。
そのようにいわれてみれば、グアノの採掘した島々は、緑豊かな島というイメージはない。
グアノの島は、生物多様性という面では劣っていた、脆弱な自然ということになる。

動的な自然、気象・人間活動も含め動的な自然を過去・現在を含め、固定的に捉えることは、どだい無理な話なのだ。
固定的に考える、自然には手をつけるべきではない、ということも含め、管理という観念が先にある。
すなわち、保護・保全だろうが、開発だろうが、私たちの価値観で物事を見ているということでは同じということなのだろう。

昔、米国では、グアノ法という法律を作って、所有者(白人)のいないグアノを堆積する島は、世界のどこであっても米国の領土とするとして、グアノ採掘を行った。
米国に限らず、西洋列強の植民地政策による資源争奪の1つがグアノ、リン鉱石・窒素を巡るものであった。
今では、海鳥を保全せよ、手をつけるなだ。
化学合成など、他の手段により窒素・リン酸分の確保が可能となったから、海鳥の保全が可能となったのであり、ご都合主義といわれても仕方が無いだろう。

海鳥を失ったこの島の場合、海鳥の生息の復元を計り遠い将来のグアノの蓄積を計るか、海鳥を失った後に成立した豊かな緑を良しとし認めるか、ということになるが、理念・原理原則的な生物多様性保全の考え方をするならば、海鳥の復活ということになるのだろうし、現実的な考え方に立つならば現状の肯定ということとなろう。

いずれにしろ、現状では人間様の都合、声の大きな方になびくということになるのだろうから、このレポート「外来種の駆除を保全の目的としてはならない」は、無理無駄のない、多くの人々が納得できる常識的な範囲での生物多様性保全の取組へと進むための一歩となるニュースとなると良いなと考える。

・外来種の駆除を保全の目的にしてはならない理由
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/web/17/120700018/030200003/?P=3

FB:H300307

土壌は、植物が海を陸に持ち上げたもの。
植物と微生物・小動物の共生体だ。
全体で一つだ。

その海を皮の中に封じ込め、お腹の中に土壌を取り込んだのが動物。
養水分を体に取り入れる仕組みは、植物も動物も同じ。
土壌微生物の力を借りている。
と、大きく俯瞰し説いてきた。

「土と臓」は、このような観点について硬質な庭に有機物を与えつつけることで肥沃な土壌としたこと、そのことと体の微生物との関わり、病との関係について記している。
「失われてゆく我々のなる細菌」は、更に体腸内細菌叢に関して判明したこと、抗生物質などの使いすぎによる問題について記している。
良書である。

この数年で腸内細菌叢に関する知見が、このような書籍、マスコミを通じて世間に拡がった。
しかし、世間といっても広く、このようなことに興味を持つ人々の間に拡がったと言い直すべきだろう。
私たちの健康は、土壌微生物・腸内細菌叢との関わり、さらには、私たちの身体を構成する一つ一つの細胞が元気であることが土台となるのだということに関してまでの踏み込みは少ない。

微生物、細胞レベルにまで思いを凝らし、健康ということについて考え、これらの目に見えぬ小さき物が喜ぶ暮らしということに心馳せることが大切だろう。
食、薬剤、運動、呼吸は、細胞を元気にするためという考え方が必要だ。
味覚、噛む感覚などが鈍った結果、感覚、細胞の感覚を感じる力が劣化し、目、脳が欲する方向へと進みがちになってしまった。

結果、微生物を含む全体で一つ、繋がり、連鎖、循環の中で暮らしているのだが、目に見えぬ世界故、自分たちの都合でその連鎖を断ち切ってしまう。
この連鎖の破綻が、回りに回って私たちに返ってきたときに病におちいる。

これは、生命のつながりを第一に考え暗し続けてきた結果、古人の経験の積み重ねの結果、つたえ残された道に反する行為でもあった。
目先の便利、快適におぼれた結果の自然のしっぺ返しだ。
急激な変化は、最初は小さくても、拡大連鎖し、大きな反動・反力となって還ってくる。
操作可能の自然、自然を征服・管理しようとした結果だ。

こののような結果を真摯に受け取り、部分最適・対症療法に走ることなく、今一度、微生物、細胞、の声に耳を傾けよう。

FB:2017.12/22

腸内細菌叢を、「新たに見つかった臓器」だと言ってるよ?
で、「便カプセル」だってさ。

昆虫から動物まで、糞食は当たり前。
人間さまも、尿の飲用治療をやっているから、糞食を取り入れればよい。
尿も糞も、出たばかりは、悪玉菌は少なく飲食には問題が無いはずだ。

生まれたばかりの赤ちゃんは、母親の便に触れ、腸内細菌叢の元となる細菌を摂取している。

また、土や粘土を食べる、土食は世界共通。
モンゴルの仲間が言っていた。
妊婦は、土を食べるのだそうだ。
粘土中のミネラルの摂取、体の毒物の排泄効果とともに、細菌も取り入れているのだろう。
動物も土を食べ、健康?を保持している。

自然の生き物に取っては、当たり前の行為なのに、新発見とするのは如何に?

「便カプセル」などという新兵器も良いが、その前に、野生に帰れ、野生の勘を取り戻せ、と叫ぶべきだろう。

野生・自然が、最も効率的で、経済的なものなのだが、それさえも色々理屈をこねて、新しい医療術としてしまう根性が物凄い。

 

FB:2014.12/15

これが人間さまの生活。
糞便屎尿は自然のなかで分解され、その過程で体にも摂取する。
腸内細菌叢のかく乱と再生が繰り返される。

作物、肉と言えども、その元は土と水と太陽。
固形物の元は土。
土・地球を喰らっているのだから、本能に基づきバランスの取れた食生活をするならば、微生物も含め、必要なものはすべて身についている。
だから、身土不二。地産地消。一物全体。

便カプセル?、なんてものは要らないよね。
糞便・屎尿の有効活用・循環利用こそが、生活の基本。

ヨーロッパの都市は、その循環利用・有効活用ができず、流行病で大変な目に会った。
パリなどでは、下のものを始末する仕組みがなく、糞便屎尿を住居から追い出すのみ。
何のことはない、窓から道路に捨てるのだ。

この汚物を避けて通るための履き物が「ハイヒール」。
外出着が、コートなる。
淑女お気に入りの、裾の長い、ふわーっとしたロングドレスは、用を足すための着物。
どこで用を足すか?
庭の奥に行って、ドレスを着たまま、そのままできるのさ。
便利だろう。

庭園は、観賞だけではない。
実用を兼ねていた。
日本の回遊式庭園などとは次元が異なるのだ。
ハイレベルの目的を持っていた。

香水もしかり。
汚物まみれ?の体臭を消すためのもの。

ハイヒールを履き、ロングドレスを身にまとい、強い香水を薫らせる。
これが、女性のあこがれの的。
冗談じゃないよね。

温故知新。

人口が密集しても、同様のことをし続けた結果、都市は汚物まみれ。
ペストなど伝染病の蔓延。
このような状態を打開すべく工夫し、できたのが、下水道と公衆衛生・細菌学のセット。

汚物は目に見えないところに隔離し、細菌はやっつける、という基本戦略。
下水道を造っただけで、衛生問題は解決したはずだが、細菌・ばい菌というものを見つけたため、医学というばい菌相手の新たなる戦争を始めてしまった。

また、下水道と下水処理というとてつもないインフラを造りあげ、負の遺産を造ってしまった。
活性汚泥法と称する下水処理は、大利量の下水を集め、屎尿を微生物で分解するわけだが、その結果微生物が増える。
大量の水と、微生物(下水ケーキ)の処理を永久にし続けるというシステムだ。
水で希釈せず、地域単位で分散し、メタン発酵などをさせるシステムの方がインフラ投資は少ないのだが、巨大インフラを造り出した今、撤退もできず、そのメンテが次第に負担になって来ている。

でも、ヨーロッパの人々は、ばっちい生活をしたおかげで、強い細菌に対する免疫力を身につけた。
このばい菌とその免疫力の効果はものすごい。
世界の歴史を変えてしまった。

ヨーロッパの人々がアメリカ大陸へ乗り出し、原住民をたやすく征服できたのは、侵略したヨーロッパの人々自らが細菌兵器だったからだ。
これまでに経験したことのない伝染病により、免疫力のない原住民の人口は激減。
原住民の人口が激減したのだから、たやすく征服できたという訳だ。

このように、便利なばい菌達たったから、上手く使いこなせば効果満点。
西洋医学の骨頂は細菌学と外科。
負傷した兵士を細菌から守り、外科手術により効率的に戦線に復帰させる。
細菌は、侵略のための兵器にもなる。

これを逆手に使い、ばい菌が怖いという洗脳により、消毒と称して身の回りのばい菌を殺しまくり、ばい菌がいないための新たな疾病を造り出すという新たな戦略にも使える。
便カプセル兵器の出現だ。

ばい菌は、兵器にもなるし、薬にもなる、という訳だ。
平時は薬として使い、いざという時は、人減らしにも使えるという究極の兵器なのかもしれない。さじ加減一つだ。
どちらも、人を脅すことによる錬金術であることには変わりはない。

天は、強者を助ける。
しかし、強者は、天に助けられたことにより自滅への道を辿る。
人間様の時間の感覚では永遠のように思えるのだが、天の時間ではあっという間の盛り、栄枯盛衰の相なのだろう。

今できるのは、自然の循環に身を任せ、淡々と生きるのみ。
そのような人、仲間を増やして行くことが天与の生活なのだろう。

 

FB:2014.12/15

いよいよおしせまってきました。
最後は、健康ネタでしめくくり。
来年も、健康で元気で過ごしましょう。

みなさまにとって、健康で豊かな年となりますように。

・・・・・

仕事仲間から年末の挨拶が届きました。
心筋梗塞を患ったとのこと。
で、よけいなお節介。
昨日の健康ネタと同じ事の繰り返しとなりますが、参考まで。

・・・・・

若い内は、年は切り捨て。
中年は年相応。
年取ると、四捨五入。
最後は、四捨(死者)切り上げとなって、あの世へ組み入れられる。

65歳を過ぎたならば、70歳になったつもりで身体を使い、意識して免疫力アップに努めることが大切でしょう。

猿(地獄谷の猿)を見習い、身体と心を温かく。

・・・・・

病は、身体の悲鳴を聞き取らないために発生する、身体のクーデター。
身体をそれだけこき使っているということです。
大脳(心)も身体の内。
病とは、身体だけの問題では無く、心身のストレスの総和を身体が受け止められなくなってきた、というサインです。
とにもかくにも、身体と心を温め、休ませる事が大切です。

年末年始、身体と心をしっかりと温め、お休め下さい。

・・・・・

病原菌などの関係する急性疾患、切り貼りの外科など、急性的な病に対応するために西洋医療は発達してきました。
言ってみれば、戦争を遂行するための医学です。
病原菌をやっつける、身体に負った傷を修理する、早急に身体を復元して、再び戦場に送り出す、銃後の支えとして生産にあたりロジステックを怠りなく行うための医学です。

効率的に人を動かすためには効果的ですが、これとても直す主体は自然治癒力、自分の身体の持つ快復しようとする力です。

しかし、ともかく速く直してしまう、という方向に発達させてしまったために対処療法となってしまいました。
急性的な病に対しては、止む得ない方向だったのでしょう。
しかし、病原菌を病の主因とし、これを叩きつぶすという対処療法の効果は目覚ましいものであったため、これこそが医療とされ、現在医療の本流になってしまいました。

でも、慢性的な病は、病に至る過程の蓄積、病になる個人の素質というものがあり発病するものですから、病原菌を原因とするようなやり方では、根本的な対策には至りません。
このため、慢性疾患、生活習慣病などは、残念ながら、医療の不得手な分野となってしまいました。

病を悪者として、これをやっつけるための対処療法に走るために、いたずらに病を対立的に取扱い、自然治癒力を阻害する治療をする場合が多く、病が治っても、身体は死に至るということになりがちです。
病に至ったその人の全体、生活のあり方の総体を見ること無く、病に至った部分のみを相手にしてしまうためです。

病とは、その人の身体と心の状態に関する一つの表現と捉えるべきものなのですが、検査と称して身体の隅々まで調べられ、そのあげく悪いところを見つけたと脅かされ、患部を切除し、薬の投与するなどにより、麻痺させ感じなくなったことを、治ったとしてしまいます。

しかし、これは、大きな勘違い。
感じなくなったことにより自然治癒力が働き出すことを妨げ、更に状況を悪化させてしまいがちとなります。
たとえ、病状が消えたとしても、病に至った行動、生活習慣、すなわち、頭の中の構造が変わりませんから、再び、あるいは、形を変えて発病してしまいます。

病名、直接の原因が分かったならば、そのようになるまで心身を使い続けてきたことについて考え、真因を捕まえ、修正し直さなければなりません。
自分の身体を快復させるのは、自己の自然治癒力のみであることを理解し、心身の建て直しを図らなければなりません。
心身(心と体)と言っているのは、身体を酷使し続けるという心の状態、傾向があるからです。
心の状態をも含めた状況の変更を図る必要があるのです。

また、自己の持つ自然治癒力とは、免疫力であると共に、個々の細胞の回復力でもあります。
個々の細胞が元気にならなければ、力を取り戻さなければ、快復には至りません。
心の傾向、身体の使い方の癖を反省し、改めつつ、心身を休め、ストレスからの解放、身体を温め、細胞レベルの活力を取り戻し、自然治癒力のアップに努めることが大切です。

しかし、各人が持つ自然治癒力が働きやすいようにサポートすることが医者の本来勤めだと思うのですが、プロの腕前を見せようと、いろいろと余分なことをやってしまいます。
生活環境が良好・快適となった今、特殊な病以外は、極々当たり前の養生で回復してしまうのですが、それでは商売にならないというシステムがあるからです。
薬を与えなければ儲からない仕組みのため、余分な薬を与えてしまいます。

さらには、教育、マスコミなども、医療や薬に頼らないと健康は保てないとの大合唱を繰り返します。
そして、医者に対する依存度を高めようとします。
そして、庶民は、医療経済の神様に、身体を捧げるのです。
経済の神様のために、一生懸命、まじめに頑張り続け、そのストレスがたまりにたまって、病に至ります。
頭脳(神経・心)の疲れやストレスを、食い気、飲み気という形で、胃腸・内臓・血管のストレスに変換し続けてしまうから、身体の方はたまりません。

教育やマスコミを通じた洗脳で、病は医者・薬が治すものとしてしまいました。
ストレスの解消は、飲み食いすることだとマスコミは暗示します。
それは、経済優先の政治の賜です。
その結果、医者もまた、医療技術が病を治すと思ってしまいました。

自分の身体に備わった自然治癒力、40億年の生命進化の結果、身につけた自己治癒力の力を、自らが否定してしまったのです。
そして、庶民も又、医者という他人の手に自己の健康を守ってももらうということが当たり前としてしまいました。

本末転倒なことを制度化してしまい、教育によりその正しさを教え込み(洗脳し)、さらには、健康保険などと言って、医療経費を補填するシステムを造ってしまいました。
自分の身体の持つ免疫力を発揮させなければ快復しないのに、医者・薬を頼りにする心を植え付けてしまいました。
また、大枚の健康保険料を支払ってきたのだから、その元を取り戻さなければならないと、調子が悪いとここぞとばかり医者通いをするという、さもしい根性を植え付けてしまいました。
そして、医療費の肥大化を招いたのです。
医療が発達するほど病が増すという皮肉結果です。

心筋梗塞もまた、大きく見るならば同じことです。
心筋を形成する細胞の活力が低下したため心筋梗塞が発病してしまうものだと思います。
活力低下はなぜ起きるのか?
それは、心身のストレスの積み重ねの結果ですから、そのストレスを軽減してあげることが根本の解決策となるのでしょう。

心筋は、赤筋。
赤筋は、有酸素呼吸によりエネルギーを造り出すミトコンドリアを大量に含む細胞よりなる筋肉です。
酸素を運ぶのが血液中のヘモグロビン。
ヘモグロビンは、鉄が中心にあり、その鉄が酸素を運びます。
赤い色は、鉄の色。
ミトコンドリアは、細胞内の発電器ですが酸素が必要です。

堆肥で言うならば好気性細菌・高温菌の世界です。
心筋梗塞とは、いわば、高温発酵し、心筋が酸素切れになった状態と例えることができるかもしれません。
血流障害による、酸素・養分が断たれ、欠乏したために発病するものと考えられるのです。
堆肥ならば、切り返しすることにより、酸素を補給し、再び高温発酵に導くことができますが、心臓はそうは行きません。
再び、血流を取り戻すことが必要になります。

動物だから、酸素を運ぶのが血液。
酸素を十分に取り込んだ血液を心筋に送り込まなければなりません。
心臓に張り巡らされ血管に、血液を大量に送り込むことにより、赤筋である心筋が、死ぬまで止まることの無い有酸素運動、ミトコンドリアが持続的にパワーを供給し、心臓を動かしています。

心筋梗塞は、何らかの原因で発生したストレスの積み重ねにより血管に異常が発生した事による心臓の血流障害と言えます。
心筋を構成する筋細胞に酸素と養分が届かなくなってしまい発病に至るものだとされています。
血流障害となる主な原因は血栓などとされていますが、血栓に至る前の心身の使い方があったわけです。

心筋梗塞は、手術などにより見掛けの快復はしますが、手術により心筋梗塞に至った心身の素質が無くなるわけではありません。
回復・本復に至るには、適切な医療処置を行うと共に、身体と心を温め、血行を良くし、酸素と養分を取り入れ、個々の細胞の活力を取り戻し、自然治癒力である自己免疫力を高めつつ、病に至った素質・体質改善をする必要があろうかと思います。

以上 お節介ながら。
明年の活躍を祈ります。

2015/12/31 FB