「ひまなか(中野裕司)」の感じ、考えたこと・・・・・・・・・。                                  ML・FBなどの投稿を掲載します。

昨年末の投稿をシェア。
今年も、健康ネタで締めくくろうと思ったが、時間切れ。

来年も、心と身体を温かく保ち、細胞の隅々にまでみずみずしい栄養と酸素を配り、健康で過ごしましよう。
良き水、深呼吸、それに美味しい太陽の缶詰(食物)を取り(鳥)入れ、身体と頭を働かせ、汗をかき、適度かな負荷をかけつつ過ごしましょう。

先に紹介した「土と内臓」、「失われて行く我々の内なる細菌」の2書について語り、新たな年へと思ったが、長くなりそうだから来年にしよう。

これら体内に共生する腸内細菌叢に関する書物が、レイチェルカーソンの「沈黙の春」のような影響を与えることになりそうだ、なって欲しいと記した。
私たちの心身の健康を保つためには、体内に共生する微生物との関係構築、体内微生物生態系の健全さが重要だからだ。

読み進むと「内なる細菌」には、「沈黙の春」になぞらえて「抗生物質の冬」という記載がなされていた。
医薬品、抗生物質の使いすぎによる目に見えない影響が私たちの体内微生物の多様性を低下させ、微生物生態系の変容をもたらし、農薬による「沈黙の春」以上の影響を与えているということを「抗生物質の冬」と示したものだ。
農薬などは、食料を経て私たちの身体に、間接的な影響を与えている訳だが、体内微生物生態系は、私たちの身体の一部であり、その乱れは心身に対し直接的なダメージを与えることとなる。

かつて「核の冬」という事が言われた。
「核の冬」とは、「核戦争により地球上に大規模環境変動が起き、人為的に氷河期が発生する」という人類滅亡シナリオだ。
「抗生物質の冬」とは、体内微生物叢のかく乱による生命力の低下と耐性菌の出現により、抗生物質出現以前の大規模、世界的規模の伝染病(パンデミックス)の時代に逆戻りしてしまうという危険性を示したものである。

体内微生物のかく乱は、私が考えていた以上に重篤な状態となっている様だ。
ますます、心身を温かく保ち免疫力をアップし、医薬品、抗生物質に頼ることなく健康を保つ生活を送ることが重要になって来た。
耐性菌によるパンデミックスから自分、家族を守るためにも。
地球温暖化・生物多様性保全は、近未来の危機について語っているが、「抗生物質の冬」は、今、現実に進みつつある目に見えない危機といえる。

2016/12/31 FB

 

やっぱり目が行ってしまうのは、背後の緑・木々の姿。

明治の頃は、緑が薄いね。
戦後、石油を燃やし続けて造った緑。
その緑は、自然? or 不自然?

見た目の森の姿は自然だが、その本質を探るならば石油が育てた森。
自然なのかな~ ?

いすれにしろ、石油などエネルギー資源がなくなると、昔のようにあっという間にはげ山になってしまうよね。
鉱物資源、石炭・石油・放射性鉱物などの資源が枯渇したら自然の制約の中で暮らさなければならなくなる。

姥捨て、子殺しなどが当たり前であった時代だ。
資源の枯渇ものとでは、ヒューマニズムなどというしゃれたこみとは言っていられない。生命は、地球よりも重い、等という戯言は言っておられない。
そのような自然の掟に立ち返って未来を見据える必要があるだろう。

石油などが枯渇するのは数100年のオーダーだ。
エネルギーをふんだんに使い、長寿命を達成したが、人生80年、生産性の高い40年とするならば、5世代後程度にはエネルギーは高価なものになっているだろう。
エネルギーを持つものと、持ちざるものの貧富格差は想像を絶する大きなものとなるように思える。

真空から無尽蔵のエネルギーを取り出す技術、効率的な永久機関が開発されない限り、資源の呪縛からは抜け出せない。
ならば、そのような画期的な、夢の技術を編み出すまで、子々孫々が如何に生き延びられるかを中心において、本気のもったいない戦略を立てて行かなければならないのだろう。

しかし、後代に対する責任は無視し、大量消費者糧などと言う戯言の元、大量消費をさせる事を前提、経済成長を大前提とした社会システムの見直しを図ろうとしない。
エコもまた、新たな消費の入り口にしてしまうのだから・・・・・。

自然という悠久の時間の中では、あっという間に滅びの世界に突入しようとしているのに、人間様というものは脳天気だな~。

正月気分が抜けたので、いやな事を言っておこう。

2017/01/05 FB より

新年明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

 平成30年(2018年) 1月1日、戊戌(ぼじゅつ、つちのえ・いぬ[土兄・犬]・35/60番) 元旦
(昭和93年/大正107年/明治151年)

戊・戌 いずれの字源も矛

・・・・・ ・・・・・ いつもの干支を巡る与太話です。お暇な方はどうぞ ・・・・・

今年はどうなるやら・・・。
いにしえの先賢の経験知の積み重ねである干支(えと)から今年の傾向を探ってみましょう。

干支は、十干十二支60年を一巡り(一元)として、世界が循環しつつ生成発展をして行くという考え方。
植物が芽を出し、生長・成長し変化して行く様と、世界の変化の相似性を感じ取った古人の経験知の集合といえます。

・・・・・

今年の干支は、「戊(土の兄)・戌(犬)」です。
「つちのえ・いぬ」の年ということになります。

干支の最初甲子(きのえね)から35番目、60年(還暦)周期の真ん中、折り返しから5年目の年が始まりました。
60年の前半30年で造りあげた事柄の完成を目指すべく動き出し、5年が経過しました。
あるいは前半30年、青年期までに積み重ねた知識・経験に、さらに磨きをかける壮年期(朱夏)に入り5年が経過したといえます。
干支60年の周期の中での盛り、夏(朱夏)の時期です。

人も60年、陰陽五行、干支の巡りで動いているとされています。
胎児・幼児(0歳~5歳)、小年(6歳~14歳)、青年(15歳~29歳)、壮年(30歳~44歳・朱夏)、中年(45歳~64歳・白秋)、高年・老年(65歳~ ・玄冬)という5段階を経て成長します。
0歳~29歳までを春(青・木)、壮年期を夏(朱・赤・火)、中年期を秋(白・金)、老年期を冬(黒・水)とし、中年から老年への切り替わりの時期を土用(黄)とし、五行に当てはめています。

さて、今年の干支・戊戌を分解し、傾向を把握することとしましよう。

干支は、十干(五行)と十二支で構成されていますが、大きな年回り・幹(干)は干支の戊で、細かな部分・枝(支)は、十二支の戌をヒントとしイメージを膨らませて行くということになります。

また、他の干支にはない戊戌と、同様の字形、意味を同じくする文字が二つ続く年回りという特徴があります。二つ重なると言うことは、物事(斧)が強調、極端化されがちと言う事も表します。

・十干(根・幹の部分、天) 戊:土の兄(陽)

甲子から始まり、十干3巡目し、4巡目の半ば5年目・戊に入りました。

十干の始まりの甲は種子の芽吹きが潜在している状態で、乙は芽吹きに備え屈曲している状態、芽が殻の中で縮んだ状態でしたが、丙となり、火(陽気が)働き炳(明らか・つよし)となって行く、すなわち芽が地上に伸びて形をはっきりとさせる状態となったものが、丁では伸びきり、盛を少し過ぎ、戊に至ると生い茂った草木(陽)が蒸れ始め病害が出やすくなるため、これに手を入れ、風通しをよくしなければならない状態に至った事を示しているのです。
すなわち、枝葉を茂らせ、枝がしなだれ下がった状態(丁)となったため、これを矛で剪定し整理する時期に至ったということなのです。

戊の字象は、木と戈(ほこ・矛)であり、伸びきり繁茂した草木を刈り払う道具を表している。

昨年の丁の字象、ー(横棒)と│(縦棒)のぶつかり合った対立を整理するという事でもあります。
ただし、整理すると言っても、壮年期のパワーを潜ませているため、そのやり方により、解決に向かうことも、逆に更に撹乱させてしまうこともありますから、注意が必要です。

・十二支(枝・葉の部分、地) は戌(いぬ)

十二支の11番目。
元来は1年、12の月を表したものだが、12年の巡りへと拡大された。
11月を子(始まり)として月が変化して行くので、戊は9月に配される。
十二支の象も、十干と同様、夏の盛を少し越えた時期であり、草木が生い茂っており、刈り払う事が必要な時期といえる。

戌は、戊にーを加えたもので、茂と同意。
枝葉が茂って日当たりが悪くなり、風通しが悪くなって病虫害が出やすくなった象。
枝葉末節が過剰、肥大した姿。
戌伐(切断)、不要な枝葉を切り払う必要があるのです。
それにより、病害の発生による樹勢の衰退を防ぎ、来年の成長を期待できるようになるのです。

以上より、干支の枝である戌もまた、過熟状体に繁茂した枝葉を刈り払い、風通しをよくすることを示しているのです。

干支では、3年を一つの区切りとして動きを読み取るということをします。
甲午、乙羊、丙申と続いた3年の区切りが終え、今年から丁酉(革命・革新)、戊戌(過繁茂・行き過ぎを整理)、己亥(動き・爆発)と続く新たな展開へ向けての助走の年となり、その舵切りで次の十二支の始まり庚子(こうし・かのえね)の方向が定まるのです。

政治、経済など、自分の興味のある処に、このような象が暗示する様を当てはめ、各人が考察する必要があります。
干支の示すところをヒントに、幹と枝葉の関係などの事象がなにを現しているのか、考えてみると面白いでしょう。

自分、個人の興味ある分野について干支の示す象を考察する助けとして、十干(天・根幹)と十二支(地・枝葉)を組み合わせた60年(一元)を一区切りとして過去へさかのぼり、世情を確認して見ましょう。

※昭和33(1958)年(一元前)

・政治・社会
国際原子時の起点 / 欧州経済共同体設立 / アラブ連合共和国建国/ China大躍進 /
関門トンネル開通 / 売春禁止法施行 / 安保解散 / 各地でTV局開設 / 東京タワー竣工 /
電車特急「こだま」運転開始 / 天皇陛下と美智子妃が婚約 / 新1万円札(聖徳太子)発行
・科学
米、初の宇宙衛星打ち上げ / ヴァンアレン帯の発見。
・食
学校給食に牛乳加わる / チキンラーメン販売 / 缶麦酒発売 / 炭酸飲料ファンタ発売
・災害
狩野川台風神奈川県に上陸

※明治31(1898)年(二元前)

・政治・社会
米西戦争 / 英・清より英九龍半島租借 / 仏・清より広州湾租借 /
米、ハワイ併合・フィリッピン・グアム・プエルトリコ領有 /
沖縄徴兵の対象となる / 日本初の鉄道スト / 家族法施行 / 淀橋浄水場竣工、初の水道 /
上野公園西郷隆盛銅像除幕 / 児玉源太郎台湾総督 / 初の政党内閣(隈板内閣)
・科学
キューリー夫妻、ラジウム発見

※天保9(1838)年(3元前)

・社会・政治
英・人民憲章発表 / 英・ビクトリア女王戴冠式 /
江戸城西の丸再建 / 江戸大火 /中山みき天理教創始 / 緒方洪庵大阪に適適斉塾を開く

・享保3年(1778)年(4元前)
クック、ハワイ諸島に到着 / 米・独立戦争 /
ロシア船が蝦夷地に来港 / 豊後、安芸両国の農民検地の中止を訴えて一揆が起きる。

・政治的な動きとしては、4元前に、米国の独立戦争勃発、キャプテンクックがハワイ諸島を発見し、2元前に米国がハワイを併呑している。発見から120年後である。米国の西部開拓、西へ西へと向かう動きがハワイ、フィリッピンに達したのである。その1元後には日本を飲み込み、ソフトな占領政策といえる安保問題により、国会が解散に追い込まれている。
苅込・整理が上手く行かず、その後の安保反対運動へと拡大する道を開くこととなった。

2元前に、上野公園に西郷隆盛の銅像が建ち、2元の後、120年後の今年はNHK大河ドラマで西郷隆盛が持ち上げられる。明治革命の主役を演じた西郷隆盛であったが、革命の結果は自らの思いとは大きく乖離し長州勢力の腐敗の温床となるなどにより、不満分子に担ぎ上げられ西南戦争にて死することとなる。
明治政府に取っては反逆の徒であるが、後ろめたき故に、一新後33年もしてから贖罪のため銅像を建てた。
しかし、その影響を畏れ、式服ではなく浴衣姿という偉人としては異例の銅像である。
今回のNHKで西郷隆盛の大河ドラマはどのような思惑が隠されているのだろうか?
坂の上の雲などから始まる明治賛歌はどのような意味を持っているのだろう。
近頃、とみに、明治革命の問題点が取りざたされ、官製の歴史の見直しが巻き起こってきているが、これに棹さすような行為に思われる。

・科学の世界では、2元前にキューリーによるラジウムの発見、1元前は宇宙衛星の打ち上げと、原子力、宇宙科学の走りとなっている。

・食の世界では、学校給食の欧米化による牛乳の導入、インスタントラーメン、缶麦酒・清涼飲料が1元前のことである。

政治的には、なにやらきな臭ささ、混乱・撹乱の兆しが見受けられ、科学の世界は新たな切り口の科学が始まるが、いずれもその後、兵器へと転用され花開くものとなってしまった。
食の世界では、食生活の乱れの始まった年回りということとなる。

・・・・・

このような時期を人の身体に当てはめてみると次のようにいえるだろう。

陰の女性の場合は33歳が本厄です。
壮年期の盛であり、勢いが盛んであるだけに気をつけなければならない時とされます。
35歳の今年は、次の37歳の厄・女を卒業する時期となる庚子(新たな芽生え・更新の象)の厄を楽に越すことができるよう準備の時となります。
33歳を過ぎると、身体的にはホルモンバランスが変化し、子どものできない身体への脱皮の準備にかかります。
37歳以降、脱皮・変身をはかるということになります。

陽の男は、42歳が本厄。
男に取って最も盛んな時期ですが、盛んなときほど変動は激しく出やすく、中年に入る準備の時でもあります。

栄養の不良だった時代、人生50年などと言っていた時代は、50歳に近づくと老境に入ったとされておりました。
栄養状態が良くなった今日は、まだまだ若造です。
30代は、油の乗り切った40代を過ごすことができるよう、助走の時となりました。
助走といっても無理を重ねるということではありません。
力を発揮出来るよう、しなやかな身体と心を練り上げるときと言うことです。
30代でしなやかな身体と心を練り上げるならば、中年、老年は健やかに過ごすことができるという事なのです。

その次の厄は、陰陽・男女ともに干支が一巡する61歳となります。
還暦60から折り返し、0に戻る新たな巡りが始まります。
120歳、大還暦に向けての折り返しです。
60歳で折り返すと61歳ではなく、59歳、58歳と、だんだん若返って行くと考えると楽しく生きて行けそうです。
理想は、0歳の大還暦にあの世に旅立つことです。
人間の生物学的な最大寿命(潜在力)が120年と言われておりますから、大還暦に挑戦するのも一興と思います。

栄養と共に、衛生状態がよくなり、老化のメカニズムも理解され、120歳まで生きることが可能な時代となってきました。
しかしながら、一方では、30代の助走に失敗し、過度の栄養の取り過ぎによる生活習慣病を引き寄せてしまい、なおかつ生活習慣が招き寄せたにもかかわらず、医療に頼り、医者が治すと信じこまされ、信じ込み、自分の足で立ち上がろうとしないため、慢性的な自殺行為に及び、中年後半から老年に生きる屍となりかねないということが、今日の状態となっております。

貧富、健康、共に二極化が進んで行くという時代へと進みつつあります。
様々な情報をかしこく受取り、自立・自尊を図ることがいよいよ大切となってきております。

ともあれ、干支的には今年は、30代半ば、油の乗り切った40代へ向けての助走の時となります。
この30代半ばまでに身につけた体力、知力を壮年期で如何に使いこなすかで中年、老年のあり方が定まってきます。
干支的には、社会又しなやかさを造り保たないと、つらい中年期を迎えることとなってしまいます。

草木、樹木、植物は過繁茂となり、刈り払い、強剪定し、風通しをよくしなければならない状態。
人は、意気盛んな壮年期ではあるが、心身の手入れを行い、しなやかな身体と心を涵養し、中年・老年に向かっての助走の時。
社会は、成熟した状態に至っており、爛熟から腐り落ちるのか、その果実を上手く食べ、次なるステップへ進むための資とできるのかが問われているようです。

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干支の世界では、ホロスコープ(出生時の天体の配置図・幾何による占星術)のように星と人とを数で直接繋ぐことをせず、その間に自然・草木の生活還環境を仲介させ、物語を紡ぎ出しました。
それが十干・十二支(干支)です。
干は、甲乙丙丁戊己庚辛壬癸の十干。
支は、子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥の十二支です。
十干を、中国哲学の基礎となる五行(木火土金水)に変換するために、
甲乙(木)、丙丁(火)、戊己(土)、庚辛(金)、壬癸(水)の5グループに分け、
先を兄(え)、後を弟(と)としたことより、干支を「えと」と呼ぶようになりました。

五行は、7曜から、太陽と月を除いた5つの惑星。
木星、火星、土星、金星、水星なのですが、新羅万物に対し、この5つの逆走する惑星の性に分け分類し五行説としました。
万物は、五行(五つの性質)から成り立っていて、その消長、結び合い、循環によりあまたの現象として現れるというものです。兄・弟で陰陽、5グループは五行、偶数と奇数の組合せで物事を理解することができるとしたわけです。

十干十二支では、60年で一周期、還暦となります。
宇宙・天地・自然を貫き、循環するエネルギーの変化の過程を60のタイプに分類したものといえるのです。

五行相生説では、木火土金水、木火土金水と循環し、土から金が生まれ、金は水を生むという流れが順当に進んでいることを吉とします。自然の循環に即しているからです。
これとは異なり、五行相克説は他の性に対し優位になる状態を示し、火は金を克し、金は木を克す、のであり、火は金を溶かし、木を倒すのに金物の斧を使うと言うように、押さえ込む様を現します。
いわゆる「あいしょう・相性」が五行であり、循環する方向の流れが吉(相性が良い)であり、相対する性とは、凶(相性が悪い)と見るわけです。

昨日の「冬の身体・風邪」に対する投稿のつづき・補強。
中野理論というコメントがあったため、反応。
深い処に、長い書込をしたため、表に浮上させておこう。

私のやってきたことの中に、孫引きしつつ自分が本家だという方が多すぎるので、各人が判断できるようネタを表に出しておこうという事があった。
氏素性、系譜を明らかにしておくことは大切なことだろう。
それで、中野は、何処まで勝手な事を言っているかという判断もしてもらえる。
長い前段、屁理屈が嫌いな方は、最後の方だけお読みください。
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私の風邪理論というよりも、野口晴哉師の観察と技術に基づき展開される論を、私の経験と屁理屈で取纏直したもの、ということになります。
本家の「風邪の効用(筑摩文庫)」を熟読することをお勧めします。
私の説くことは、初級、入り口の部分。

野口晴哉師は、疲れというものの本質は偏り疲労、その偏り疲労からの快復過程が、風邪というものであると喝破しています。
そして、一連の快復過程を、自力・自分の体力で経過することにより、身体が整うと共に、パワーアップすると体験的に語っているのです。
そのための、具体的な技術が活元運動・愉気・整体法・体癖ということになります。
極めようとするならば奥が深いのですが、初級編を理解し実践するだけで健康を保つことができるのです。

50年近く医者のお世話にならない生活をしているが、30数年前に野口整体を体系的に学び、それまでの我流のやり方で良かったのだと納得でき、初級的な応用で子ども達も医者知らずで育てた。
野口晴哉師のものの見方は、私がそれまで学んできた自然観察、生態学、進化生理学的な知見、自然というもの、自然の流れと、自然の身体、身体の自然の流れというものと同じ大系の中に収まってしまうのです。
同じ自然のなかのことですから、当たり前と言えば当たり前のことですが、現代医療の不自然さとは異なるのです。
そのような経験からの話しです。

現代医学はエビデンスと言う訳ですが、大勢のデータを集め、科学的・統計的に確かめられたもの、ということです。
下世話な言い方をするならば、「大勢で渡るから怖くない」です。
しかし、それは、一つのものの見方であって、私と他は異なるものですから、何処まで、そのエビデンスが私に適応できるのか、信頼できるか、大勢の中に私は入っているのか、ということとは別問題です。
自分の身体の場合は、今の環境・状況ではと、自分に当てはめて見直す必要があるのです。
医療の結果は自己責任、医者はエビデンスに基づきましたとし責任は取ってはくれません。
薬、医者に任せっぱなしという訳には行かないのです。

自分の商売について考えて見てください。
プロとしての自覚、力量はあるでしょうが、今だ発展途上、全知全能というわけには行きません。
それが、薬、医者となると、全知全能の神様扱いをしてしまい、自分の一番大切な「いのち」さえもあずけてしまいます。
医者とて人間、薬も人の作ったもの、何処まで信頼できるかは、本気で長年つきあってみて、やっと納得できるのです。
それが、こと医療に限っては忽ち神様扱いにしてしまいます。
それを不思議に感じないといことが、不思議でたまりません。

生き死にを左右するような緊急を要する重篤な病の場合は、プロの出番でしょう。
しかし、風邪については、他人がどうこう言おうと、自分の身体を使って実際にその経過を観察してみることができ、その結果を実感し納得できるものなのです。
個人個人の身体の使い方は異なりますから、風邪に対する医療による治療の決め手はありません。
エビデンス以前のものです。
自分の身体の使い方と、風邪の引き方、治り方についての観察が大切なのです。

しかし、薬や医者が治すと、自分の身体を他者に丸投げし、依存することが良いとしている間は、このようなことはわかりません。
症状が緩和され、消え、今・明日の仕事・遊びに間に合えば良いのであって、自分の身体の中の回復過程を観察してみようなどというまどろっこしいことにはつきあってはいられません。
自分の内ではなく、絶えず外界を向いているからです。
薬、医者に丸投げが気楽だというのならば、それもむ一法。
己の選択・責任です。

ただし、自分の身体を観察をする気になるならば、感じることができるのです。
このようなやり方が面白いと思うのならば、自分の身体を使うだけのことですから、自己責任でやってみれば良いだけのことです。
やってみた結果という事実が一番です。

でも、ため込んだ疲労、ストレスが大きいと、また、体力があるならば、偏り疲労のため込んだ反動は大きく出てしまいがちです。
このため、上手に身体を弛める生活をおくり、少しずつ風邪を引いて、排泄、快復へと向かわせる、ため込んだものを少しづつ吐き出して行くということも考えることが必要でしょう。
その為には、普段から身体と心を温める生活を心がけることが大切です。

身体を温めることにより循環が良くなり、細胞レベルにまで養水分を届けられるようになり、また排泄作用が高まります。
それには、運動と深い息、良い食と水、ということになります。
筋肉を動かすから、熱が出ます。
動く事により、呼吸が速く深くなり、内臓も一緒に動きます。
汗、大小便による排泄も促進されます。
特に、大の排泄は、動いて腸が揉まれ、お腹の筋肉が強くなることでスムーズになります。
全身を程良く疲労させるならば、それれは快感であり、スムーズに疲労回復に向かうのです。
それに便乗して、深い処にため込んだ疲労も抜けて行きます。
身体が元気になるならば、自ずから心も明るく温かくなります。

従って、運動といっても偏り疲労を大きくするようでは逆効果です。
上体が緩み、お腹に自然に力が集まるような姿勢での運動が大切です。
余分なエネルギーを発散させるため、筋力をアップされるための強い運動も時には大切です。
しかし、身体を整えるためには、絶えず身体の使い方・姿勢について意識し確認し、上体が緩み下腹部に力が満ちるようにバランス良く動いているかということが観察、修正できる運動を行うことが大切になるのです。
歩くこと、東洋的なスローな動きの運動が適しているのです。
フラダンスなどもいいですね。
無論、活元運動はお勧めです。

2017/12/26 FB

Xmasのお祝いをメッセンジャーでいただいた。
その返信への、冬の身体・風邪についてを転載・補強。
・・・・・
merry Xmas・一陽来福。
世界中が、冬(殖)のさなかの冬至のお祭り。
陰の極地。
これから、お日様の力が増して行きます。

同時に、寒さに対し引き締まった身体が、春・夏の身体になるために、次第に、少しずつ開いて行きます。
骨盤から始まり、後頭骨へと、半年近くをかけ徐々に開いて行くのです。
植物が春に花開く、動物が冬眠し出産するのと同じです。

古人は、そのエネルギーが満ちた状態を冬(殖)と観じました。
外なる季節の変化と同時に、内なる身体の季節の変化をお楽しみ下さい。

なお、開き行く身体のため、瑞々しい身体を作るためにも、身につく水分の補給をお忘れなく。
冬の外気は乾燥していますから、身体が乾燥する時期なのです。
口に含んだ水を、温めるようなつもりで、少しずつ嚥下します。
細胞レベルにまで染み渡ってゆき、身体のみずみずしさを取り戻します。
ゴクゴクと水を飲んでしまうと、身体は沢山の水がやってくると理解し、水を捨てるモードに切り替えてしまいます。
これを防ぐために、ちびちびと飲むのです。
山登りのときも、こまめに水を飲みますが、それと同じです。

身体のみずみずしさ、弾力を取り戻すならば風邪は逃げて行きます。

風邪とは、風の邪気、冷えが身体に入った状態。
このような時、体力が低下すると、日頃のストレスの積み重ね、疲労・過労がどっと吹き出します。
そして、吹き出されることにより、健康・正常に復してゆくのです。
疲労・過労により縮こまった身体が、熱を出し、排泄することで弾力のある身体を取り戻そうとするのです。

春(張る)に向かう身体が弾力性を取り戻そうとする、いのちのダイナミックなリズムの一コマといえます。

疲労・過労により冷え固まった身体を温め、咳や痰などによる排泄を邪魔しないようにするだけで経過し、元気が回復すのです。

しかし、せっかく始まった疲労の排泄を押さえ続けてしま人うが多いのです。
押さえつけると、ウイルスの力までも使って疲労回復に向かわせようとするのが身体、生命の働きです。
身体のもっている知恵なんです。

このことは、風邪をひいたら卵酒を飲んで寝ていれば良い、熱いそばを食べて休めば良い、古人の経験の積み重ねで理解できます。
インフルエンザも風邪の区別などはしていないのです。

でも、古人の経験智、自分の身体のもつ力を信じられない人達が多いのです。
インフルエンザは怖い怖いと脅しつけられ、頭の中がインフルエンザになってしまった人でしょう。
そのような人達が、近代の流行りのインフルエンザという恐怖に怯えているのです。
そして、予防と称してワクチンを打ち、風邪にかかりそう、かかったと薬を飲み、風邪を無理矢理押さえつけ、仕事に、遊びに、無理に無理を重ねて、悪循環を造り出し、病を造り出しているのです。
急げ急げの現代社会は、早急な快復を要求するため、無理に無理を重ねることとなってしまいます。
この点で、風邪も又、今や生活習慣病といえるのです。

健康を保つのに、僅かな刺激で回復に向かう身体が一番なのです。
卵酒や温かいおそばが、僅かな刺激にあたります。

冬至はゆず湯。
お風呂、湯船に十分浸かり、身体を温めることも良いでしょう。
お風呂は、温まると共に重力からの解放です。
骨休めにより、骨髄が働きだし、免疫力を高めます。

しかし、無理に無理を重ねて身体に過度の負荷をかけすぎると、あるいは老化が進むと、快復力が弱くなり、なかなかそのようには行きません。

快復にはエネルギーが必要です。
食により、身体を構成する物質と共に、エネルギー源を得るわけですが、細胞レベルではミトコンドリアがエネルギーを造りだします。
冷えた身体を温めるために熱をだし、細胞・ミトコンドリアを活発にし、排泄力を高めます。

身体が冷え、弱っているとエネルギー不足となり十分な発熱ができません。
このような場合、湯たんぽや蒸しタオル、お風呂などで熱を補ってあげるこという方法があります。
ミトコンドリアの活動しやすい体温に誘導してあげるのです。
循環が蘇るように誘導してあげるのです。

細胞は、食で得られたエネルギー源を、酸素を使って熱とするのです。
この力が弱っているとき、湯たんぽ、蒸しタオル、お風呂などで、外部から熱エネルギーを補ってあげるのです。
呼吸と食をショートカットする方法といってもよいでしょう。

2017.12.25 FB

化学調味料も食品添加物の一種ということになろう。

すなわち、薬剤ということになる。
現在の食品は、合成された薬剤を用いて化学的(味覚・色覚)のみならず、物理的(食感)にもまた改良している。

合成したもの、あるいは精製し純化したものは、細胞レベルで化学反応的な撹乱を起こすことはよく知られ、問題視されている。
一方、物理的な面、味覚・食感については等閑視されている。

合成物質、精製純化されたものに味覚は馴らされ、口触りの良いものを食べ続ける、ということにより、口を使うという動物の最も基本的感覚(味覚)・舌を鈍らせると共に、口を動かすという動作、筋力を低下させている。
結果、鰓の張った顔が消え、表情を乏しくさせてしまっている。
これが、食品添加物の使用による、物理的、筋肉的・運動的な側面だ。

柔らかで甘い食物は、口蓋周辺、舌部の筋力の低下を引き起こす。
よく噛まないで飲み込むという雑な食べ方となり、胃腸、腸内細菌叢へ負荷を与えるとともに、口まわり、舌、顔面の筋肉による血流ポンプの機能を低下させるために、頭部・脳への血流を減らし、考える力を低下させ、また、心臓、頭部を支える筋力を低下させる。
口のことと安易に考えることにより、化学的にも、物理的にも、身体全体にたいし連鎖的にダメージを及ぼしているものと感じる。

口は、動物が生きるための入り口なのだから、大切にし、動かさなければなければならない。
試しに、口をできるだけ大きく開けてみるが良い。
そして、大きく開けた口の空間の中で、ベロ・舌を大きく動かして見が良い。
首が引き締まり、背筋が伸び、姿勢がただされ、また、顔面とのつながりが意識されることだろう。
ついでに、顔面の筋肉を色々と動かすならば、脳の血行も良くなり、頭がすっきりすることを感じられるだろう。
かように、口は全身、頭・脳と繋がっているのだ。

美人になりたければ、口を動かす事が大切だし、美人になる努力は、脳も又すっきりさせ、姿勢を含め身体全体をキチッとさせることとなるのだ。
全身美人への入り口なのだ。
口が大切という所以である。
ただし、口を使うといっても調子に乗ってのおしゃべりは、いただけない。

話しが横道にずれたが、食品添加物の効果については、体内の化学的撹乱・汚染という側面とともに、物理的な側面、筋力、体力、姿勢などの側面からも検討すべきものと考える。
私たちは、全体で一つの生き物。
細胞の組織だった集合体ではあるが、部品の寄せ集めではない。
一つは、部分は、全体に波及するのだ。
口を動かしてみて、理解できただろう。

動物は、腸を作り口で物を食べることにより、進化した。
すなわち、口・腸が動物の出発点なのだ。
仇や口・腸を、口から入るもの(鼻・息を含め)おろそかにする無かれ。

ましてや、入れたら出すもの。
口からの飲食は、便、小水、汗として、鼻・口からの息は吐き、消化吸収されたものは、身体を構成する組織の材料として新陳代謝を繰り返し、片やエネルギーとなって動き、考えることにより発散・排泄?している。
その入力と出力の間に自分がいる。
難しくいうならば、動的平衡ということになる。

体内に取り入れた化学薬品は、細胞レベルの攪乱・汚染を引き起こし、汚染物質は排出されず滞留、蓄積することが問題なのだろう。
攪乱に対しては、身体は回復力を持つものであるため、適度の攪乱は身体を強くするものであり好ましいものといえる。
薬は、この適度のかく乱を招く範囲で使い個こなすのが原則だろう。
千差万別の各個人に対して処方することが、さじ加減ということであった。
さじ加減を忘れ、感覚を鈍らせるほどの大量・長期の薬剤の使用と、その結果の残留、汚染に薬害問題の本質があるのだろう。

生き物の常として、刺激に対する慣れがあり、大量・長期に使用し続けてしまうと、狎れとなり、癖がつき、偏ってしまう。
使い続けることにより、身体、細胞が慣れ、狎れ、さらに強度を上げなければ効能を期待できなくなってしまう。
すなわち、依存度を次第に高めてゆくということになる。

身体に取って良いもの、悪いもの総てに対し慣れの反応がある。
このため、元気・健康を保つためには、適度なかく乱を繰り返しつつ、動的なバランスを取って行くことが好ましいのだ。
一概に食品添加物、薬剤、農薬、肥料について否定しているのではなく、その使いよう、慣れと汚染に問題があると言っているのだ。
適、さじ加減を忘れた事に問題があると言っているのだ。

化学薬品だけでなく、動作についてもなれると言うことは同様だ。
慣れることにより、自動化される、無意識に動けるようになるというように身体の構造はできている。
意識的な運動から、無意識的な運動への移行、変化だ。
これが、身体に取っては合理的だし、余分なエネルギーを消費しなくとも良くなる方法だ。

体内の場合の慣れも又、細胞レベルでの合理化、エネルギーの摂生だ。
体内で合成していた物質を、体外から大量に与えられ続けるならば、体内で製造する必要はなくなり、そのような組織・器官は萎縮する。

筋肉を使うという面でも同じだ。
鍛えれば鍛えるほど性能を増し、逆に杖などを与えれば頼る、使わなければ萎縮する、というフィードバックが身体の中に埋め込まれているからだ。

そのフィードバックを良き方向へ回す、善循環とするか、悪しき方向へ回す、悪循環とするかは、私たちの選択に任されているのだ。

依存度を高めるほど商売には好都合の善循環となるわけだが、個人の心身の健康ということではマイナスとなり、悪循環を形成させて行く。
時間の経過と共に組織としての商売(ムラ)の経済循環と、個人の健康面での悪循環の乖離が拡大し、問題が大きくなってゆく。
現代は、まさにその乖離が開きすぎた故の社会問題に直明しているといえるのだ。

楽に流れる、流そうとするものが沢山ありすぎる今日。
楽、快適とは、依存度を高めるという方向。
その楽に乗り過ぎ、自らの心身の健康を、社会・環境の健康を害してしまったのが今日。
その行き過ぎた依存から抜け出すのは、依存度を高めやすい脳の声に偏るのではなく、胃腸などを含む身体の声を聞き入れる感覚を磨き、慎みと時としては撹乱も許容する、適度なバランスを保つ生活への切替が必要だ。
絶えず慎みを持ち、動かないと、楽に流れ、崩れてしまうからだ。

FB 2017.12.24

本屋で見つけた2冊。
「土と内蔵」、「失われてゆく我々の内なる細菌」。
まだ、読むには至っていないが、近頃、腸内細菌、マイクロバイオームに関する書籍が目白押しであり、その最新刊だろう。

かねてから、私は次のことを言い続けてきた。

生物進化の道筋、及び堆肥作り・土作りなどの類推から、土壌は海から陸に上がった植物が、根系を通じて養水分を得るために、海を陸に持ち上げたもの。
よき土壌には有効土壌菌が多く病害菌は生存できず、十分に根を発達させた植物は健全に生長し、良き作物を作り出す。
土壌は、植物と土壌微生物・細菌の共進化の結果出来上がったものである。
元気、健康な植物は、健全な土壌と健康な根系発達にささえられており、その淵源は土壌微生物とその餌になる土壌有機物(堆肥・腐植)にある。

これに対して、移動することにより餌を得るという生存戦略を取った動物は、おなかの中に土壌を取り込んだ。
それが腸内細菌叢(腸内フロラ)であり、動物もまた腸内微生物と共進化したと言えるのだ。
そして、腸内微生物叢の良し悪しが健康を大きく左右し、堆肥作りと同様にお腹の中に種菌を保管する場所があるはずであり、それは盲腸・虫垂突起だろうとも述べた。
また、栄養吸収のみならず、体内への異物侵入の関所としての免疫系、取り入れた食物に対する好き嫌い、満腹感などに由来する感情・心もまた腸が根っ子、淵源なのだと言うことも述べてきた。

食の淵源を辿るならば、私達は土壌微生物、植物、腸内微生物を介在して、土と太陽、そして二酸化炭素を食べて生きている。
エネルギーとしての太陽と気体の二酸化炭素を脇に置き、固体という面では、私たちは「土食らい」とも言えるのだ。
地球そのもの、住まいする周辺の土地を食べ続けてきた、といっても良いだろう。
だから、先達は「悔い改め」は「喰い改め」から、身土不二、地産地消とも説いてきた。

地域、その土地に根ざして植物と土壌微生物が共進化し、動物及びその腸内微生物もまたその土地に根ざし共進化して来のだから、その土地のものを食すことが最も自然に順応した健康的な生活のあり方と言うこととなる訳だ。
今流行の栄養価、カロリーオンリーでは、片手落ちであり、不健康な状態を作りやすい食物となってしまうという訳だ。
ましてや遺伝子組み換え作物などは、微妙なところで不協和音が生じることとなりやすい物となることは想像できる。
今の科学では解明不能な閾値の問題なのかもしれないが、長期間の後に、因果関係の定かではない異常として浮上することも考えられる。
生物多様性保全では、安全であることが確かめられるまでは新たなものの導入は避けると言う「予防原則」が声高に叫ばれている。
しかし、不思議なことに、我が身に直接関わる食の問題に対しては予防原則が唱えられないというアンバランスな問題も発生している。
健康問題の発生可能性よりも、経済原則が優先のようだ。
云々。

キチッと身体と心を使いこなすため、心身の健康を保つためには「腹」が大切という考え方は、経験智の積み重ねである東洋医学、和法などの伝統医学の世界では常識である。
近年、心の震源は腸を主とする臓器にあり、免疫もまた腸管系が中心となっているなどが科学、医学の世界でも解明されつつあり、虫垂が腸内微生物の隠れ家、保管庫となっているなどの解明が進み、腸内細菌に光が当てられるようになってから、伝統医学の世界へと急速に接近してきた。

「土と内蔵」、私が説いてきた世界そのもののタイトルだ。
「失われてゆく・・・」は、化学肥料、農薬、殺虫剤・殺菌剤の多用、及び土壌有機物(堆肥)の不足により、痛めつけられ、固結し、土壌微生物が失われた土壌と類似の腸内微生物環境に関するものと思われる。
土壌環境の悪化により、また、レイチェル・カーソンの「沈黙の春」などのインパクトにより、化学肥料・農薬多用から有機栽培へと切り替わっていった。

さて、この2冊は、どのような新たな知見を示してくれるのだろう。
願わくば、「沈黙の春」のような社会環境を変えるようなインパクトのあるものであってほしい。
そのような書籍の出現を願っている。

画像に含まれている可能性があるもの:1人

・土と内臓
http://www.tsukiji-shokan.co.jp/mokuroku/ISBN978-4-8067-1524-5.html
・失われゆく我々の内なる細菌
https://www.msz.co.jp/book/detail/07910.html

2016年12月20日FB
https://www.facebook.com/himanaka/posts/1177028019013144

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いろいろ、本当の理由が挙げられているが、なんか違うな、違和感が大きいのです。
それは、皆「自分」が中心だからなんでしょうね。
個人主義という、現代教育の賜、成果なんでしょう。
しかし、これは主義であって、真実では無い。
人類史という長スパンの歴史に裏付けられたものではない。
実験中のスタイルなんです。

子育てが大変だと言われたくないから?
自分の達成感のための子育て?
自分の人格がどこかに行っちゃいそうだから?
本気で、自分中心の、この言い訳が本当だと思っているのだろうか?

子育ては、生理的早産の時期、授乳期は、母子一体を保つ必要がある。
その時は、母子一体、我が子のために、我が子と時間を共有する大切な時期。
無我夢中の時期だろう。

その後は、徐々に離れて行くことが大切。
伝統的な子育て技術が途絶え、このメリハリが上手く行かなくなったから、子供達は外界・世界との繋がりに対し不安感が強く、親離れしようとしない。
親も、子離れできないという悪循環のような気がする。

昔々の貧しかった時期は、否応なく子育てをやっていた。
今よりも、多くの子を生んで、育て上げていた。

子どもを抱っこし、おんぶし、家事労働をこなしながらも一体を保っていた。おんぶできない場合でも、目で追うことのできる範囲で仕事をした。
母が忙しい場合は、上の兄弟が、弟・妹をおんぶしていた。
それが当たり前だった。

その時期が過ぎると、子供達は次第に母から離れ、兄弟・親戚・友達集団の中で育って行く。育てるのでは無く、育っていった。

子供達は、子守などの労働力として家庭の中に組みこまれる。
弟・妹を子どもがおんぶしながら遊ぶのも、その一貫だったろう。

イザベラバードなど、幕末から明治初めの日本に関する紀行文を読んでみると、子育てについて興味深い文章にであう。

大人は、極度に子供達を可愛がる。
子供達は泣かない、親の言う事を良く聞く。
子育てに関しては、西洋よりも優れている。
などなど
以下、日本奥地紀行より抜粋して示す。

・これほど自分の子どもをかわいがる人々を見たことがない。子どもを抱いたり、背負ったり、歩くときには手をとり、子どもの遊戯をじっと見ていたり、参加したり、いつも新しい玩具をくれてやり、遠足や祭りに連れて行き、子どもがいないといつもつまらなそうである。

・他人の子供に対しても、適度に愛情を持って世話をしてやる。自分の子にほこりをもっている。見て非常に面白いのは、毎朝六時頃、12人か14人の男達が低い塀の下に集まって腰を下ろしているが、皆自分の腕の中に二歳にもならぬ子どもを抱いて、可愛がったり、一緒に遊んだり、自分の子どもの体格と知恵を見せびらかしていることである。

・一家団らんの中に囲まれてふんどししか着けていない父親が、その醜いが優しい顔を温和しそうな赤ん坊の上に寄せている姿である。母親は、しばしば肩から着物を落とした姿で、着物を付けていない二人の子どもを両腕に抱いている。

・子供達は、私たちの考え方からすれば、余りにも温和しく、儀礼的に過ぎるが、その顔付や振る舞いは、人に大きな好感をいだかせる。彼らはとても温和しく従順であり、喜んで親の手助けをやり、幼い子どもに親切である。私は彼らが遊んでいるのを何時間もじっと見ていたが、彼らが怒った言葉を吐いたり、意地悪いことをしたりするのを見たことが無い。

・7歳か8歳の小さな女の子でさえも、あかちゃん背中におんぶして子ども遊びに興じていた。まだ、小さくて本当の赤ん坊を背に負えない子供達は、大きな人形を背中に結んで同じような格好をしていた。

・子供達は家庭において黙って従うことに慣れているから、教師は苦労をしないて、生徒を、静かに、良く聞く、温和しい子にておくことかてきる。教科書をしっみつめている生徒達の古風な顔には、痛々しいほどの熱心さがある。幼い生徒は、主として実物教育によって教えられていた。

・母の背中や父の腕に抱かれてい赤ん坊は目を覚ましても少しも泣かない。

・ここでは今夜も、他の幾千もの村々の場合と同じく、人々は仕事から帰宅し、食事を取り、煙草を吸い、子どもを見て楽しみ、背負って歩き回ったり、子供達が遊ぶのを見ていたり、藁で蓑を編んだりしている。いかに家は貧しくとも、彼らは、自分の家庭生活を楽しむ。少なくとも子供達が彼らを引きつけている。英国の労働者階級の家庭では、往々にして口論があったり言う事を聞かなかったりして、家庭は騒々しい場所となってしまうことが多いのだが、ここでは、そういう光景は見られない。日本では、親の言う事は温和しく聞くのが当然のこととして、赤ん坊の時から教え込まれている。

・私は日本の子供達がとても好きだ。私は今まで赤ん坊の泣くのを聞いたことが無く、子どもがうるさかったり、言う事を聞かなかったりするのを見たことが無い。日本では孝行が何ものにも優先する美徳である。何も文句を言わずに従うことが何世紀にもわたる習慣となっている。英国の母親達が、子供達を脅したり、手練手管を使ってだましたりして、嫌々ながら服従させるような光景は、日本では見られない。私は、子供達が自分たちだけで面白く遊べるように、上手く仕込まれているのに感心する。

・子供達は輪を作って座り「いろはがるた」をやっているのを、大人達はそれを熱心に見ている。子ども崇拝は、米国の場合よりも日本の場合がもっと一般的である。私が思うには、日本の形式が最も良い。

などなど

山形置賜地方をアルカディアと言ったみとは有名だが、バードのこのような日本の子供達の姿について述べた文書にはもっと注目して良いだろう。
朝鮮・中国紀行も記しているが、このような子供達の姿は日本奥地紀行にのみ見られるものだ。
子育て、育児は、如何に文化的なものであるのかを如実に示している。

バードが日本の関東~東北~北海道を歩いたのは1878(明治11)年のこと。
136年前には、貧しかったが、日本には、理想とする育児をしていたご先祖様が居たということは忘れてはならないだろう。
貧しいものの、子どもの倖せを中心にし、子どもと共の生活を送っていた社会があったのだ。

以前、子供達は母親のもの、親父はそれを守るもの、ということを述べたら、女性・母親を理想化しすぎ、理想化するなとのコメントが返された。
しかし、理想的な母親、父親、家族がこの地に暮らしていたのだ。

なぜ、便利で豊かにな時代に、これほど子育てを難しくしてしまうのだろう。
正直言って不思議だ。
昔ながらの育児技術を見直すことが必要だろう。

FB 2014年12月23日

生理的早産

人間さまは、生理的早産で生まれる。

だから、生まれ落ちてからも、野生動物のように自分の力で立ち上がることが出来るようになるまでは、母体の中にいるように、母子密着を図る必要がある。
たとえ、生まれ落ちたとしても、此処までが月満ちない状態と見るべき。

男は、旦那は、この、大切な時期の母子を守るために存在する。
社会制度も、この時期の母子を徹底的に守ることのできるように組み立てなければならない。

このときの母子密着体験が、外界・世界との関係を結ぶ基礎になる。
身体の健康と自立精神の基礎になる。
また、その後の母の楽な子育ての基礎となる。
密着が保たれ、安定した心と身体を築くことが出来るならば、子育ての大半は完了する。

その生命の大原則について理解した上で、男女共同参画など、今流行の議論を行うのならば良いだろう。

生理的早産という理屈はともかく、太古の昔から、母子密着の大切さは、伝統的な子育て技術として伝わって来たのだが、様々な屁理屈の元で捨て去られてきた。

学問的に証明されようがなかろうが、伝統的な子育て技術についての見直しと、再検証が必要だ。

社会の仕組みは、経済などと言う戯言ではなく、子供が幸せ、元気溌剌と暮らしをしつつ、大人となり、その命の輝きを次世代へとつないで行くこと、生命の継続を最重要課題として作って行く事が必要だ。

生命の目的は、生命の継続を図る事にあり、そのために進化し、そのような方向に進むとき、元気が出、快を感ずるように身体も心も出来ているのだから・・・。
中野 裕司
2014年12月23日 FB投稿

「幼少期の両親との人間関係」

先日、発芽玄米甘酒について述べた際、口の大切さを説きました。
霞を食べるといわれ、不老長寿の仙人になる修行が口、歯・顎を鍛える事から始まるとも述べました。
そして、現代社会の食あり方が、口・顎を衰えさせ、味覚をも壊してしまうと申しました。
その結果が、口呼吸となっています。

産まれては哺乳育児が行われず、長じては硬いものを食べ、口、顎の筋肉を鍛える機会を奪ってしまうために、口、顎の筋肉を鍛える機会が失われてしまいます。
このため、口呼吸、口を空いたまま眠るということが若齢化\、常態化させてしまいました。
結果、体内への雑菌の侵入を許し、目免疫系を疲労させ、細胞レベルの損傷が始まり、臓器の損傷へと至るのです。

お母さんの生まれ落ちた赤ちゃんを健全に育てるという意識と覚悟が、一生の健康を大きく左右するのです。
健全な母性が、野生、進化の流れに沿った育児が、健康で明るい社会を造る基となるのです。