「ひまなか(中野裕司)」の感じ、考えたこと・・・・・・・・・。                                  ML・FBなどの投稿を掲載します。

Xmasのお祝いをメッセンジャーでいただいた。
その返信への、冬の身体・風邪についてを転載・補強。
・・・・・
merry Xmas・一陽来福。
世界中が、冬(殖)のさなかの冬至のお祭り。
陰の極地。
これから、お日様の力が増して行きます。

同時に、寒さに対し引き締まった身体が、春・夏の身体になるために、次第に、少しずつ開いて行きます。
骨盤から始まり、後頭骨へと、半年近くをかけ徐々に開いて行くのです。
植物が春に花開く、動物が冬眠し出産するのと同じです。

古人は、そのエネルギーが満ちた状態を冬(殖)と観じました。
外なる季節の変化と同時に、内なる身体の季節の変化をお楽しみ下さい。

なお、開き行く身体のため、瑞々しい身体を作るためにも、身につく水分の補給をお忘れなく。
冬の外気は乾燥していますから、身体が乾燥する時期なのです。
口に含んだ水を、温めるようなつもりで、少しずつ嚥下します。
細胞レベルにまで染み渡ってゆき、身体のみずみずしさを取り戻します。
ゴクゴクと水を飲んでしまうと、身体は沢山の水がやってくると理解し、水を捨てるモードに切り替えてしまいます。
これを防ぐために、ちびちびと飲むのです。
山登りのときも、こまめに水を飲みますが、それと同じです。

身体のみずみずしさ、弾力を取り戻すならば風邪は逃げて行きます。

風邪とは、風の邪気、冷えが身体に入った状態。
このような時、体力が低下すると、日頃のストレスの積み重ね、疲労・過労がどっと吹き出します。
そして、吹き出されることにより、健康・正常に復してゆくのです。
疲労・過労により縮こまった身体が、熱を出し、排泄することで弾力のある身体を取り戻そうとするのです。

春(張る)に向かう身体が弾力性を取り戻そうとする、いのちのダイナミックなリズムの一コマといえます。

疲労・過労により冷え固まった身体を温め、咳や痰などによる排泄を邪魔しないようにするだけで経過し、元気が回復すのです。

しかし、せっかく始まった疲労の排泄を押さえ続けてしま人うが多いのです。
押さえつけると、ウイルスの力までも使って疲労回復に向かわせようとするのが身体、生命の働きです。
身体のもっている知恵なんです。

このことは、風邪をひいたら卵酒を飲んで寝ていれば良い、熱いそばを食べて休めば良い、古人の経験の積み重ねで理解できます。
インフルエンザも風邪の区別などはしていないのです。

でも、古人の経験智、自分の身体のもつ力を信じられない人達が多いのです。
インフルエンザは怖い怖いと脅しつけられ、頭の中がインフルエンザになってしまった人でしょう。
そのような人達が、近代の流行りのインフルエンザという恐怖に怯えているのです。
そして、予防と称してワクチンを打ち、風邪にかかりそう、かかったと薬を飲み、風邪を無理矢理押さえつけ、仕事に、遊びに、無理に無理を重ねて、悪循環を造り出し、病を造り出しているのです。
急げ急げの現代社会は、早急な快復を要求するため、無理に無理を重ねることとなってしまいます。
この点で、風邪も又、今や生活習慣病といえるのです。

健康を保つのに、僅かな刺激で回復に向かう身体が一番なのです。
卵酒や温かいおそばが、僅かな刺激にあたります。

冬至はゆず湯。
お風呂、湯船に十分浸かり、身体を温めることも良いでしょう。
お風呂は、温まると共に重力からの解放です。
骨休めにより、骨髄が働きだし、免疫力を高めます。

しかし、無理に無理を重ねて身体に過度の負荷をかけすぎると、あるいは老化が進むと、快復力が弱くなり、なかなかそのようには行きません。

快復にはエネルギーが必要です。
食により、身体を構成する物質と共に、エネルギー源を得るわけですが、細胞レベルではミトコンドリアがエネルギーを造りだします。
冷えた身体を温めるために熱をだし、細胞・ミトコンドリアを活発にし、排泄力を高めます。

身体が冷え、弱っているとエネルギー不足となり十分な発熱ができません。
このような場合、湯たんぽや蒸しタオル、お風呂などで熱を補ってあげるこという方法があります。
ミトコンドリアの活動しやすい体温に誘導してあげるのです。
循環が蘇るように誘導してあげるのです。

細胞は、食で得られたエネルギー源を、酸素を使って熱とするのです。
この力が弱っているとき、湯たんぽ、蒸しタオル、お風呂などで、外部から熱エネルギーを補ってあげるのです。
呼吸と食をショートカットする方法といってもよいでしょう。

2017.12.25 FB

化学調味料も食品添加物の一種ということになろう。

すなわち、薬剤ということになる。
現在の食品は、合成された薬剤を用いて化学的(味覚・色覚)のみならず、物理的(食感)にもまた改良している。

合成したもの、あるいは精製し純化したものは、細胞レベルで化学反応的な撹乱を起こすことはよく知られ、問題視されている。
一方、物理的な面、味覚・食感については等閑視されている。

合成物質、精製純化されたものに味覚は馴らされ、口触りの良いものを食べ続ける、ということにより、口を使うという動物の最も基本的感覚(味覚)・舌を鈍らせると共に、口を動かすという動作、筋力を低下させている。
結果、鰓の張った顔が消え、表情を乏しくさせてしまっている。
これが、食品添加物の使用による、物理的、筋肉的・運動的な側面だ。

柔らかで甘い食物は、口蓋周辺、舌部の筋力の低下を引き起こす。
よく噛まないで飲み込むという雑な食べ方となり、胃腸、腸内細菌叢へ負荷を与えるとともに、口まわり、舌、顔面の筋肉による血流ポンプの機能を低下させるために、頭部・脳への血流を減らし、考える力を低下させ、また、心臓、頭部を支える筋力を低下させる。
口のことと安易に考えることにより、化学的にも、物理的にも、身体全体にたいし連鎖的にダメージを及ぼしているものと感じる。

口は、動物が生きるための入り口なのだから、大切にし、動かさなければなければならない。
試しに、口をできるだけ大きく開けてみるが良い。
そして、大きく開けた口の空間の中で、ベロ・舌を大きく動かして見が良い。
首が引き締まり、背筋が伸び、姿勢がただされ、また、顔面とのつながりが意識されることだろう。
ついでに、顔面の筋肉を色々と動かすならば、脳の血行も良くなり、頭がすっきりすることを感じられるだろう。
かように、口は全身、頭・脳と繋がっているのだ。

美人になりたければ、口を動かす事が大切だし、美人になる努力は、脳も又すっきりさせ、姿勢を含め身体全体をキチッとさせることとなるのだ。
全身美人への入り口なのだ。
口が大切という所以である。
ただし、口を使うといっても調子に乗ってのおしゃべりは、いただけない。

話しが横道にずれたが、食品添加物の効果については、体内の化学的撹乱・汚染という側面とともに、物理的な側面、筋力、体力、姿勢などの側面からも検討すべきものと考える。
私たちは、全体で一つの生き物。
細胞の組織だった集合体ではあるが、部品の寄せ集めではない。
一つは、部分は、全体に波及するのだ。
口を動かしてみて、理解できただろう。

動物は、腸を作り口で物を食べることにより、進化した。
すなわち、口・腸が動物の出発点なのだ。
仇や口・腸を、口から入るもの(鼻・息を含め)おろそかにする無かれ。

ましてや、入れたら出すもの。
口からの飲食は、便、小水、汗として、鼻・口からの息は吐き、消化吸収されたものは、身体を構成する組織の材料として新陳代謝を繰り返し、片やエネルギーとなって動き、考えることにより発散・排泄?している。
その入力と出力の間に自分がいる。
難しくいうならば、動的平衡ということになる。

体内に取り入れた化学薬品は、細胞レベルの攪乱・汚染を引き起こし、汚染物質は排出されず滞留、蓄積することが問題なのだろう。
攪乱に対しては、身体は回復力を持つものであるため、適度の攪乱は身体を強くするものであり好ましいものといえる。
薬は、この適度のかく乱を招く範囲で使い個こなすのが原則だろう。
千差万別の各個人に対して処方することが、さじ加減ということであった。
さじ加減を忘れ、感覚を鈍らせるほどの大量・長期の薬剤の使用と、その結果の残留、汚染に薬害問題の本質があるのだろう。

生き物の常として、刺激に対する慣れがあり、大量・長期に使用し続けてしまうと、狎れとなり、癖がつき、偏ってしまう。
使い続けることにより、身体、細胞が慣れ、狎れ、さらに強度を上げなければ効能を期待できなくなってしまう。
すなわち、依存度を次第に高めてゆくということになる。

身体に取って良いもの、悪いもの総てに対し慣れの反応がある。
このため、元気・健康を保つためには、適度なかく乱を繰り返しつつ、動的なバランスを取って行くことが好ましいのだ。
一概に食品添加物、薬剤、農薬、肥料について否定しているのではなく、その使いよう、慣れと汚染に問題があると言っているのだ。
適、さじ加減を忘れた事に問題があると言っているのだ。

化学薬品だけでなく、動作についてもなれると言うことは同様だ。
慣れることにより、自動化される、無意識に動けるようになるというように身体の構造はできている。
意識的な運動から、無意識的な運動への移行、変化だ。
これが、身体に取っては合理的だし、余分なエネルギーを消費しなくとも良くなる方法だ。

体内の場合の慣れも又、細胞レベルでの合理化、エネルギーの摂生だ。
体内で合成していた物質を、体外から大量に与えられ続けるならば、体内で製造する必要はなくなり、そのような組織・器官は萎縮する。

筋肉を使うという面でも同じだ。
鍛えれば鍛えるほど性能を増し、逆に杖などを与えれば頼る、使わなければ萎縮する、というフィードバックが身体の中に埋め込まれているからだ。

そのフィードバックを良き方向へ回す、善循環とするか、悪しき方向へ回す、悪循環とするかは、私たちの選択に任されているのだ。

依存度を高めるほど商売には好都合の善循環となるわけだが、個人の心身の健康ということではマイナスとなり、悪循環を形成させて行く。
時間の経過と共に組織としての商売(ムラ)の経済循環と、個人の健康面での悪循環の乖離が拡大し、問題が大きくなってゆく。
現代は、まさにその乖離が開きすぎた故の社会問題に直明しているといえるのだ。

楽に流れる、流そうとするものが沢山ありすぎる今日。
楽、快適とは、依存度を高めるという方向。
その楽に乗り過ぎ、自らの心身の健康を、社会・環境の健康を害してしまったのが今日。
その行き過ぎた依存から抜け出すのは、依存度を高めやすい脳の声に偏るのではなく、胃腸などを含む身体の声を聞き入れる感覚を磨き、慎みと時としては撹乱も許容する、適度なバランスを保つ生活への切替が必要だ。
絶えず慎みを持ち、動かないと、楽に流れ、崩れてしまうからだ。

FB 2017.12.24

本屋で見つけた2冊。
「土と内蔵」、「失われてゆく我々の内なる細菌」。
まだ、読むには至っていないが、近頃、腸内細菌、マイクロバイオームに関する書籍が目白押しであり、その最新刊だろう。

かねてから、私は次のことを言い続けてきた。

生物進化の道筋、及び堆肥作り・土作りなどの類推から、土壌は海から陸に上がった植物が、根系を通じて養水分を得るために、海を陸に持ち上げたもの。
よき土壌には有効土壌菌が多く病害菌は生存できず、十分に根を発達させた植物は健全に生長し、良き作物を作り出す。
土壌は、植物と土壌微生物・細菌の共進化の結果出来上がったものである。
元気、健康な植物は、健全な土壌と健康な根系発達にささえられており、その淵源は土壌微生物とその餌になる土壌有機物(堆肥・腐植)にある。

これに対して、移動することにより餌を得るという生存戦略を取った動物は、おなかの中に土壌を取り込んだ。
それが腸内細菌叢(腸内フロラ)であり、動物もまた腸内微生物と共進化したと言えるのだ。
そして、腸内微生物叢の良し悪しが健康を大きく左右し、堆肥作りと同様にお腹の中に種菌を保管する場所があるはずであり、それは盲腸・虫垂突起だろうとも述べた。
また、栄養吸収のみならず、体内への異物侵入の関所としての免疫系、取り入れた食物に対する好き嫌い、満腹感などに由来する感情・心もまた腸が根っ子、淵源なのだと言うことも述べてきた。

食の淵源を辿るならば、私達は土壌微生物、植物、腸内微生物を介在して、土と太陽、そして二酸化炭素を食べて生きている。
エネルギーとしての太陽と気体の二酸化炭素を脇に置き、固体という面では、私たちは「土食らい」とも言えるのだ。
地球そのもの、住まいする周辺の土地を食べ続けてきた、といっても良いだろう。
だから、先達は「悔い改め」は「喰い改め」から、身土不二、地産地消とも説いてきた。

地域、その土地に根ざして植物と土壌微生物が共進化し、動物及びその腸内微生物もまたその土地に根ざし共進化して来のだから、その土地のものを食すことが最も自然に順応した健康的な生活のあり方と言うこととなる訳だ。
今流行の栄養価、カロリーオンリーでは、片手落ちであり、不健康な状態を作りやすい食物となってしまうという訳だ。
ましてや遺伝子組み換え作物などは、微妙なところで不協和音が生じることとなりやすい物となることは想像できる。
今の科学では解明不能な閾値の問題なのかもしれないが、長期間の後に、因果関係の定かではない異常として浮上することも考えられる。
生物多様性保全では、安全であることが確かめられるまでは新たなものの導入は避けると言う「予防原則」が声高に叫ばれている。
しかし、不思議なことに、我が身に直接関わる食の問題に対しては予防原則が唱えられないというアンバランスな問題も発生している。
健康問題の発生可能性よりも、経済原則が優先のようだ。
云々。

キチッと身体と心を使いこなすため、心身の健康を保つためには「腹」が大切という考え方は、経験智の積み重ねである東洋医学、和法などの伝統医学の世界では常識である。
近年、心の震源は腸を主とする臓器にあり、免疫もまた腸管系が中心となっているなどが科学、医学の世界でも解明されつつあり、虫垂が腸内微生物の隠れ家、保管庫となっているなどの解明が進み、腸内細菌に光が当てられるようになってから、伝統医学の世界へと急速に接近してきた。

「土と内蔵」、私が説いてきた世界そのもののタイトルだ。
「失われてゆく・・・」は、化学肥料、農薬、殺虫剤・殺菌剤の多用、及び土壌有機物(堆肥)の不足により、痛めつけられ、固結し、土壌微生物が失われた土壌と類似の腸内微生物環境に関するものと思われる。
土壌環境の悪化により、また、レイチェル・カーソンの「沈黙の春」などのインパクトにより、化学肥料・農薬多用から有機栽培へと切り替わっていった。

さて、この2冊は、どのような新たな知見を示してくれるのだろう。
願わくば、「沈黙の春」のような社会環境を変えるようなインパクトのあるものであってほしい。
そのような書籍の出現を願っている。

画像に含まれている可能性があるもの:1人

・土と内臓
http://www.tsukiji-shokan.co.jp/mokuroku/ISBN978-4-8067-1524-5.html
・失われゆく我々の内なる細菌
https://www.msz.co.jp/book/detail/07910.html

2016年12月20日FB
https://www.facebook.com/himanaka/posts/1177028019013144

シェアしたまま、コメントを付けることができなかった。

いろいろ、本当の理由が挙げられているが、なんか違うな、違和感が大きいのです。
それは、皆「自分」が中心だからなんでしょうね。
個人主義という、現代教育の賜、成果なんでしょう。
しかし、これは主義であって、真実では無い。
人類史という長スパンの歴史に裏付けられたものではない。
実験中のスタイルなんです。

子育てが大変だと言われたくないから?
自分の達成感のための子育て?
自分の人格がどこかに行っちゃいそうだから?
本気で、自分中心の、この言い訳が本当だと思っているのだろうか?

子育ては、生理的早産の時期、授乳期は、母子一体を保つ必要がある。
その時は、母子一体、我が子のために、我が子と時間を共有する大切な時期。
無我夢中の時期だろう。

その後は、徐々に離れて行くことが大切。
伝統的な子育て技術が途絶え、このメリハリが上手く行かなくなったから、子供達は外界・世界との繋がりに対し不安感が強く、親離れしようとしない。
親も、子離れできないという悪循環のような気がする。

昔々の貧しかった時期は、否応なく子育てをやっていた。
今よりも、多くの子を生んで、育て上げていた。

子どもを抱っこし、おんぶし、家事労働をこなしながらも一体を保っていた。おんぶできない場合でも、目で追うことのできる範囲で仕事をした。
母が忙しい場合は、上の兄弟が、弟・妹をおんぶしていた。
それが当たり前だった。

その時期が過ぎると、子供達は次第に母から離れ、兄弟・親戚・友達集団の中で育って行く。育てるのでは無く、育っていった。

子供達は、子守などの労働力として家庭の中に組みこまれる。
弟・妹を子どもがおんぶしながら遊ぶのも、その一貫だったろう。

イザベラバードなど、幕末から明治初めの日本に関する紀行文を読んでみると、子育てについて興味深い文章にであう。

大人は、極度に子供達を可愛がる。
子供達は泣かない、親の言う事を良く聞く。
子育てに関しては、西洋よりも優れている。
などなど
以下、日本奥地紀行より抜粋して示す。

・これほど自分の子どもをかわいがる人々を見たことがない。子どもを抱いたり、背負ったり、歩くときには手をとり、子どもの遊戯をじっと見ていたり、参加したり、いつも新しい玩具をくれてやり、遠足や祭りに連れて行き、子どもがいないといつもつまらなそうである。

・他人の子供に対しても、適度に愛情を持って世話をしてやる。自分の子にほこりをもっている。見て非常に面白いのは、毎朝六時頃、12人か14人の男達が低い塀の下に集まって腰を下ろしているが、皆自分の腕の中に二歳にもならぬ子どもを抱いて、可愛がったり、一緒に遊んだり、自分の子どもの体格と知恵を見せびらかしていることである。

・一家団らんの中に囲まれてふんどししか着けていない父親が、その醜いが優しい顔を温和しそうな赤ん坊の上に寄せている姿である。母親は、しばしば肩から着物を落とした姿で、着物を付けていない二人の子どもを両腕に抱いている。

・子供達は、私たちの考え方からすれば、余りにも温和しく、儀礼的に過ぎるが、その顔付や振る舞いは、人に大きな好感をいだかせる。彼らはとても温和しく従順であり、喜んで親の手助けをやり、幼い子どもに親切である。私は彼らが遊んでいるのを何時間もじっと見ていたが、彼らが怒った言葉を吐いたり、意地悪いことをしたりするのを見たことが無い。

・7歳か8歳の小さな女の子でさえも、あかちゃん背中におんぶして子ども遊びに興じていた。まだ、小さくて本当の赤ん坊を背に負えない子供達は、大きな人形を背中に結んで同じような格好をしていた。

・子供達は家庭において黙って従うことに慣れているから、教師は苦労をしないて、生徒を、静かに、良く聞く、温和しい子にておくことかてきる。教科書をしっみつめている生徒達の古風な顔には、痛々しいほどの熱心さがある。幼い生徒は、主として実物教育によって教えられていた。

・母の背中や父の腕に抱かれてい赤ん坊は目を覚ましても少しも泣かない。

・ここでは今夜も、他の幾千もの村々の場合と同じく、人々は仕事から帰宅し、食事を取り、煙草を吸い、子どもを見て楽しみ、背負って歩き回ったり、子供達が遊ぶのを見ていたり、藁で蓑を編んだりしている。いかに家は貧しくとも、彼らは、自分の家庭生活を楽しむ。少なくとも子供達が彼らを引きつけている。英国の労働者階級の家庭では、往々にして口論があったり言う事を聞かなかったりして、家庭は騒々しい場所となってしまうことが多いのだが、ここでは、そういう光景は見られない。日本では、親の言う事は温和しく聞くのが当然のこととして、赤ん坊の時から教え込まれている。

・私は日本の子供達がとても好きだ。私は今まで赤ん坊の泣くのを聞いたことが無く、子どもがうるさかったり、言う事を聞かなかったりするのを見たことが無い。日本では孝行が何ものにも優先する美徳である。何も文句を言わずに従うことが何世紀にもわたる習慣となっている。英国の母親達が、子供達を脅したり、手練手管を使ってだましたりして、嫌々ながら服従させるような光景は、日本では見られない。私は、子供達が自分たちだけで面白く遊べるように、上手く仕込まれているのに感心する。

・子供達は輪を作って座り「いろはがるた」をやっているのを、大人達はそれを熱心に見ている。子ども崇拝は、米国の場合よりも日本の場合がもっと一般的である。私が思うには、日本の形式が最も良い。

などなど

山形置賜地方をアルカディアと言ったみとは有名だが、バードのこのような日本の子供達の姿について述べた文書にはもっと注目して良いだろう。
朝鮮・中国紀行も記しているが、このような子供達の姿は日本奥地紀行にのみ見られるものだ。
子育て、育児は、如何に文化的なものであるのかを如実に示している。

バードが日本の関東~東北~北海道を歩いたのは1878(明治11)年のこと。
136年前には、貧しかったが、日本には、理想とする育児をしていたご先祖様が居たということは忘れてはならないだろう。
貧しいものの、子どもの倖せを中心にし、子どもと共の生活を送っていた社会があったのだ。

以前、子供達は母親のもの、親父はそれを守るもの、ということを述べたら、女性・母親を理想化しすぎ、理想化するなとのコメントが返された。
しかし、理想的な母親、父親、家族がこの地に暮らしていたのだ。

なぜ、便利で豊かにな時代に、これほど子育てを難しくしてしまうのだろう。
正直言って不思議だ。
昔ながらの育児技術を見直すことが必要だろう。

FB 2014年12月23日

生理的早産

人間さまは、生理的早産で生まれる。

だから、生まれ落ちてからも、野生動物のように自分の力で立ち上がることが出来るようになるまでは、母体の中にいるように、母子密着を図る必要がある。
たとえ、生まれ落ちたとしても、此処までが月満ちない状態と見るべき。

男は、旦那は、この、大切な時期の母子を守るために存在する。
社会制度も、この時期の母子を徹底的に守ることのできるように組み立てなければならない。

このときの母子密着体験が、外界・世界との関係を結ぶ基礎になる。
身体の健康と自立精神の基礎になる。
また、その後の母の楽な子育ての基礎となる。
密着が保たれ、安定した心と身体を築くことが出来るならば、子育ての大半は完了する。

その生命の大原則について理解した上で、男女共同参画など、今流行の議論を行うのならば良いだろう。

生理的早産という理屈はともかく、太古の昔から、母子密着の大切さは、伝統的な子育て技術として伝わって来たのだが、様々な屁理屈の元で捨て去られてきた。

学問的に証明されようがなかろうが、伝統的な子育て技術についての見直しと、再検証が必要だ。

社会の仕組みは、経済などと言う戯言ではなく、子供が幸せ、元気溌剌と暮らしをしつつ、大人となり、その命の輝きを次世代へとつないで行くこと、生命の継続を最重要課題として作って行く事が必要だ。

生命の目的は、生命の継続を図る事にあり、そのために進化し、そのような方向に進むとき、元気が出、快を感ずるように身体も心も出来ているのだから・・・。
中野 裕司
2014年12月23日 FB投稿

「幼少期の両親との人間関係」

先日、発芽玄米甘酒について述べた際、口の大切さを説きました。
霞を食べるといわれ、不老長寿の仙人になる修行が口、歯・顎を鍛える事から始まるとも述べました。
そして、現代社会の食あり方が、口・顎を衰えさせ、味覚をも壊してしまうと申しました。
その結果が、口呼吸となっています。

産まれては哺乳育児が行われず、長じては硬いものを食べ、口、顎の筋肉を鍛える機会を奪ってしまうために、口、顎の筋肉を鍛える機会が失われてしまいます。
このため、口呼吸、口を空いたまま眠るということが若齢化\、常態化させてしまいました。
結果、体内への雑菌の侵入を許し、目免疫系を疲労させ、細胞レベルの損傷が始まり、臓器の損傷へと至るのです。

お母さんの生まれ落ちた赤ちゃんを健全に育てるという意識と覚悟が、一生の健康を大きく左右するのです。
健全な母性が、野生、進化の流れに沿った育児が、健康で明るい社会を造る基となるのです。

 

 

禁断の果実 知恵の樹の実・リンゴ? ~ 失楽園の物語の書き直し

禁断の果実・知恵の樹の実を食べてしまったアダムは、イブにそそのかされ、イブはヘビにそそのかされたと他人のせいにし、神に言い訳をする。
自分さえ、その場を逃れられるならば、それで良い。
我良しの始まりだ。
神は、そのような言い訳をするこざかしい知恵を付けてしまったアダムの姿を見て怒り、エデンの園を追放した、と思うのだ。
そのこざかしき、我良しの知恵が、現代の科学・経済を産み出してしまった。
その結果が現代の状況だとするならば、知恵の使い方を正さなければならないのだろう。
失楽園のストーリーの書き直しを行う時期が来た。

「平成29年年賀+干支の話し」が長くなってしまったので、FBへ解題を投稿。
ここから、長い干支の分析へと導きます。

新年明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

平成29年 2017年 1月1日 丁酉(ひのととり・34番) 元旦

丁酉:ひのととり ⇒ ひのとり(火の鳥) と縮めちゃいましょう。
火の鳥・フェニックスが今年のイメージ。

・・・・・ ・・・・・ いつもの干支を巡る与太話です。お暇な方はどうぞ ・・・・・

今年はどうなるやら・・・。
いにしえの先賢の経験知の積み重ねである干支から今年の傾向を探ってみましょう。

昨年のイントロ。
読み返してみると、主張したいことは昨年と同じ故、今年バージョンに字句を訂正、多少強化をして再掲載。
思っていること、考えていることは進歩しないですね。

平成28年 年賀+干支による運気

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東日本大震災、福島原発の発生からはや6年が経過しておりますが、問題解決への道程は遠く、なかなかに進まず、それどころか新たな問題、負の資産が増すばかりのようです。
天災とはいいながら、人災であることが色濃くなってきております。
また、火山活動も全国で活発化し、一昨年から山で入山禁止が相次ぎ、現在も持続しております。
豪雨による災害は、山筋の土石流のみならず、低地の洪水被害を引き起こしてしまいました。
岩手、熊本では、災害の傷跡が消えやらぬ内に再び災害に見舞われるという状態、岩手では地震災害の後に豪雨災害、熊本では豪雨災害の後に地震災害という具合となりました。
気候変動は落ち着く様子はなく、ますます極端化の一途。
もう、全国、何処に発生してもおかしくはないという状態になってしまいました。
一昨年、昨年と年を越しても暖かな日が続き過ごしやすいお正月となりました。
しかし、各地のスキー場が小雪で困っております。
これも気性の極端化のあらわれ、冬の暖かさ、小雪は、夏の渇水の先触れ。
雪も又、小雪傾向が続いています。
昨年は関東地方では渇水の心配もしましたが、豪雨により救われた形になりました。
季節、その季節らしい装いで巡ってこないと、人間社会のみならず生き物の世界も攪乱されてしまいます。
地球規模の大変動期に入ったとされておりますが、大過なく、一年を暮らすことができれば良いと願っております。

被災地の調査や、倒木事故の情報を見るにつけ感じることは、災害により被災に会う、会わないは紙一重。
これを避けるためには、危険を察する野生の勘を取り戻し、磨くしかない。
それても足らない、日頃から運の良い人となるように努めなくてはならないと強く感じます。

では、運の良い人になるには?
古今東西の難問です。
このような難問に答えを得るために、東洋では経験知を積み重ねてきました。
その一つが長年の自然観察結果、植物の成長、季節変化の観察結果から洞察することにより得られた十干・十二支の組合せによる干支(えと)です。
干支は、植物の生長の様などの観察と経験より得られた直感(勘)により造られたもの、勘を研ぎ済し、多様な経験を積んだ先哲、先達が、時を超えて経験を蓄積し、整理したものなのだと感じております。

さて、それでは例年のごとく、干支より今年の傾向・年回りをうかがって見ましょう。

・・・・・

東洋哲学は、直線的な時間・空間ではなく、時間・空間・万物の生成化育は循環していると直感的に捉えておりました。
万物のみならず、目に見えない世界、万霊も又あの世とこの世を循環していると感じ取っておりました。
従って、人間から見た場合、天災、破壊・攪乱と見えるものも、その循環のなかの一コマに過ぎないと捉えた訳です。
我が国では、そのような感性が当たり前ですから、地震・津波被災に遭っても諦め、混乱の中にあっても我良しに走ることなく秩序だった行動となります。
このような感性・行動に世界が驚愕したと伝えられております。
自然の循環を観察した結果、干支・暦などが生まれたわけですが、現在も正にその循環を感じ取りながら、私たちは生活をしているのです。

いにしえの賢人達は、自然の観察から、1年を記録するのみならず、さらに大きな循環のサイクルを見いだしました。
古代バビロニアではアストロジー(占星術・学)が生まれましたが、古代中国では十干十二支の60年の巡りや八卦・64卦の易となりました。
東西とも、月、星の動きより暦が造られましたが、特に太陽、月、木星の周期に注目しています。
木星の周期は12年ですから、十二宮・十二支が対応しているものといえます。
古代の賢人は、太陽のみならず、惑星・天体・銀河の動き:宇宙との対応・相似により、社会・人象を見ようとしました。
すなわち、人は小宇宙と考え、天・星の運行と密接な関係を見いだそうとしたわけです。
ここから、天・地・人の乱れは連動すると捉え、慎みある生活を送ることにより、天地が安泰であることを祈ったのです。
西洋科学、物質科学では、このような考え方は迷信だと切り捨て、己勝手、自己の権利を主張する訳ですが、人間性という観点から見るならば、自分勝手であることを抑え、慎み、天地の巡りと共に生活をしようというあり方の方が精神的には高く、深いものと思います。
人は地球に溢れ、現在の物の消費と廃棄を是とすることで成り立つ物質文明を、現在の水準で持続させるためには、数個の地球が必要という状態になってしまいました。
このまま地球を食いつぶすか、循環を取り戻し持続可能とするのかは、私たちの行動、考え方にかかっているわけです。
先哲・先賢の循環を基礎とした教えに学び、慎みのある生活へと切り替えて行く時期に来ていると言えましよう。

干支の世界では、ホロスコープ(出生時の天体の配置図・幾何による占星術)のように星と人とを数で直接繋ぐことをせず、その間に自然・草木の生活還環境を仲介させ、物語を紡ぎ出しました。
それが十干・十二支(干支)です。

干は、甲乙丙丁戊己庚辛壬癸の十干。
支は、子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥の十二支です。
十干を、中国哲学の基礎となる五行(木火土金水)に変換するために、
甲乙(木)、丙丁(火)、戊己(土)、庚辛(金)、壬癸(水)の5グループに分け、
先を兄(え)、後を弟(と)としたことより、干支を「えと」と呼ぶようになりました。

五行は、7曜から、太陽と月を除いた5つの惑星。
木星、火星、土星、金星、水星なのですが、新羅万物に対し、この5つの逆走する惑星の性に分け分類し五行説としました。
万物は、五行(五つの性質)から成り立っていて、その消長、結び合い、循環によりあまたの現象として現れるというものです。

兄・弟で陰陽、5グループは五行、偶数と奇数の組合せで物事を理解することができるとしたわけです。
十干十二支では、60年で一周期、還暦となります。
宇宙・天地・自然を貫き、循環するエネルギーの変化の過程を60のタイプに分類したものといえるのです。

今年は、「丁(火の弟)・酉」です。
「ひのと・とり」の年ということになります。
干支の最初甲子(きのえね)から34番目、60年周期(還暦)の真ん中、折り返しから4年目の年の始まりとなりました。
60年の前半で造りあげた事柄の完成へと動き始める時期です。

男(陽)は、42歳が役ですが、陰の女性の場合は33歳が本厄です。
34の今年は、陰の後厄。
厄年をうまくこえると、次の37歳の厄、女を卒業する時期となる庚子(新たな芽生え・更新の象)の厄を楽に越すことができるようになります。
33歳を過ぎると、身体的にはホルモンバランスが変化し、子どものできない身体への脱皮の準備にかかります。
37歳で、脱皮・変身するという事になります。

栄養の不良だった時代、人生50年などと言っていた時代は、老境に入ったとされておりましたが、栄養が良くなった今は、まだまだ若造です。
その次の厄は、陰陽・男女ともに干支が一巡する61歳となります。
還暦60から折り返し、0に戻る巡りが始まります。
120歳、大還暦に向けての折り返しです。

60歳で折り返すと61歳ではなく、59歳、58歳と、だんだん若返って行くと考えると楽しく生きて行けそうです。理想は、0歳の大還暦にあの世に旅立つことです。
人間の生物学的な最大寿命(潜在力)が120年と言われておりますから、大還暦に挑戦するのも一興と思います。

さて、今年の干支を分解して見ましょう。

・十干(根・幹の部分、天) 丁:火の弟(陰)
甲子から始まり、十干3巡目の4年目・丁に入りました。
乙は、芽吹きに備え屈曲している状態、芽が殻の中で縮んだ状態でしたが、丙となり、火(陽気が)働き炳(明らか・つよし)となって行く、すなわち芽が地上に伸びて形をはっきりとさせる状態となったものが、丁では伸びきり、盛を少し過ぎてきた状態(陰)となった事を示している。
すなわち、枝葉を茂らせ、枝がしなだれ下がった状態を示している。
丁の字象は、頭の-(横棒)は昨年の丙(ひのえ)の横棒を引き継ぎ、引き続き丙の延長のまま推移していることを示している。一方、下の│(縦棒)は─(横棒)との緊張、対立の様相があらわれていることを示しており、昨年の流れが持続しつつ、新たな動きが生じ対立が生まれることを示している。

・五行では、丁は火の弟で火。
五行相生説では、木火土金水、木火土金水と循環し、土から金が生まれ、金は水を生むという流れが順当に進んでいることを吉とします。自然の循環に即しているからです。
これとは異なり、五行相克説は他の性に対し優位になる状態を示し、火は金を克し、金は木を克す、のであり、火は金を溶かし、木を倒すのに金物の斧を使うと言うように、押さえ込む様を現します。
いわゆる「あいしょう・相性」が五行であり、循環する方向の流れが吉(相性が良い)であり、相対する性とは、凶(相性が悪い)と見るわけです。

干支の根・幹となる「干」は、盛を過ぎ衰退へと向かう変化の兆しと、その中から変化が生まれ出ようという兆し、衝突し火が燃え上がろうとしているとし、これを革命と見るのである。

・十二支(枝・葉の部分、地) 酉(とり):金・陰
十二支の10番目。
酉は、酒を醸造する器であるが、草木の熟した実を壺に入れ、発酵させた状態である。
酉は、老、飽く、成る、熟す、と意味が通じており、生長したものが熟し老いて行く象である。
新たな勢力があらわれ出る年、革命の年とされている。

以上より、干支の枝である酉は、成熟し老いに向かう象であり、古きものから新しきものへと向かう革命の象とも見ることができる。

酉は、取りでもある。
舞台などの最後を「取り」というが、これは、真打ち・最後の演者がギャラを纏めて受取り、これを分配するところから名付けられたものだが、ものごとの総括、総決算という意味となる。
古きものの総決算としての革命と言う事だろう。

また、酉は、採り、撮り、執り、捕り、であり、物を集めるという意味を含んでいる。
十理(とり)とするならば、篭目(加護目・六芒星)に編んだ籠に閉じ込められた鳥(童謡・カゴメ)が軛を解かれ放たれた象であり、集めた物を腐らせる事なくスムーズに循環する世界(1→10・十理)を指すものとなる。

干(幹)支であるから、丁を幹とし、酉を枝葉として兆しを捉えることとなる。
幹は伸び盛を過ぎたが、枝葉は茂り実を稔らせ、熟した実が発酵している。
幹は火のように勢いがあり、枝葉は黄金のように耀いている。
しかし、その影・内部(陰)では、新たな芽生え、ひこばえが動きはじめている。
五行的に見るならば、幹は火、枝葉は金、火は金に勝(克)つという五行相克となっており、変化が表に出るためには大きな力が必要ようとなり、革命的な様相を帯びることとなる。
ということが、今年の象と見ることができる。

干支では、3年を一つの区切りとして動きを読み取っている。
甲午、乙羊、丙申と続いた3年の区切りが終え、今年から丁酉、戊戌、己亥と続く新たな展開、革命・革新の3年の始まりである。

政治、経済など、自分の興味のある処に、このような象が暗示する様を当てはめ、各人が考察する必要があります。
干支の示すところをヒントに、幹と枝葉の関係などの事象がなにを現しているのか、考えてみると面白いでしょう。

自分、個人の興味ある分野について干支の示す象を考察する前に、参考として十干(天・根幹)と十二支(地・枝葉)を組み合わせた60年(一元)を一区切りとして過去へさかのぼり、世情を確認して見ましょう。

・昭和32(1957)年(一元前)
ソ連、米国へ核実験の中止を申し入れ。
東海村原子炉臨界、原子の火がともる。
日本原子力発電株式会社設立。
鍋底不況(神武景気と岩戸景気の端境期)。
学生運動の原点となった砂川事件発生。
諫早豪雨(死者856名)
国産1号ロケット。

・明治30(1897)年(二元前)
足尾鉱毒事故被害民の請願運動。
金本位制・貨幣法公布
日本勧業銀行設立。
八王子大火(八王子市の大半焼失)

・天保8(1837)年(3元前)
大塩平八郎の乱
生田万の乱
(天保の改革の切っ掛けとなる)
モリソン事件(米船モリソン号が漂流民を輸送して浦賀港に入港するも砲撃に遭う)

・安永6(1777)年(4元前)
各地で一揆勃発。
三原山噴火。

以上を俯瞰するならば、次のように言えます。
噴火、大火、原子力の火、一揆・乱・学生運動の原点となった事件、それと豪雨。
金本位制、鉱毒など金に関わるもの。
天災、動乱(革命)的な動きが多い年巡りです。
根・幹の部分では、│と─の衝突、幹と枝は、火は金に勝(克)つという五行相克、乱の姿が現れているようです。
一方では、原子力発電、国産一号ロケット、金本位制、ペリーの黒船の来訪へとモリソン号事件など、次の時代への魁となる新たな動きが始まっています。

しかし、特に気になることは、福島原発事故の元となった原子炉が一元前に臨界となっていることです。一元、60年も出しました経たないうちに負の資産となってしまいました。
新たな技術の導入に対しては、慎重に検討を重ね導入を行わないと、一元の巡りを経ないうちに負の資産となってしまうということも示しております。
また、各地での一揆や乱の発生、請願運動、学生運動など、これまで行ってきた諸政策の積もりに積もった歪みが浮上し問題を発生させ、そのつけを一揆・乱・運動が「取り」という形となり総決算へと向かう象ということも言えるのだろう思います。

騒乱へと発展させないためには、干支の示す象より対策を考えるならば、茂った枝葉を整理し、風通しを良くし、林床まで日光が入るようにし、病虫害の発生しにくい状態とすることが大切です。
また、根っ子の部分、土壌の改良も必要となります。
自分の身の回りに発生する可能性のある騒乱とは、その枝葉とは、整枝剪定などその手入れの方法とは、と考察を進めることが大切なのです。

しかし、60年サイクル(一元)はおもしろいですね、一定の傾向が出てくるのは不思議ですね。

酉にこだわるならば、12年毎に巡り来る酉年は、自然災害の発生が多いという傾向があるようだ。
http://www.asyura2.com/15/jisin21/msg/724.html

12年周期の十二支、その5倍のスパン60年の巡りの干支、いずれもが天災の多い年回りのようです。

さて、干支により、今年の年の巡りの傾向がつかみ出せたとしても、対策が上手く行かなければ大変です。
後付けの対策はどうしても対処療法的な部分最適かとなりがちです。
根っ子の部分、劣化した土壌に関する対策まで行うことは困難です。
それでも人災的な問題は対応可能ですが、天災となると手の下しようがありません。
災害、天災、災難に遭わない運の良い人になることが一番です。
このためには、野生の勘を磨かなければなりません。

野生の勘を育てるには、野生の経験を積み重ねるしかありません。
特に、物心のつかない、すなわち幼児期の記憶に残っていない時期、3歳~4歳までの間に、野生の経験を十分に積ませる事が大切です。
妊娠・受精してから、この時期までの間の経験の蓄積が、無意識となり、身体と心の健康を造り出し、運の良い人とします。

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40億年前に地球上に生命が誕生しました。
私たちは、母体・子宮の中でこの生命の歴史を忠実にトレースし、繰り返して生まれてきます。
そのまくり返しはDNAに刻み込まれ、野生の動物(ほ乳類)は、生まれ落ちたときから自力で立ち上がり、母親のおっぱいへ向かう本能が付与されています。
すなわち、動物の運動機能は、生まれ落ちたときには、一人前に生長しているのです。
その後、栄養の摂取により性の成熟へと向かい、子孫を残して死に至ります。
生命を繋いで行くことが、唯一の使命と言えます。

しかし、人は、大脳が肥大化したため、胎児の身体が一人前になるまで待っていたならば、母胎が持ちません。
このため、生理的早産の状態、未熟な状態で生まれてきます。
このため、自力で歩き、おっぱいにたどり着くことができるようになるまで、守らなければなりません。
このとき、外界に生まれ落ちても子宮の中にいるのと同じ刺激の少ない状態を保ち、次第に刺激の量を増し、外界・野生の世界へと同化させてゆくことが大切となります。
また、ハイハイし、立ち上がり、動き回ることができるようになったならば、なめ回す、触りまくるということになりますが、このとき、身体をフルに使わせ、外界との接触を十分に行わせ、五感の発達を促さなくてはなりません。
このなめ回しにより、環境中のばい菌を取り入れ、腸管免疫の確保・整備が行われます。
それ以前に、母体の産道を通過するとき、おっぱいにしゃぶりついたときに、母体のもつばい菌を取り込み、腸内細菌叢を形成させる事となります。

「眼・耳・鼻・舌・身」という五感をフル活用し、その情報を大脳にインプットし、神経回線が密に、複雑に結ばれることにより「意」の元となる、「意」を支える、無意識がしっかりと形成されます。
五感をフルに使うという事は、なめ回しなどを含め、外界の微生物環境を我が身に受け入れると言うことでもあり、腸内環境・腸内微生物相の多様化・複雑さを増こととなります。
腸内細菌叢を健全に生育させることが、子供の栄養、心身の健康を保つ基となるのです。
大脳のみならず、消化系器官の神経系もまた、動き回り、なめ回すことで回路が繋がれて行くのです。
さらには、免疫細胞の強化・教育も行っているのです。
腸内環境を整えることは、意識ではコントロールできない内臓神経を健全にする事であり、また、大脳神経も健全にする事であり、身体活動のベースとなる無意識は、五感をフル活動させた結果の有形無形の情報との接触により獲得される消化系、及び大脳系神経節の結束と免疫力の賦活なのです。
そして、この無意識をベース、足かがりとして意識の世界へと歩み出すのです。
動物は、無意識の世界を生きており、この無意識の世界の広さ、深さ、多様さを、人も動物である幼児期に形成させることが必要なのです。

40億年の生命の旅を再体験し、腸内細菌叢を育て、動物的な感覚までも体験し大脳に刻み込まなければ人にはなれないのです。
人が、人としての大脳活動・意識をフルに使っての行動を行うためには、生まれ落ちてから五感をフルに使った野生の生活体験が被必要なのです。
人の場合、生命40億年の歴史を繰り返す体験は、子宮の中で終わるのではなく、生まれ落ちてからもの子ごろつくまで、3歳頃まで続くのです。
私見では、野性時代をキチッと過ごさせ自然とふれあう機会の多い子は、勘が研ぎ澄まされ、運の良い人になるのだと思っています。

天変地変が日常化してきた昨今、ますます災害がよけて通る運の良い人となりたいものです。
野生動物は、研ぎ澄まされた感覚、勘により、災害を察知して逃げ出します。
そのような野生を鈍らせず、磨きをかけて行きたいものです。

私たちの年代は、貧しかったが、野山川海、自然の中で、時には生命を落とす危険を冒しながら遊び回っておりましたので、野生の勘は幾分残っていることでしょう。
しかしながら、豊かになるにつれ自然から離れ、野生の勘を培う機会・時を失ってしまいました。
野生の勘を養うためにはということを考え、理解したのは、子をお腹に宿したときからの胎教、生まれ落ちた後の育児、乳幼児期、3歳までの体験の蓄積が大きいのではないかと思い当たりました。
で、このような事を語り始めたところ、講演の機会を得ることができました。
天変地変、及び文明病の激甚化、天・地・人の狂いに歯止めをかけるためには、心身共に健康で、勘の良い(感性に優れた)子ども達を育てることが必要だし、母性の復権を唱えています。

ギリシャ神話の登場人物の一人オイデップスが、顔は人間、身体はライオンという怪獣スフィンクスの謎かけに答えるという話があります。
スフインクスは、通りかかった旅人に謎かけをし、知恵比べを挑み、答えられなかった者喰らってしまう。逆に、正答の場合は、スフィンクスが海に身を投げて自らの生命を断つという設定だ。

その問いは「「朝に4本、昼に2本、夜に3本の足を持ち、その上声を出すものは何か」というものです。
オイディプスはそれは人間であると答えます。
その理由は「人間は幼児の時は4本足で這い、成人になると2本足で歩き、老人になると杖を使うからだ」としました。
なぞなぞの答えとしては、オイデップスの解でよいのだろうが、この答えのみでは何か物足りない。もう少し深い意味があるのでは無いかと考えていたが、フト、先に示した人間の一生の発達段階を示しているのではないかということに思いあたりました。
朝に4本とは、乳幼児期、ハイハイの時期にあたり、4本足を持つ者として象徴される動物の野生の感性を磨き上げる時であり、2本足とは、野生の身体と感性を完成させた後、それを土台として文化・文明を受容し発達させる大人・成人という発達段階であり、3本の足とは、文化・文明を築いてきた老賢者の象徴なのではないかと思うに至ったのです。
胎教に始まり、乳幼児期から3才頃までに至る母子密実一体の時に養われる野生の身体、感性が土台となって、先人が築いた文化・文明を継承し発展させ、老いては若者・後人に文化・文明の精華を賢者として引き渡すという役割、発展段階があるのだろうと思うのです。
このような発展段階を意識するならば、生まれた時から、老いて死するときまでの役割、なすべき事が明確となる。
生き物としての最大の使命は、生命を伝えて行くことなのだがその為の発展段階が明確にされるのだ。
オイディプスは、このような事柄について洞察し返答した。
これにより生命の道の本質の継承が図られた故、その後はオイデップスとして象徴される人に任せ、スフインクスは生命の源たる海に身を投じ、生命の大元へと立ち返ったと見ることができるのではないだろうか?

災害から逃れることのできる運の良い人ということから、人間が人として進化してきた生命史、自然の流れに即した野生の心身、感性をもつ子を育てることが大切だろうというところまで来てしまった。

————————————- いつもの毎年同じ能書きです。

古代中国では、万物は一(・)より生じた陰陽(・・)により発したとされ、五行思想の十干十二支、易の六十四卦に表されるように循環し、一回りし元へ戻ると考えられておりました。
中国に限らず、古代ギリシャなど太陽・星々の動きより時間を観察していた時代はすべてが循環するという世界観でした。
しかし、いつの間にか、直線的・拡散的な世界観に変わってしまい、現在は効率化というスピード・加速まで求められるようになってしまいました。
あっというまに1年が過ぎてしまうこの頃です。
すべてが巡る、元の所へ戻るという世界観へ立ち戻ることができるならば、もう少しゆとりが生まれるように思います。

中国の場合、循環論が精緻にくみ上げられ、様々な循環論の中で最も我々の世界に入り込んでいるのが干支(えと)の世界です。これは、十干と十二支という二つの循環論を組み合わせたものです。

十干といっても、十干を陰陽(兄・え弟と)とし、五行(木火土金水)に還元しております。これと、十二支を掛け合わせたため、十干十二支は5×12=60年で一回りします。易は、六十四卦として表しますから、いずれも60年程度で一巡りし同じような事象が現れると感じていた模様です。人間の寿命では、、120年という長年月を見通すことは困難、60年程度が妥当なところと考えたのでしよう。

人間の一生を60年とし、その程度は観察できる、経験できるということでの組み立てと考えられますが、社会的活動ができるのが約30年と想定するならば、二世代となります。二世代を過ぎる当たりで、ご先祖様が行ってきた事柄を忘れ、同じ事を繰り返すという事かもしれません。
懲りない面々、ということなのでしょうか?
このような懲りない面々に対し、気をつけろよと言うサインを送っているものとも思われます。

もともとは、十干、十二支は別の概念と思われますが、いずれかの時期に合体されたものと考えられます。
いずれも、植物が芽吹き、生長し、実を結び枯れるまでのサイクルを表したものとされておりますが、これを無理矢理組み合わせたため、組み合わせの上での矛盾が発生します。この矛盾から、その年のイメージを浮かび上がらせるという事ができるものと思います。

十干十二支は、植物が芽生え、繁茂し枯れ朽ちてゆく春・夏・秋・冬の生命の姿、時間の経過により生ずる変化の考察より、天地万物の変化を類推的に読み取ろうとするものです。科学的な根拠というよりは、先人の長年の経験と類推による経験科学?といえましよう。

十干十二支は、10×12=60で一巡りです。60年を1サイクルとする変化です。
経済額では、約60年周期で好不況が起きるとしております(コンドラチェフの波)。
・ 技術革新に起因するコンドラチェフの波(約60年周期)
・ 長期設備投資に起因するクズネッツの波(約20年周期)
・ 中期設備投資に起因するジュグラーの波(約10年周期)
・ 短期在庫投資に起因するキチンの波(約3~4年周期)
これらの波が輻輳ししうねり60年で会合します。
このような動き、うねりを植物の生成繁茂に仮託したものといえます。

近頃、これに加え
・社会体制・歴史サイクルの変化 70年説 明治維新+70=太平洋戦争終焉(1945)+70=2015年何か起きる?
・個人の季節サイクル 春・夏・秋・冬 各3年×4=12年説
・人生の生長ステージ 7年一節×12段階説
などが言われております。

大地震は70年
不況は60年
とも言われます。

易が64卦となっており、60~70と少し幅を持って循環しているのかもしれません。
一世代約30年、二世代でふた巡りというところでしたが、長寿命となったため7×12=84年説まで出てきました。

さらに長い循環としては、村山節の800年周期説という物があります。
「文明は800年周期で東西が交代している。西暦2000年が東西文明の交差する年であり、今まで800年続いた西洋の時代が終わり、これから800年が東洋の時代になる。」という説です。
東西の歴史上の出来事を、時間軸の中で俯瞰(歴史上の出来事、1年を同じ長さとし長い巻物とした)すると、800年で循環していることに気づいたというものです。
日本の発展、それに続くアジア諸国の発展、中国の目覚め、言い得て不妙なものがあります。

以上 十干十二支・干支をヒントに、イメージを広げてみました。