「ひまなか(中野裕司)」の感じ、考えたこと・・・・・・・・・。                                  ML・FBなどの投稿を掲載します。

足尾銅山煙害(亜硫酸ガス)によるはげ山を緑化したところです。
多くの人々が、低山ながらも展望がよいとして訪れる草原状の中倉山、沢入山の稜線は、はげ山だった時代の名残なのです。

これをネタに、いつもの大きな話をしてみましょう。
長いですよ。

足尾鉱山は、日本の銅産出量の40%を算出し、近代国家となる礎の一つとなったのです。。
しかし、一方では、洪水被害の拡大、鉱毒問題などを発生させました。

歴史的には、正と負の側面を明確に対峙させて見せてくれる面白い場所なのです。
そして、そのような正負の問題は、足尾ほど極端ではないものの、現在まであちこちで続いているといえるのです。

負による側面に対しては、田中正造を中心とする公害問題の指摘活動、それに続く人々の100年にわたる訴訟が行われました。
我が国の公害防止活動の原点となりました。

また、このはげ山を緑化するために新たな緑化の方法が考案され実施されました。
階段状に土留めし、土砂流出を防ぎ、先駆樹種を植えるという明治から続く伝統的な治山緑化手法とともに、外来牧草を緑の絆創膏として用い、早急に緑化被覆し表土の保全、表土の生成をはかり、その後の植生遷移による自然回復のスターターとしたのです。

我が国における、公害・緑化、環境問題の原点ともいえる場所なのです。

この景色から、正と負?、両方の側面を持つものとして見ていただけるとよいと考えます。
また、現在の我々の抱えている問題に対して、田中正造の活動などを逆照射していただけると幸甚です。

現在は、過大な被害者意識、負の側面のみを上げへつらい個人の保証を求めるという風潮が強くなってしまったのですが、田中正造が中心となって行った命がけの農民運動(押し出し)などの活動は地域の生活の場を守るという国に対峙する運動、真摯に今一度見直すことが必要と思われます。

当時の欧米列強の植民地に組み込まれないための殖産興業の一環としてた足尾銅山があるのですが、それによる環境問題の発生により地域住民が大きな被害を被りました。
その負の問題に対抗するために、地域住民の生活自衛のために時の権力に対し立ち上がったのが田中正造でした。
地域の自立自尊の生活を守ろうという信念が根っこにあったものと考えられます。

現在は、地域の生活自衛というものてではなく、個人が保証・助成金に絡め取られ、地域の独立心がそがれ、地域地域コミュニティが解体されようとしています。
都会では、すでに地域コミュニティはなきに等しい状態。

田中正造が目指した世界は、個人の保証ではなく、地域の生活を守るということだったと思っています。
しかし、現在は個人保証という毒薬により、地域のコミュニティが分断され、地域の活力が失われてしまっています。
生き物としての群れが暮らす場・地域よりも、個人を優先させてしまった結果です。
地域、個人のバランス感覚を失わせてしまった結果です。

その結果、地域との絆を取り去り、個人という側面のみを強調し、人の労働に対してまで、流動性などという言葉を使い、経営社の都合により切り捨てられるもの、根無し草となる方向へと推し進められました。
互いに助け合って生きてゆく群れではなく、個に分割されると身を守るすべを失ってしまいます。
個人は自由だ、好き勝手ができると、わがままが認められてゆく、その陰で進められた個の分断です。
今後は、さらにそのような方向性が強化されそうです。

地域コミュニティの自立自尊の精神がそがれてしまったため、未来を見ることなく、今さえよければということで、種子法の廃止、TTPなど我が国の未来、子々孫々の未来を奪い取るような問題に対し、無関心でいられるのです。
最近の動きについて、逆照射してみるとこのようにいえると思います。

それは、国(官僚)がなんとかしてくれるという、ぶら下がりの思想が根底にあるからです。
しかし、国(官僚)は民を効率的に治めるための知恵を絞るところであり、その国は、民の方を向いているとは限らないのです。
足尾の場合は、そのような傾向が大きく出、公害問題として噴出したわけですが、世界の政治・経済の運営は概ねそのような仕組みの上にできています。

民主主義とは、民の代表である代議士が、国を運営する官僚と対峙するこにより、民意が政治に反映されるということを指すのですが、地域コミュニティが解体された今、そのようなことは望めません。
地域のためというよりも、個人の利益により票を集めることができるからです。
そして、選挙の棄権とは、官僚に白紙委任するという意思表示となっていることに気がつきません。

地域のため、子々孫々が豊かに暮らすためということよりも、今が大切ですから、今の利益、目の前のにんじんを食べるために票を投じてしまうのです。
にんじんをぶら下げるのは、経済サイドです。
これにより、短期のもうけが優先され、未来の美林を作ろうという観点からの法は作られることがなくなり、美林、豊かな国土、農業を子孫に残せない状態となってしまいました。

民が食べてゆくための農業・産業ではなく、もうけを出すための農業・産業へと目的の変換がなされたのに、多くの民が気がつきません。
産業廃棄物、環境汚染は大きな問題。
しかし、TTPや二国間協議により、じわじわと健康被害をもたらす農薬、遺伝子組み換え食品の組み合わせ、食品添加物などの防波堤が打ち壊され、無制限に押し寄せ、鉱毒などよりも数段大きな産業公害、直接体内の汚染が進むという状態が発生してるのですが、問題としようとしません。

田中正造のようなリーダー、政治家の出現を願うとともに、公害を認めさせるために100年間闘い続けた民がいた、100年もかかったということを思いだし、子々孫々が安心て暮らすことにできる、豊かな国土をバトンタッチできるようになることを祈らざるをえません。

足尾の地は江戸時代から続く鉱山故、山の木は鉱石の精錬のため切り出され、はげ山となり、さらに近代精錬技術による亜硫酸ガスの発生により草木・低木類まで失ってしまいました。
当然、緑の被覆を失った山は崩れ、河川下流に堆積し天井川となり、台風による洪水により流され、下流に甚大な洪水被害をもたらすことになります。
鉱毒による健康被害も発生させるととなります。
このような問題に対し、立ち上がったのが田中正造です。

そして、はげ山を緑化し、洪水被害の軽減を図ることとなりました。
そのとき大活躍をしたのが、安価で効率的な外来牧草でした。
敗戦後の貧しいとき、安価に効率的に緑化し国土を守ったのです。

はげ山という面では足尾は極端でしたが、昭和30年代、燃料革命により石油を燃やすようになるまでは、全国の山ははげ山だらけでした。
大雨が降れば洪水となり、下流に土石が流され大被害が発生するということが続いていました。
そのはげ山を、治山・砂防工事などにより緑化し、また、治水・利水のためダム・護岸工事を行い、安全・安心な国土造りを行ってきたのです。
そのとき広い面積を利四日するために、外来牧草が用いられたのです。
私たちの先輩の仕事です。
結果、山は緑になり、安心・安全の国土を作ることができました。

そのような功績が大きな外来牧草を、60年以上使い続け、日本の国土を緑に服すきっかけ作りをした外来牧草を、60年をかけ緑になったからと、その緑だけを見て、ペテンにも等しい論文で外来だから悪者だと決めつける生態学者は何様のつもりでしょう。
恩を忘れた、人非人、天に唾する者と指弾をしておきましょう。
そのような論調を認め、悪乗りしている環境行政も国民を欺くものといえ、等しく同罪です。

治山事業によりはげ山は緑となりました。
また、人手の入れられるはげ山や、はげ山に近い薪炭林には有用樹が植えられました。
スギ、ヒノキなどの針葉樹・人工林です。
急勾配地や深山などの薪炭林はそのままです。
そして、燃料革命となりました。
結果、薪炭林としてきた里山は放置され、そのまま大きくなり、人工林にも手を入れることができなくなった状態で大きくなりました。
40年で、はげ山が緑になってしまうのですが、このようなことが全国で大なり小なりの規模で起きていたのです。

大きく見るならば経済変化の問題、市場の変化の問題ですが、なぜそのまま放置してしまうこととなったのでしょう。

このような国土の緑は、戦国以来のこと、この500年来、かつてなかった状態の景色なのです。
現在は、人手を入れらることのできなくなった緑は、どのように推移してゆくかということを、全国の山で大実験をしているのです。

しかし、生態学者は、そのような人の活動とともにあった緑を、大昔からあった自然、自然は弱いものだから手をつけるなと教え、自然は保護すべきもの、それが正義、人工林は悪、自然に手を入れることは悪だと教え、世論を誘導します。
白黒、善悪という単純化した話は、わかりやすいやすいため、皆、自然保護という安直な考え方による洗脳されてしまい、山の緑の管理を忘れてしまいました。
と、いうよりも、管理をしなくともほっとくのが自然だという手抜きのための根拠を与えてしまったのです。
管理をしなくともよいという理屈は便利ですから、行政が管理を先送りするための理屈としても用いてしまったとおもいます。
そして、その傷口は大きくひろがってしまいました。

結局、外観は緑であっても、山の緑、生態系は荒れ果ててしました。
大いなる質の低下です。
人手の入らなくなった自然の中で、シカ、イノシシ、クマ、サルなどが我がもの顔で跋扈するようになりました。
人間様を含む生態系の崩壊です。

生態学者のいう人間を含まない生態系は、日本の中には高山などごく一部にしか存在しないのですが、理念的な生態系のみが教育され続けました。
自然に手をつけるな、守れといい続けてきた人たちは、このような状態になるということは予想もできなかったのでしょうし、その適切な対策を示すこともありません。

人間を含まない生態系は存在しないのですから、日本全国、人手の入った緑ばかりですから、良好な自然を維持するためには管理をし続けなければならないのです。
ならば、誤りを認め管理しろ、といえばよいのですが、そのような提案は出てきません。
里山の荒廃が明らかになった時点で、里山管理について最近になって最もらしく言い出した程度です。
そんなことは、結果論ですから学者でなくともわかります。
問題は理屈ではなく、放置を許容してきたから、管理費が膨大になり、手のつけようがないということなのです。

しかし、生態学者は相変わらず、里山以外に対する自然に手を入れることを否定し続けています。
木を切る木こりは悪者、それでいて人工林は悪者、また、外来牧草を播くものは悪者と、悪者造りを続けています。
このような考え方が環境行政に組み込まれ、生物多様性保全が自然保護の隠れ蓑となって叫ばれてしまいました。
60年以来使い続けてきた、枯れた技術までも用いてはならぬとし、様々な問題を発生させてしまいました。

悪者を作り出すことは、紙芝居としては面白いのかもしれませんが、物事は解決に向かわず悪化させてしまうばかりです。
ひょっとしたら、これまで言い続けてきた悪者を作り出すという論法が皆の頭の中にすり込まれ、子供たちのいじめを助長しているのではないかと思うほどです。

健全・健康な緑、国土を形成してゆくためには、身近な自然に対しては適切な管理が必要なのです。
また、必要に応じて外来牧草なども含む多様な植物を使いこなすことが必要なのです。
これまで善悪二元論により洗脳された頭を切り替え、多様な技術を使いこなし、適正な管理をいかに行うかについて、自分の頭で考えていただけるならば幸いです。

足尾をネタにして、公害と緑の側面について長々記しました。
物事には正負の両方の側面があり、善悪二元論的な説明を信じ込んでしまうと、思わぬしっぺ返しがやってくる。
大きな事業を行うに際しての官の綺麗な説明、そして官の動きを保証する学とのなれ合いにより、民を洗脳によって方向付け推進する正義の仮面をかぶった事業という側面について、足尾のみの問題とせず、全国、今現在の問題として認識してもらいたいのです。
いったん始まってしまうとその動きは止めることができず、足尾鉱毒事件の法的な解決には100年を要し、失われた山の緑を取り戻すために今なお事業が継続されているという事実について、今一度真摯に考える必要があるでしょう。

2018.09.24.FB

生物多様性保全、「悪夢のような時代は終わった」。
そのようになって欲しいですね。

現在の環境省主導で行っている駆逐・駆除を前提とする生物多様性保全は、自然保護というイズムを行政が取り込んだ対症療法的なものであり、過去の姿を固定化してしまおうという力付くの方法ともいえ、生態系の総合的な保全にはなり得ないと主張してきた。

人間の時間感覚ではなく、自然というレベルの時間の流れの中では、外来種を含んでの安定した生態系が生まれ出るだろう。
もう少し、時間のスパンを長くみての事実確認が必要だろう。
自然の時間の流れの中で、生物多様性保全というものを考えて行くということが本質であって、生物純血主義的な過去・現在の姿を固定してしまおうという現在のあり方は、むしろ生物多様性保全に対し棹さすやり方ではないのか、という素朴な疑問を持っている。

また、人体に直接的な被害を及ぼす生き物の場合は駆逐・駆除も1つの手段だが、過去数十年、数百年に遡り、国内に帰化し生きてきた種にまで、法の力によって遡り、駆逐・駆除を計るのはいかがなものであろうか、という問いでもあった。

今後に備えてという立場なら良いが、理念法を拵え、過去に遡り悪者としようという方法は、法の不遡及という大原則に反するもの、裁量により何でもありとなってしまいかねない。
過去に移入した種に対しては、個別に法を作り、承認を得るという丁寧な作業が必要だろう。

さらには、自然の中に外来種という悪者がいるから退治するのだという、勧善懲悪的な自然観を子ども達に植え付けるな、本来の自然、中立的な自然、ありのままの自然を観察するという感性が失われてしまう、という主張でもあった。

以上の問いかけに対し、キチッと答えてくれる行政・専門家・学者は残念ながら皆無であった。
黒船のようやってきた生物多様性条約により始まった、政治・行政的なトップダウンの動き、生物多様性保全の名を借りた自然保護的な政策なのだが、学問の世界は流行に乗り遅れるなという動きのみが目立った。

このような疑問に対して明確に答えてくれたのが、フレッド・ピアスの「外来種は本当に悪者か-新しい野生 THE NEW WILD-(草思社)」であった。
外来種を含む生態系、外来種が造り出す生態系というものを明確に示してくれた。
外来種は悪者ではない、新たな生態系の担い手だ、ということを明確に示してくれた。

私は、その感想として、後10年もしたらこのような考え方が我が国にも現れ、まともな生物多様性の取組がなされるようになるのではないかと、記した。

しかし、嬉しいことにそのような考え方が既に示されていた。
ピアスも海の中の孤島の生態系について扱っていたが、ここでは小笠原列島の母島が舞台となる。
海鳥の繁殖地の島と、海鳥が絶滅してしまった島の比較である。

保護的な色彩の強い現在の生態学の考え方からいうならば、海鳥の繁殖する島の方が豊かな生態系を持っているものと想像してしまうが、あにはからんや、海鳥が絶滅した島の方が緑豊かな、すなわち多様性の富む生態系となっているというのだ。
海鳥が消失した島は、海鳥により植生が踏み荒らされないため、緑豊かになるというのだ。
すなわち、ただ守れば良い、昔に戻せば良いという訳ではない、ということになる。

生態系は、動的に絶えず変化し、その時々の条件に即した安定を保とうとするのだ。
条件の変化にフレキシブルに対応するためにこそ、生物多様性が重要となるのだ。
生態系を現状のまま固定化しようとする、行政主導で進めている自然保護的な生物多様性保全と、生物多様性は異なる概念なのだ。

海鳥の住む島は、昔はグアノ(リン鉱石・窒素源)の掘削地だった。
リン酸、窒素源として掘削されつくし、現在ではグアノ資源は枯渇してしまった。
そのようにいわれてみれば、グアノの採掘した島々は、緑豊かな島というイメージはない。
グアノの島は、生物多様性という面では劣っていた、脆弱な自然ということになる。

動的な自然、気象・人間活動も含め動的な自然を過去・現在を含め、固定的に捉えることは、どだい無理な話なのだ。
固定的に考える、自然には手をつけるべきではない、ということも含め、管理という観念が先にある。
すなわち、保護・保全だろうが、開発だろうが、私たちの価値観で物事を見ているということでは同じということなのだろう。

昔、米国では、グアノ法という法律を作って、所有者(白人)のいないグアノを堆積する島は、世界のどこであっても米国の領土とするとして、グアノ採掘を行った。
米国に限らず、西洋列強の植民地政策による資源争奪の1つがグアノ、リン鉱石・窒素を巡るものであった。
今では、海鳥を保全せよ、手をつけるなだ。
化学合成など、他の手段により窒素・リン酸分の確保が可能となったから、海鳥の保全が可能となったのであり、ご都合主義といわれても仕方が無いだろう。

海鳥を失ったこの島の場合、海鳥の生息の復元を計り遠い将来のグアノの蓄積を計るか、海鳥を失った後に成立した豊かな緑を良しとし認めるか、ということになるが、理念・原理原則的な生物多様性保全の考え方をするならば、海鳥の復活ということになるのだろうし、現実的な考え方に立つならば現状の肯定ということとなろう。

いずれにしろ、現状では人間様の都合、声の大きな方になびくということになるのだろうから、このレポート「外来種の駆除を保全の目的としてはならない」は、無理無駄のない、多くの人々が納得できる常識的な範囲での生物多様性保全の取組へと進むための一歩となるニュースとなると良いなと考える。

・外来種の駆除を保全の目的にしてはならない理由
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/web/17/120700018/030200003/?P=3

FB:H300307

土壌は、植物が海を陸に持ち上げたもの。
植物と微生物・小動物の共生体だ。
全体で一つだ。

その海を皮の中に封じ込め、お腹の中に土壌を取り込んだのが動物。
養水分を体に取り入れる仕組みは、植物も動物も同じ。
土壌微生物の力を借りている。
と、大きく俯瞰し説いてきた。

「土と臓」は、このような観点について硬質な庭に有機物を与えつつけることで肥沃な土壌としたこと、そのことと体の微生物との関わり、病との関係について記している。
「失われてゆく我々のなる細菌」は、更に体腸内細菌叢に関して判明したこと、抗生物質などの使いすぎによる問題について記している。
良書である。

この数年で腸内細菌叢に関する知見が、このような書籍、マスコミを通じて世間に拡がった。
しかし、世間といっても広く、このようなことに興味を持つ人々の間に拡がったと言い直すべきだろう。
私たちの健康は、土壌微生物・腸内細菌叢との関わり、さらには、私たちの身体を構成する一つ一つの細胞が元気であることが土台となるのだということに関してまでの踏み込みは少ない。

微生物、細胞レベルにまで思いを凝らし、健康ということについて考え、これらの目に見えぬ小さき物が喜ぶ暮らしということに心馳せることが大切だろう。
食、薬剤、運動、呼吸は、細胞を元気にするためという考え方が必要だ。
味覚、噛む感覚などが鈍った結果、感覚、細胞の感覚を感じる力が劣化し、目、脳が欲する方向へと進みがちになってしまった。

結果、微生物を含む全体で一つ、繋がり、連鎖、循環の中で暮らしているのだが、目に見えぬ世界故、自分たちの都合でその連鎖を断ち切ってしまう。
この連鎖の破綻が、回りに回って私たちに返ってきたときに病におちいる。

これは、生命のつながりを第一に考え暗し続けてきた結果、古人の経験の積み重ねの結果、つたえ残された道に反する行為でもあった。
目先の便利、快適におぼれた結果の自然のしっぺ返しだ。
急激な変化は、最初は小さくても、拡大連鎖し、大きな反動・反力となって還ってくる。
操作可能の自然、自然を征服・管理しようとした結果だ。

こののような結果を真摯に受け取り、部分最適・対症療法に走ることなく、今一度、微生物、細胞、の声に耳を傾けよう。

FB:2017.12/22

腸内細菌叢を、「新たに見つかった臓器」だと言ってるよ?
で、「便カプセル」だってさ。

昆虫から動物まで、糞食は当たり前。
人間さまも、尿の飲用治療をやっているから、糞食を取り入れればよい。
尿も糞も、出たばかりは、悪玉菌は少なく飲食には問題が無いはずだ。

生まれたばかりの赤ちゃんは、母親の便に触れ、腸内細菌叢の元となる細菌を摂取している。

また、土や粘土を食べる、土食は世界共通。
モンゴルの仲間が言っていた。
妊婦は、土を食べるのだそうだ。
粘土中のミネラルの摂取、体の毒物の排泄効果とともに、細菌も取り入れているのだろう。
動物も土を食べ、健康?を保持している。

自然の生き物に取っては、当たり前の行為なのに、新発見とするのは如何に?

「便カプセル」などという新兵器も良いが、その前に、野生に帰れ、野生の勘を取り戻せ、と叫ぶべきだろう。

野生・自然が、最も効率的で、経済的なものなのだが、それさえも色々理屈をこねて、新しい医療術としてしまう根性が物凄い。

 

FB:2014.12/15

これが人間さまの生活。
糞便屎尿は自然のなかで分解され、その過程で体にも摂取する。
腸内細菌叢のかく乱と再生が繰り返される。

作物、肉と言えども、その元は土と水と太陽。
固形物の元は土。
土・地球を喰らっているのだから、本能に基づきバランスの取れた食生活をするならば、微生物も含め、必要なものはすべて身についている。
だから、身土不二。地産地消。一物全体。

便カプセル?、なんてものは要らないよね。
糞便・屎尿の有効活用・循環利用こそが、生活の基本。

ヨーロッパの都市は、その循環利用・有効活用ができず、流行病で大変な目に会った。
パリなどでは、下のものを始末する仕組みがなく、糞便屎尿を住居から追い出すのみ。
何のことはない、窓から道路に捨てるのだ。

この汚物を避けて通るための履き物が「ハイヒール」。
外出着が、コートなる。
淑女お気に入りの、裾の長い、ふわーっとしたロングドレスは、用を足すための着物。
どこで用を足すか?
庭の奥に行って、ドレスを着たまま、そのままできるのさ。
便利だろう。

庭園は、観賞だけではない。
実用を兼ねていた。
日本の回遊式庭園などとは次元が異なるのだ。
ハイレベルの目的を持っていた。

香水もしかり。
汚物まみれ?の体臭を消すためのもの。

ハイヒールを履き、ロングドレスを身にまとい、強い香水を薫らせる。
これが、女性のあこがれの的。
冗談じゃないよね。

温故知新。

人口が密集しても、同様のことをし続けた結果、都市は汚物まみれ。
ペストなど伝染病の蔓延。
このような状態を打開すべく工夫し、できたのが、下水道と公衆衛生・細菌学のセット。

汚物は目に見えないところに隔離し、細菌はやっつける、という基本戦略。
下水道を造っただけで、衛生問題は解決したはずだが、細菌・ばい菌というものを見つけたため、医学というばい菌相手の新たなる戦争を始めてしまった。

また、下水道と下水処理というとてつもないインフラを造りあげ、負の遺産を造ってしまった。
活性汚泥法と称する下水処理は、大利量の下水を集め、屎尿を微生物で分解するわけだが、その結果微生物が増える。
大量の水と、微生物(下水ケーキ)の処理を永久にし続けるというシステムだ。
水で希釈せず、地域単位で分散し、メタン発酵などをさせるシステムの方がインフラ投資は少ないのだが、巨大インフラを造り出した今、撤退もできず、そのメンテが次第に負担になって来ている。

でも、ヨーロッパの人々は、ばっちい生活をしたおかげで、強い細菌に対する免疫力を身につけた。
このばい菌とその免疫力の効果はものすごい。
世界の歴史を変えてしまった。

ヨーロッパの人々がアメリカ大陸へ乗り出し、原住民をたやすく征服できたのは、侵略したヨーロッパの人々自らが細菌兵器だったからだ。
これまでに経験したことのない伝染病により、免疫力のない原住民の人口は激減。
原住民の人口が激減したのだから、たやすく征服できたという訳だ。

このように、便利なばい菌達たったから、上手く使いこなせば効果満点。
西洋医学の骨頂は細菌学と外科。
負傷した兵士を細菌から守り、外科手術により効率的に戦線に復帰させる。
細菌は、侵略のための兵器にもなる。

これを逆手に使い、ばい菌が怖いという洗脳により、消毒と称して身の回りのばい菌を殺しまくり、ばい菌がいないための新たな疾病を造り出すという新たな戦略にも使える。
便カプセル兵器の出現だ。

ばい菌は、兵器にもなるし、薬にもなる、という訳だ。
平時は薬として使い、いざという時は、人減らしにも使えるという究極の兵器なのかもしれない。さじ加減一つだ。
どちらも、人を脅すことによる錬金術であることには変わりはない。

天は、強者を助ける。
しかし、強者は、天に助けられたことにより自滅への道を辿る。
人間様の時間の感覚では永遠のように思えるのだが、天の時間ではあっという間の盛り、栄枯盛衰の相なのだろう。

今できるのは、自然の循環に身を任せ、淡々と生きるのみ。
そのような人、仲間を増やして行くことが天与の生活なのだろう。

 

FB:2014.12/15

いよいよおしせまってきました。
最後は、健康ネタでしめくくり。
来年も、健康で元気で過ごしましょう。

みなさまにとって、健康で豊かな年となりますように。

・・・・・

仕事仲間から年末の挨拶が届きました。
心筋梗塞を患ったとのこと。
で、よけいなお節介。
昨日の健康ネタと同じ事の繰り返しとなりますが、参考まで。

・・・・・

若い内は、年は切り捨て。
中年は年相応。
年取ると、四捨五入。
最後は、四捨(死者)切り上げとなって、あの世へ組み入れられる。

65歳を過ぎたならば、70歳になったつもりで身体を使い、意識して免疫力アップに努めることが大切でしょう。

猿(地獄谷の猿)を見習い、身体と心を温かく。

・・・・・

病は、身体の悲鳴を聞き取らないために発生する、身体のクーデター。
身体をそれだけこき使っているということです。
大脳(心)も身体の内。
病とは、身体だけの問題では無く、心身のストレスの総和を身体が受け止められなくなってきた、というサインです。
とにもかくにも、身体と心を温め、休ませる事が大切です。

年末年始、身体と心をしっかりと温め、お休め下さい。

・・・・・

病原菌などの関係する急性疾患、切り貼りの外科など、急性的な病に対応するために西洋医療は発達してきました。
言ってみれば、戦争を遂行するための医学です。
病原菌をやっつける、身体に負った傷を修理する、早急に身体を復元して、再び戦場に送り出す、銃後の支えとして生産にあたりロジステックを怠りなく行うための医学です。

効率的に人を動かすためには効果的ですが、これとても直す主体は自然治癒力、自分の身体の持つ快復しようとする力です。

しかし、ともかく速く直してしまう、という方向に発達させてしまったために対処療法となってしまいました。
急性的な病に対しては、止む得ない方向だったのでしょう。
しかし、病原菌を病の主因とし、これを叩きつぶすという対処療法の効果は目覚ましいものであったため、これこそが医療とされ、現在医療の本流になってしまいました。

でも、慢性的な病は、病に至る過程の蓄積、病になる個人の素質というものがあり発病するものですから、病原菌を原因とするようなやり方では、根本的な対策には至りません。
このため、慢性疾患、生活習慣病などは、残念ながら、医療の不得手な分野となってしまいました。

病を悪者として、これをやっつけるための対処療法に走るために、いたずらに病を対立的に取扱い、自然治癒力を阻害する治療をする場合が多く、病が治っても、身体は死に至るということになりがちです。
病に至ったその人の全体、生活のあり方の総体を見ること無く、病に至った部分のみを相手にしてしまうためです。

病とは、その人の身体と心の状態に関する一つの表現と捉えるべきものなのですが、検査と称して身体の隅々まで調べられ、そのあげく悪いところを見つけたと脅かされ、患部を切除し、薬の投与するなどにより、麻痺させ感じなくなったことを、治ったとしてしまいます。

しかし、これは、大きな勘違い。
感じなくなったことにより自然治癒力が働き出すことを妨げ、更に状況を悪化させてしまいがちとなります。
たとえ、病状が消えたとしても、病に至った行動、生活習慣、すなわち、頭の中の構造が変わりませんから、再び、あるいは、形を変えて発病してしまいます。

病名、直接の原因が分かったならば、そのようになるまで心身を使い続けてきたことについて考え、真因を捕まえ、修正し直さなければなりません。
自分の身体を快復させるのは、自己の自然治癒力のみであることを理解し、心身の建て直しを図らなければなりません。
心身(心と体)と言っているのは、身体を酷使し続けるという心の状態、傾向があるからです。
心の状態をも含めた状況の変更を図る必要があるのです。

また、自己の持つ自然治癒力とは、免疫力であると共に、個々の細胞の回復力でもあります。
個々の細胞が元気にならなければ、力を取り戻さなければ、快復には至りません。
心の傾向、身体の使い方の癖を反省し、改めつつ、心身を休め、ストレスからの解放、身体を温め、細胞レベルの活力を取り戻し、自然治癒力のアップに努めることが大切です。

しかし、各人が持つ自然治癒力が働きやすいようにサポートすることが医者の本来勤めだと思うのですが、プロの腕前を見せようと、いろいろと余分なことをやってしまいます。
生活環境が良好・快適となった今、特殊な病以外は、極々当たり前の養生で回復してしまうのですが、それでは商売にならないというシステムがあるからです。
薬を与えなければ儲からない仕組みのため、余分な薬を与えてしまいます。

さらには、教育、マスコミなども、医療や薬に頼らないと健康は保てないとの大合唱を繰り返します。
そして、医者に対する依存度を高めようとします。
そして、庶民は、医療経済の神様に、身体を捧げるのです。
経済の神様のために、一生懸命、まじめに頑張り続け、そのストレスがたまりにたまって、病に至ります。
頭脳(神経・心)の疲れやストレスを、食い気、飲み気という形で、胃腸・内臓・血管のストレスに変換し続けてしまうから、身体の方はたまりません。

教育やマスコミを通じた洗脳で、病は医者・薬が治すものとしてしまいました。
ストレスの解消は、飲み食いすることだとマスコミは暗示します。
それは、経済優先の政治の賜です。
その結果、医者もまた、医療技術が病を治すと思ってしまいました。

自分の身体に備わった自然治癒力、40億年の生命進化の結果、身につけた自己治癒力の力を、自らが否定してしまったのです。
そして、庶民も又、医者という他人の手に自己の健康を守ってももらうということが当たり前としてしまいました。

本末転倒なことを制度化してしまい、教育によりその正しさを教え込み(洗脳し)、さらには、健康保険などと言って、医療経費を補填するシステムを造ってしまいました。
自分の身体の持つ免疫力を発揮させなければ快復しないのに、医者・薬を頼りにする心を植え付けてしまいました。
また、大枚の健康保険料を支払ってきたのだから、その元を取り戻さなければならないと、調子が悪いとここぞとばかり医者通いをするという、さもしい根性を植え付けてしまいました。
そして、医療費の肥大化を招いたのです。
医療が発達するほど病が増すという皮肉結果です。

心筋梗塞もまた、大きく見るならば同じことです。
心筋を形成する細胞の活力が低下したため心筋梗塞が発病してしまうものだと思います。
活力低下はなぜ起きるのか?
それは、心身のストレスの積み重ねの結果ですから、そのストレスを軽減してあげることが根本の解決策となるのでしょう。

心筋は、赤筋。
赤筋は、有酸素呼吸によりエネルギーを造り出すミトコンドリアを大量に含む細胞よりなる筋肉です。
酸素を運ぶのが血液中のヘモグロビン。
ヘモグロビンは、鉄が中心にあり、その鉄が酸素を運びます。
赤い色は、鉄の色。
ミトコンドリアは、細胞内の発電器ですが酸素が必要です。

堆肥で言うならば好気性細菌・高温菌の世界です。
心筋梗塞とは、いわば、高温発酵し、心筋が酸素切れになった状態と例えることができるかもしれません。
血流障害による、酸素・養分が断たれ、欠乏したために発病するものと考えられるのです。
堆肥ならば、切り返しすることにより、酸素を補給し、再び高温発酵に導くことができますが、心臓はそうは行きません。
再び、血流を取り戻すことが必要になります。

動物だから、酸素を運ぶのが血液。
酸素を十分に取り込んだ血液を心筋に送り込まなければなりません。
心臓に張り巡らされ血管に、血液を大量に送り込むことにより、赤筋である心筋が、死ぬまで止まることの無い有酸素運動、ミトコンドリアが持続的にパワーを供給し、心臓を動かしています。

心筋梗塞は、何らかの原因で発生したストレスの積み重ねにより血管に異常が発生した事による心臓の血流障害と言えます。
心筋を構成する筋細胞に酸素と養分が届かなくなってしまい発病に至るものだとされています。
血流障害となる主な原因は血栓などとされていますが、血栓に至る前の心身の使い方があったわけです。

心筋梗塞は、手術などにより見掛けの快復はしますが、手術により心筋梗塞に至った心身の素質が無くなるわけではありません。
回復・本復に至るには、適切な医療処置を行うと共に、身体と心を温め、血行を良くし、酸素と養分を取り入れ、個々の細胞の活力を取り戻し、自然治癒力である自己免疫力を高めつつ、病に至った素質・体質改善をする必要があろうかと思います。

以上 お節介ながら。
明年の活躍を祈ります。

2015/12/31 FB

昨年末の投稿をシェア。
今年も、健康ネタで締めくくろうと思ったが、時間切れ。

来年も、心と身体を温かく保ち、細胞の隅々にまでみずみずしい栄養と酸素を配り、健康で過ごしましよう。
良き水、深呼吸、それに美味しい太陽の缶詰(食物)を取り(鳥)入れ、身体と頭を働かせ、汗をかき、適度かな負荷をかけつつ過ごしましょう。

先に紹介した「土と内臓」、「失われて行く我々の内なる細菌」の2書について語り、新たな年へと思ったが、長くなりそうだから来年にしよう。

これら体内に共生する腸内細菌叢に関する書物が、レイチェルカーソンの「沈黙の春」のような影響を与えることになりそうだ、なって欲しいと記した。
私たちの心身の健康を保つためには、体内に共生する微生物との関係構築、体内微生物生態系の健全さが重要だからだ。

読み進むと「内なる細菌」には、「沈黙の春」になぞらえて「抗生物質の冬」という記載がなされていた。
医薬品、抗生物質の使いすぎによる目に見えない影響が私たちの体内微生物の多様性を低下させ、微生物生態系の変容をもたらし、農薬による「沈黙の春」以上の影響を与えているということを「抗生物質の冬」と示したものだ。
農薬などは、食料を経て私たちの身体に、間接的な影響を与えている訳だが、体内微生物生態系は、私たちの身体の一部であり、その乱れは心身に対し直接的なダメージを与えることとなる。

かつて「核の冬」という事が言われた。
「核の冬」とは、「核戦争により地球上に大規模環境変動が起き、人為的に氷河期が発生する」という人類滅亡シナリオだ。
「抗生物質の冬」とは、体内微生物叢のかく乱による生命力の低下と耐性菌の出現により、抗生物質出現以前の大規模、世界的規模の伝染病(パンデミックス)の時代に逆戻りしてしまうという危険性を示したものである。

体内微生物のかく乱は、私が考えていた以上に重篤な状態となっている様だ。
ますます、心身を温かく保ち免疫力をアップし、医薬品、抗生物質に頼ることなく健康を保つ生活を送ることが重要になって来た。
耐性菌によるパンデミックスから自分、家族を守るためにも。
地球温暖化・生物多様性保全は、近未来の危機について語っているが、「抗生物質の冬」は、今、現実に進みつつある目に見えない危機といえる。

2016/12/31 FB

 

やっぱり目が行ってしまうのは、背後の緑・木々の姿。

明治の頃は、緑が薄いね。
戦後、石油を燃やし続けて造った緑。
その緑は、自然? or 不自然?

見た目の森の姿は自然だが、その本質を探るならば石油が育てた森。
自然なのかな~ ?

いすれにしろ、石油などエネルギー資源がなくなると、昔のようにあっという間にはげ山になってしまうよね。
鉱物資源、石炭・石油・放射性鉱物などの資源が枯渇したら自然の制約の中で暮らさなければならなくなる。

姥捨て、子殺しなどが当たり前であった時代だ。
資源の枯渇ものとでは、ヒューマニズムなどというしゃれたこみとは言っていられない。生命は、地球よりも重い、等という戯言は言っておられない。
そのような自然の掟に立ち返って未来を見据える必要があるだろう。

石油などが枯渇するのは数100年のオーダーだ。
エネルギーをふんだんに使い、長寿命を達成したが、人生80年、生産性の高い40年とするならば、5世代後程度にはエネルギーは高価なものになっているだろう。
エネルギーを持つものと、持ちざるものの貧富格差は想像を絶する大きなものとなるように思える。

真空から無尽蔵のエネルギーを取り出す技術、効率的な永久機関が開発されない限り、資源の呪縛からは抜け出せない。
ならば、そのような画期的な、夢の技術を編み出すまで、子々孫々が如何に生き延びられるかを中心において、本気のもったいない戦略を立てて行かなければならないのだろう。

しかし、後代に対する責任は無視し、大量消費者糧などと言う戯言の元、大量消費をさせる事を前提、経済成長を大前提とした社会システムの見直しを図ろうとしない。
エコもまた、新たな消費の入り口にしてしまうのだから・・・・・。

自然という悠久の時間の中では、あっという間に滅びの世界に突入しようとしているのに、人間様というものは脳天気だな~。

正月気分が抜けたので、いやな事を言っておこう。

2017/01/05 FB より

新年明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

 平成30年(2018年) 1月1日、戊戌(ぼじゅつ、つちのえ・いぬ[土兄・犬]・35/60番) 元旦
(昭和93年/大正107年/明治151年)

戊・戌 いずれの字源も矛

・・・・・ ・・・・・ いつもの干支を巡る与太話です。お暇な方はどうぞ ・・・・・

今年はどうなるやら・・・。
いにしえの先賢の経験知の積み重ねである干支(えと)から今年の傾向を探ってみましょう。

干支は、十干十二支60年を一巡り(一元)として、世界が循環しつつ生成発展をして行くという考え方。
植物が芽を出し、生長・成長し変化して行く様と、世界の変化の相似性を感じ取った古人の経験知の集合といえます。

・・・・・

今年の干支は、「戊(土の兄)・戌(犬)」です。
「つちのえ・いぬ」の年ということになります。

干支の最初甲子(きのえね)から35番目、60年(還暦)周期の真ん中、折り返しから5年目の年が始まりました。
60年の前半30年で造りあげた事柄の完成を目指すべく動き出し、5年が経過しました。
あるいは前半30年、青年期までに積み重ねた知識・経験に、さらに磨きをかける壮年期(朱夏)に入り5年が経過したといえます。
干支60年の周期の中での盛り、夏(朱夏)の時期です。

人も60年、陰陽五行、干支の巡りで動いているとされています。
胎児・幼児(0歳~5歳)、小年(6歳~14歳)、青年(15歳~29歳)、壮年(30歳~44歳・朱夏)、中年(45歳~64歳・白秋)、高年・老年(65歳~ ・玄冬)という5段階を経て成長します。
0歳~29歳までを春(青・木)、壮年期を夏(朱・赤・火)、中年期を秋(白・金)、老年期を冬(黒・水)とし、中年から老年への切り替わりの時期を土用(黄)とし、五行に当てはめています。

さて、今年の干支・戊戌を分解し、傾向を把握することとしましよう。

干支は、十干(五行)と十二支で構成されていますが、大きな年回り・幹(干)は干支の戊で、細かな部分・枝(支)は、十二支の戌をヒントとしイメージを膨らませて行くということになります。

また、他の干支にはない戊戌と、同様の字形、意味を同じくする文字が二つ続く年回りという特徴があります。二つ重なると言うことは、物事(斧)が強調、極端化されがちと言う事も表します。

・十干(根・幹の部分、天) 戊:土の兄(陽)

甲子から始まり、十干3巡目し、4巡目の半ば5年目・戊に入りました。

十干の始まりの甲は種子の芽吹きが潜在している状態で、乙は芽吹きに備え屈曲している状態、芽が殻の中で縮んだ状態でしたが、丙となり、火(陽気が)働き炳(明らか・つよし)となって行く、すなわち芽が地上に伸びて形をはっきりとさせる状態となったものが、丁では伸びきり、盛を少し過ぎ、戊に至ると生い茂った草木(陽)が蒸れ始め病害が出やすくなるため、これに手を入れ、風通しをよくしなければならない状態に至った事を示しているのです。
すなわち、枝葉を茂らせ、枝がしなだれ下がった状態(丁)となったため、これを矛で剪定し整理する時期に至ったということなのです。

戊の字象は、木と戈(ほこ・矛)であり、伸びきり繁茂した草木を刈り払う道具を表している。

昨年の丁の字象、ー(横棒)と│(縦棒)のぶつかり合った対立を整理するという事でもあります。
ただし、整理すると言っても、壮年期のパワーを潜ませているため、そのやり方により、解決に向かうことも、逆に更に撹乱させてしまうこともありますから、注意が必要です。

・十二支(枝・葉の部分、地) は戌(いぬ)

十二支の11番目。
元来は1年、12の月を表したものだが、12年の巡りへと拡大された。
11月を子(始まり)として月が変化して行くので、戊は9月に配される。
十二支の象も、十干と同様、夏の盛を少し越えた時期であり、草木が生い茂っており、刈り払う事が必要な時期といえる。

戌は、戊にーを加えたもので、茂と同意。
枝葉が茂って日当たりが悪くなり、風通しが悪くなって病虫害が出やすくなった象。
枝葉末節が過剰、肥大した姿。
戌伐(切断)、不要な枝葉を切り払う必要があるのです。
それにより、病害の発生による樹勢の衰退を防ぎ、来年の成長を期待できるようになるのです。

以上より、干支の枝である戌もまた、過熟状体に繁茂した枝葉を刈り払い、風通しをよくすることを示しているのです。

干支では、3年を一つの区切りとして動きを読み取るということをします。
甲午、乙羊、丙申と続いた3年の区切りが終え、今年から丁酉(革命・革新)、戊戌(過繁茂・行き過ぎを整理)、己亥(動き・爆発)と続く新たな展開へ向けての助走の年となり、その舵切りで次の十二支の始まり庚子(こうし・かのえね)の方向が定まるのです。

政治、経済など、自分の興味のある処に、このような象が暗示する様を当てはめ、各人が考察する必要があります。
干支の示すところをヒントに、幹と枝葉の関係などの事象がなにを現しているのか、考えてみると面白いでしょう。

自分、個人の興味ある分野について干支の示す象を考察する助けとして、十干(天・根幹)と十二支(地・枝葉)を組み合わせた60年(一元)を一区切りとして過去へさかのぼり、世情を確認して見ましょう。

※昭和33(1958)年(一元前)

・政治・社会
国際原子時の起点 / 欧州経済共同体設立 / アラブ連合共和国建国/ China大躍進 /
関門トンネル開通 / 売春禁止法施行 / 安保解散 / 各地でTV局開設 / 東京タワー竣工 /
電車特急「こだま」運転開始 / 天皇陛下と美智子妃が婚約 / 新1万円札(聖徳太子)発行
・科学
米、初の宇宙衛星打ち上げ / ヴァンアレン帯の発見。
・食
学校給食に牛乳加わる / チキンラーメン販売 / 缶麦酒発売 / 炭酸飲料ファンタ発売
・災害
狩野川台風神奈川県に上陸

※明治31(1898)年(二元前)

・政治・社会
米西戦争 / 英・清より英九龍半島租借 / 仏・清より広州湾租借 /
米、ハワイ併合・フィリッピン・グアム・プエルトリコ領有 /
沖縄徴兵の対象となる / 日本初の鉄道スト / 家族法施行 / 淀橋浄水場竣工、初の水道 /
上野公園西郷隆盛銅像除幕 / 児玉源太郎台湾総督 / 初の政党内閣(隈板内閣)
・科学
キューリー夫妻、ラジウム発見

※天保9(1838)年(3元前)

・社会・政治
英・人民憲章発表 / 英・ビクトリア女王戴冠式 /
江戸城西の丸再建 / 江戸大火 /中山みき天理教創始 / 緒方洪庵大阪に適適斉塾を開く

・享保3年(1778)年(4元前)
クック、ハワイ諸島に到着 / 米・独立戦争 /
ロシア船が蝦夷地に来港 / 豊後、安芸両国の農民検地の中止を訴えて一揆が起きる。

・政治的な動きとしては、4元前に、米国の独立戦争勃発、キャプテンクックがハワイ諸島を発見し、2元前に米国がハワイを併呑している。発見から120年後である。米国の西部開拓、西へ西へと向かう動きがハワイ、フィリッピンに達したのである。その1元後には日本を飲み込み、ソフトな占領政策といえる安保問題により、国会が解散に追い込まれている。
苅込・整理が上手く行かず、その後の安保反対運動へと拡大する道を開くこととなった。

2元前に、上野公園に西郷隆盛の銅像が建ち、2元の後、120年後の今年はNHK大河ドラマで西郷隆盛が持ち上げられる。明治革命の主役を演じた西郷隆盛であったが、革命の結果は自らの思いとは大きく乖離し長州勢力の腐敗の温床となるなどにより、不満分子に担ぎ上げられ西南戦争にて死することとなる。
明治政府に取っては反逆の徒であるが、後ろめたき故に、一新後33年もしてから贖罪のため銅像を建てた。
しかし、その影響を畏れ、式服ではなく浴衣姿という偉人としては異例の銅像である。
今回のNHKで西郷隆盛の大河ドラマはどのような思惑が隠されているのだろうか?
坂の上の雲などから始まる明治賛歌はどのような意味を持っているのだろう。
近頃、とみに、明治革命の問題点が取りざたされ、官製の歴史の見直しが巻き起こってきているが、これに棹さすような行為に思われる。

・科学の世界では、2元前にキューリーによるラジウムの発見、1元前は宇宙衛星の打ち上げと、原子力、宇宙科学の走りとなっている。

・食の世界では、学校給食の欧米化による牛乳の導入、インスタントラーメン、缶麦酒・清涼飲料が1元前のことである。

政治的には、なにやらきな臭ささ、混乱・撹乱の兆しが見受けられ、科学の世界は新たな切り口の科学が始まるが、いずれもその後、兵器へと転用され花開くものとなってしまった。
食の世界では、食生活の乱れの始まった年回りということとなる。

・・・・・

このような時期を人の身体に当てはめてみると次のようにいえるだろう。

陰の女性の場合は33歳が本厄です。
壮年期の盛であり、勢いが盛んであるだけに気をつけなければならない時とされます。
35歳の今年は、次の37歳の厄・女を卒業する時期となる庚子(新たな芽生え・更新の象)の厄を楽に越すことができるよう準備の時となります。
33歳を過ぎると、身体的にはホルモンバランスが変化し、子どものできない身体への脱皮の準備にかかります。
37歳以降、脱皮・変身をはかるということになります。

陽の男は、42歳が本厄。
男に取って最も盛んな時期ですが、盛んなときほど変動は激しく出やすく、中年に入る準備の時でもあります。

栄養の不良だった時代、人生50年などと言っていた時代は、50歳に近づくと老境に入ったとされておりました。
栄養状態が良くなった今日は、まだまだ若造です。
30代は、油の乗り切った40代を過ごすことができるよう、助走の時となりました。
助走といっても無理を重ねるということではありません。
力を発揮出来るよう、しなやかな身体と心を練り上げるときと言うことです。
30代でしなやかな身体と心を練り上げるならば、中年、老年は健やかに過ごすことができるという事なのです。

その次の厄は、陰陽・男女ともに干支が一巡する61歳となります。
還暦60から折り返し、0に戻る新たな巡りが始まります。
120歳、大還暦に向けての折り返しです。
60歳で折り返すと61歳ではなく、59歳、58歳と、だんだん若返って行くと考えると楽しく生きて行けそうです。
理想は、0歳の大還暦にあの世に旅立つことです。
人間の生物学的な最大寿命(潜在力)が120年と言われておりますから、大還暦に挑戦するのも一興と思います。

栄養と共に、衛生状態がよくなり、老化のメカニズムも理解され、120歳まで生きることが可能な時代となってきました。
しかしながら、一方では、30代の助走に失敗し、過度の栄養の取り過ぎによる生活習慣病を引き寄せてしまい、なおかつ生活習慣が招き寄せたにもかかわらず、医療に頼り、医者が治すと信じこまされ、信じ込み、自分の足で立ち上がろうとしないため、慢性的な自殺行為に及び、中年後半から老年に生きる屍となりかねないということが、今日の状態となっております。

貧富、健康、共に二極化が進んで行くという時代へと進みつつあります。
様々な情報をかしこく受取り、自立・自尊を図ることがいよいよ大切となってきております。

ともあれ、干支的には今年は、30代半ば、油の乗り切った40代へ向けての助走の時となります。
この30代半ばまでに身につけた体力、知力を壮年期で如何に使いこなすかで中年、老年のあり方が定まってきます。
干支的には、社会又しなやかさを造り保たないと、つらい中年期を迎えることとなってしまいます。

草木、樹木、植物は過繁茂となり、刈り払い、強剪定し、風通しをよくしなければならない状態。
人は、意気盛んな壮年期ではあるが、心身の手入れを行い、しなやかな身体と心を涵養し、中年・老年に向かっての助走の時。
社会は、成熟した状態に至っており、爛熟から腐り落ちるのか、その果実を上手く食べ、次なるステップへ進むための資とできるのかが問われているようです。

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干支の世界では、ホロスコープ(出生時の天体の配置図・幾何による占星術)のように星と人とを数で直接繋ぐことをせず、その間に自然・草木の生活還環境を仲介させ、物語を紡ぎ出しました。
それが十干・十二支(干支)です。
干は、甲乙丙丁戊己庚辛壬癸の十干。
支は、子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥の十二支です。
十干を、中国哲学の基礎となる五行(木火土金水)に変換するために、
甲乙(木)、丙丁(火)、戊己(土)、庚辛(金)、壬癸(水)の5グループに分け、
先を兄(え)、後を弟(と)としたことより、干支を「えと」と呼ぶようになりました。

五行は、7曜から、太陽と月を除いた5つの惑星。
木星、火星、土星、金星、水星なのですが、新羅万物に対し、この5つの逆走する惑星の性に分け分類し五行説としました。
万物は、五行(五つの性質)から成り立っていて、その消長、結び合い、循環によりあまたの現象として現れるというものです。兄・弟で陰陽、5グループは五行、偶数と奇数の組合せで物事を理解することができるとしたわけです。

十干十二支では、60年で一周期、還暦となります。
宇宙・天地・自然を貫き、循環するエネルギーの変化の過程を60のタイプに分類したものといえるのです。

五行相生説では、木火土金水、木火土金水と循環し、土から金が生まれ、金は水を生むという流れが順当に進んでいることを吉とします。自然の循環に即しているからです。
これとは異なり、五行相克説は他の性に対し優位になる状態を示し、火は金を克し、金は木を克す、のであり、火は金を溶かし、木を倒すのに金物の斧を使うと言うように、押さえ込む様を現します。
いわゆる「あいしょう・相性」が五行であり、循環する方向の流れが吉(相性が良い)であり、相対する性とは、凶(相性が悪い)と見るわけです。

昨日の「冬の身体・風邪」に対する投稿のつづき・補強。
中野理論というコメントがあったため、反応。
深い処に、長い書込をしたため、表に浮上させておこう。

私のやってきたことの中に、孫引きしつつ自分が本家だという方が多すぎるので、各人が判断できるようネタを表に出しておこうという事があった。
氏素性、系譜を明らかにしておくことは大切なことだろう。
それで、中野は、何処まで勝手な事を言っているかという判断もしてもらえる。
長い前段、屁理屈が嫌いな方は、最後の方だけお読みください。
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私の風邪理論というよりも、野口晴哉師の観察と技術に基づき展開される論を、私の経験と屁理屈で取纏直したもの、ということになります。
本家の「風邪の効用(筑摩文庫)」を熟読することをお勧めします。
私の説くことは、初級、入り口の部分。

野口晴哉師は、疲れというものの本質は偏り疲労、その偏り疲労からの快復過程が、風邪というものであると喝破しています。
そして、一連の快復過程を、自力・自分の体力で経過することにより、身体が整うと共に、パワーアップすると体験的に語っているのです。
そのための、具体的な技術が活元運動・愉気・整体法・体癖ということになります。
極めようとするならば奥が深いのですが、初級編を理解し実践するだけで健康を保つことができるのです。

50年近く医者のお世話にならない生活をしているが、30数年前に野口整体を体系的に学び、それまでの我流のやり方で良かったのだと納得でき、初級的な応用で子ども達も医者知らずで育てた。
野口晴哉師のものの見方は、私がそれまで学んできた自然観察、生態学、進化生理学的な知見、自然というもの、自然の流れと、自然の身体、身体の自然の流れというものと同じ大系の中に収まってしまうのです。
同じ自然のなかのことですから、当たり前と言えば当たり前のことですが、現代医療の不自然さとは異なるのです。
そのような経験からの話しです。

現代医学はエビデンスと言う訳ですが、大勢のデータを集め、科学的・統計的に確かめられたもの、ということです。
下世話な言い方をするならば、「大勢で渡るから怖くない」です。
しかし、それは、一つのものの見方であって、私と他は異なるものですから、何処まで、そのエビデンスが私に適応できるのか、信頼できるか、大勢の中に私は入っているのか、ということとは別問題です。
自分の身体の場合は、今の環境・状況ではと、自分に当てはめて見直す必要があるのです。
医療の結果は自己責任、医者はエビデンスに基づきましたとし責任は取ってはくれません。
薬、医者に任せっぱなしという訳には行かないのです。

自分の商売について考えて見てください。
プロとしての自覚、力量はあるでしょうが、今だ発展途上、全知全能というわけには行きません。
それが、薬、医者となると、全知全能の神様扱いをしてしまい、自分の一番大切な「いのち」さえもあずけてしまいます。
医者とて人間、薬も人の作ったもの、何処まで信頼できるかは、本気で長年つきあってみて、やっと納得できるのです。
それが、こと医療に限っては忽ち神様扱いにしてしまいます。
それを不思議に感じないといことが、不思議でたまりません。

生き死にを左右するような緊急を要する重篤な病の場合は、プロの出番でしょう。
しかし、風邪については、他人がどうこう言おうと、自分の身体を使って実際にその経過を観察してみることができ、その結果を実感し納得できるものなのです。
個人個人の身体の使い方は異なりますから、風邪に対する医療による治療の決め手はありません。
エビデンス以前のものです。
自分の身体の使い方と、風邪の引き方、治り方についての観察が大切なのです。

しかし、薬や医者が治すと、自分の身体を他者に丸投げし、依存することが良いとしている間は、このようなことはわかりません。
症状が緩和され、消え、今・明日の仕事・遊びに間に合えば良いのであって、自分の身体の中の回復過程を観察してみようなどというまどろっこしいことにはつきあってはいられません。
自分の内ではなく、絶えず外界を向いているからです。
薬、医者に丸投げが気楽だというのならば、それもむ一法。
己の選択・責任です。

ただし、自分の身体を観察をする気になるならば、感じることができるのです。
このようなやり方が面白いと思うのならば、自分の身体を使うだけのことですから、自己責任でやってみれば良いだけのことです。
やってみた結果という事実が一番です。

でも、ため込んだ疲労、ストレスが大きいと、また、体力があるならば、偏り疲労のため込んだ反動は大きく出てしまいがちです。
このため、上手に身体を弛める生活をおくり、少しずつ風邪を引いて、排泄、快復へと向かわせる、ため込んだものを少しづつ吐き出して行くということも考えることが必要でしょう。
その為には、普段から身体と心を温める生活を心がけることが大切です。

身体を温めることにより循環が良くなり、細胞レベルにまで養水分を届けられるようになり、また排泄作用が高まります。
それには、運動と深い息、良い食と水、ということになります。
筋肉を動かすから、熱が出ます。
動く事により、呼吸が速く深くなり、内臓も一緒に動きます。
汗、大小便による排泄も促進されます。
特に、大の排泄は、動いて腸が揉まれ、お腹の筋肉が強くなることでスムーズになります。
全身を程良く疲労させるならば、それれは快感であり、スムーズに疲労回復に向かうのです。
それに便乗して、深い処にため込んだ疲労も抜けて行きます。
身体が元気になるならば、自ずから心も明るく温かくなります。

従って、運動といっても偏り疲労を大きくするようでは逆効果です。
上体が緩み、お腹に自然に力が集まるような姿勢での運動が大切です。
余分なエネルギーを発散させるため、筋力をアップされるための強い運動も時には大切です。
しかし、身体を整えるためには、絶えず身体の使い方・姿勢について意識し確認し、上体が緩み下腹部に力が満ちるようにバランス良く動いているかということが観察、修正できる運動を行うことが大切になるのです。
歩くこと、東洋的なスローな動きの運動が適しているのです。
フラダンスなどもいいですね。
無論、活元運動はお勧めです。

2017/12/26 FB