「ひまなか(中野裕司)」の感じ、考えたこと・・・・・・・・・。                                  ML・FBなどの投稿を掲載します。

身体について理解する、身体を使いこなし健康を保つという観点からは、大切な事柄と思うので、再度シェアし、スレッドへの私の書込を浮上させておこう。

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ここで西原先生は、手足を呼吸、循環、免疫という、身体の古い体制の部分について記している。

古い体制とは、その大元は腸管に由来する不随意筋の世界だ。

精神・心の世界としては、古い体制は感情・無意識の世界に繋がっている。

一方で、手足は、古い体制より生まれ、新しい体制を作り出す元となっている。

古い体制と、新しい体制、両者の繋ぎとなっているということも知っておく必要がある。

手足を動かす事により運動系の筋肉・神経系が発達してきた。

この究極が、運動を司る脳の発達ということになる。

随意筋、顕在意識の世界へと繋がるものだ。

生物の進化という面から身体の仕組みについて考察すると、いろいろな繋がりを見いだすことが出来、健康に暮らして行くための多くのヒントを見いだすことができる。

手足を動かすということは、肺・循環系の活性という事以上の意味があるということが理解できる。

手足を使うことにより脳は肥大し進化してきたのだから、手足を動かす、適度の運動により、脳の世界もまた活性化されてゆくのだ。

脳神経が増殖し、新たな神経ネットワークが創られて行くのだ。

乳幼児、子供、大人、老人となるにつれ、その活性度は低下するが、脳神経の可塑性は保たれ、変化して行く。

動く事により発達し、動きを止めるならば萎縮して行くのだ。

動く事により、より良き方向への循環が始まり、動きを止めることにより悪循環が始まるのだ。

すなわち、知力アップのため、老化防止のためには、積極的に動く事が大切なのだ。

動物という命名は、本質を得ているという事だ。

動けなくなったら死に至るのだから、健康に生き抜くためには逆を行えば良い、ということだ。

心身の健康を守り、育てて行くためには、無意識と意識、不随筋と随意筋、感情と思考などのバランスが大切なのだ。

お腹、腸内細菌叢を含む内臓系を健全に保つと共に、運動により筋肉系・脳系統の健全さも合わせて保つことが大切なのだ。

動物は、食を得るために動くという戦略を採用したのだから、動き続けることで心身の健康が増進するということになる。

動きつつけるためには、休息・骨休めをとるというバランスは大切だということは、言うまでも無いことだが、ついつい忘れがちとなる。

現代は、大脳を肥大化させすぎ、大脳の快をもとめることを良きこととし、社会が、経済を動かすため、常習性の高いものに安易に依存してしまう仕組みを作り上げてしまった。

新しい体制を突出させ、古い体制を置き去りにしてしまったのだ。

このため、内臓系、運動・脳系、両者のバランスを崩し、関係性を希薄なものとしてしまい、身体も社会も病的なものとしてしまった。

身体を動かすことなく、頭だけを動かし、頭でっかちな人間が社会を構成するのだから、病的な社会が築かれて行くことは自明の理だろう。

健康を保つ土台、身体と脳・精神を経済の神に捧げてしまったのだ

脳で味合う味覚を追い求め、私たちに共生し、共進化してきた腸内微生物叢の都合は無視。

体内を観察し、感じるという繊細な感覚を失い、目、舌など大脳感覚のみを満足させようとする。

そして、自分の未来の健康を食い潰し、子ども達の未来の健康を食いつぶすための仕組みを作り上げてしまった。

大脳を手なずけることが、常習性を植え付け、商売となるのだ。

それが、現在の経済社会だ。

特に、人間を消費者という抽象的な存在としてしまったグローバリズムが世界を席巻してから、その勢いが加速化している。

このような状況を改善するためには、私たちの身体の成り立ちに対する理解が大切だし、大脳の持つ傾向についての理解を進めることが重要だ。

古い体制と、新しい体制を繋ぐものが手足だし、運動と言う事になる。

さらに端的に、煎じ詰めて言うならば、呼吸と言う事になる。

呼吸は、無意識の裡に行っているが、意識的にもコントロールできる唯一の運動だ。

無意識と意識を結びつける唯一のチャンネルだ。

キチッとした呼吸を行うことにより、身体を構成する細胞の一つ一つ、隅々にまでエネルギーを造り出す元となる酸素をとどけると共に、意識と無意識、思考と感情、脳と腸を結びつけることかできるのだ。

そのような気持ちとなり、身体の隅々まで観察するという心持ちを持つならば、健康に暮らすことができるようになり、大病に陥ることを未然に防ぐ事ができるようになるだろう。

適度の運動をし身体を動かし、身体を温め、深い呼吸をし、良き排泄をしよう。

そして、良い食べ物を食し、良き水を飲み、腸内細菌叢を喜ばせ、大脳には、善知識を取り入れよう。

この循環が滞りなく行われるならば、免疫力はアップし皆が元気となるし、元気な人々が動き出すならば、社会の循環も滞りなく働き出すことになるだろう。

そして、両者のバランスを取り戻されることにより、個人・社会の健康が担保されるようになるのだ。

2017年2月24日  · FB 

2022年4月21日 · 

武漢で新型コロナが始まったときの画像がそれだったね。
突然倒れる画像を見て、皆、恐怖に駆られてしまったのだよね。
あの画像は、ワクチン接種症状を先取りして示していたのかな?ということは、mRNAワクチンの正体は新型コロナウィルスの毒性そのものかもね。

-面白い記載を見つけましたよ。
「デルタ(DELTA)株と、オミクロン(OMICRON)株のアナグラムは、メデイアコントロール(MEDIA CONTROL)となる、これを単なる偶然と見るのはおそらく正しくないと思われる(上草一秀・日本経済の黒い霧)」。
納得ですね。

-これでもかと、これ見よがしに尻尾を出して示しているのだが、陰謀(なんてないよ)論に染め上げられている人々は、そのようなサインは否定してかかるのだろうね。
危機的な状況に至った場合は、微かなサインに気がつくかつかないかが、生死を分けるのですがね。

-危機管理の原則に「プロアクティブの原則」というものがあります。
①疑わしいときは行動せよ
②最悪事態を想定して行動せよ
③空振りは許されるが見逃しは許されないがそれです。
他に、
「防災対応はオーバーアクションくらいが良い」、
「防災対応は常に前倒しで行うべきである」、
「災害規模に比し小規模な活動体制」、「油断による対応の遅れ」、
などが過去の教訓として語られています。

-このことは、災害に対する備えとしては多くの人が知っているはずです。
しかし、コロナ禍、戦争などに対しては何故が、この原則を持ち出さないのです。
不思議なことです。

災害のように予想できず襲ってくるものとは異なり、コロナ禍も、ドンバス事変も眼前にあるのです。

-陰謀(はなされている)論に立つことが、①疑わしいもの、②最悪の事態、③空振りを恐れない、という自己を守る原則にかなうのです。
-「悲観的に考え緻密な計画をし、大胆に行動する」ことが成功の要諦でもあります。しかし、「楽観的に無視し、見ないふりをして、臆病に身を縮ませる」ということが現代の生き方になってしまっているようです。
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いつもの悪い癖、Hさんのスレッドに長い書込。書込責任と記録としてコピペ。https://twitter.com/nori426…/status/1516534752982929408…


2022年4月17日
 ·

小生の考案したグラベル緑花工法。
「グリーンフィールド緑化工法」と称した一連の都市緑化工法、技術の一つです。

法面緑化技術を都市緑化に応用したもので、自然の流れ・循環に逆らうことなく、薄層・無灌水・省メンテで豊かな緑を作り出しつつ、雨水を地下浸透させ、水の涵養を行い、踏圧にも耐え、なおかつ安価という欲張った技術でした。

ーストラクチュラルソイルミックス(SSM)と称される技術ですが、外国でそんな動きがあることを知らず、同時平行的に開発をしていました。
土壌がなくとも樹は、植物は生育する。
雨の多いわが国で、厚い客土を行い、灌水してまで植物を生育させるのは変だ。
ということで作り出したもの。
その特許が切れたものについて、公開したものです。

ーいろいろな方にお示ししたのですが、あまりにも世間の常識と異なる革命的?、簡単な技術のためやってみようと言う方はおりません。
こたび、渡辺農園さんが挑戦してくれました。
省メンテで、一年中花が咲き続けてくれるでしょう。

ー砂漠に雨が降るとたちまちのうちにお花畑に変化してゆく。
そんな景色を、雨の多いわが国で作り出したいと考案し、創ったものです。
とし砂漠が、満艦飾の花の溢れる都市に生まれ変わりますように。

2022.04.13

けふは、天気が良さげなはずだったので三重の藤原岳へ。
久しぶりのお山歩。

といっても仕事半分?
先週に引き続き石灰岩植生の調査?

ーこちらの方は、一面ニホンカモシカに食べられスゲとコケに覆われています。
その間にこんもりとしたアセビがあります。丸く刈り取ったような樹型。
シカが食べたのかな?
アセビは、馬酔木と書きますが、毒をもっています。
食べるものがなくなると、馬酔木まで食べなければならないほど高い生育密度なんでしょうね。

ー生物多様性保全、多様な主体(国民総動員)なんてことを大上段に言うのならば、ニホンジカの対策に本気で取りかかるが良い。
メリハリのないやっている感を演出するための外来種の駆除。予算も付けずに地域性種苗・生物純潔主義という理念理想を掲げての取り組み。
そんなものよりも獣害対策が喫緊の課題だろう。
シカを減らさなければ、土砂浸食による災害、生物多様性、いずれも防ぐことは困難になってゆく一方なのだから。

ー行政の劇場化は税金の無駄遣いにほかなりません。
コロナ禍を含め、国民の多くが芝居がかったことが好きですね。
行政の猿芝居を鑑賞しているだけ。
三文芝居の鑑賞だけならば良いが、感情移入をし主人公になったつもりで動き出すやからが大勢だから問題です。

ー8合目から上はガスがかかってます。予報では天気は良いはずだったのにな~。で、雲切りの術。雲が切れ、お日様が出てきましたよ!おもしろいですね。

・・・

-藤原岳から天狗岩に移動。
天狗岩の方が標高が高いのですが、奥まって眺望が開けないためか、平野・海に近い藤原岳11410mの方が300名山となっています。また、花の100名山としても知られています。

-この地域は鈴鹿国定公園の石灰岩地帯、カルスト地形。中部の秋吉台と呼ばれているのだそうな。
藤原岳は、鈴鹿7マウンテンの一つだそうな。
鈴鹿山脈の主峰の御在所岳を中心に南北に連なる山々が7マウンテン。昔「鈴鹿セブンマウンテン登山大会」というイベントを朝日新聞・名古屋テレビ・近畿日本鉄道などが主催し行っており、それ以降この名が定着したとのこと。
御在所と藤原、2山を踏破、残りは行けるかな~。

-西藤原駅からの登山道9合目より上に福寿草の群落がありました。今が盛りと咲き誇っていました。
綺麗ですね、可愛いですね。
5合目にはヤマザクラが沢山。ここでも花見ができました。

-実は、藤原岳は雲に巻かれたままとなり天狗岩に移動しました。天狗岩も雲の中。
しょうがないので、藤原岳に向かい雲切り。
雲が開き、お日様が差し込み、みるみるうちに視界が開けてゆきました。
で、藤原岳まで戻り景色を堪能しました。

-ウィークデーですが、結構登山者がいました。マスクをかけた登山者に1人も出くわさなかったのが良かったですね。

2021年4月15日 

けふは天気がよさげなので、久々のお山歩へ。高尾山の外周をあるきました。
日影沢⇒城山⇒大垂水峠⇒中沢峠⇒中沢川⇒高尾山口。首都圏自然歩道散策。

-サクラは終盤。花びらが落ちている山道を歩いてきました。
芽吹き・新緑が爽やか。そして様々な草木が花を付けていました。

-圧巻はニリンソウの群落。お花に囲まれてのお茶は美味かった。

-驚いたのは、すれ違う人達の大多数がマスクを付けて歩いていること。
高尾山は人が多いので、静かな山を楽しむためにこのコースを選んだのです。
綺麗な空気、人がいないにもかかわらずマスクを外していない。
急坂を息を切らして登るのだから、酸欠になっているよね。
なんのために山に来ているのかな?不思議、不思議。
病膏肓に入る。

2021年4月15日 · 

先に、666、567、369について投稿しました。
「567についてわかりやすく説明されて」とメッセージをちょうだいしたので、詳細版をお示ししました。

-西洋と東洋・日本は表裏の関係にあるので、獣の数字とされる666も、ことなった解き方をしなければならないのです。666と567は密接な関係があるのです。
567は建設的な意味があるので、コロナ禍を567として用いることは、567を意味するものを潰そうとの呪詛と考えられるのです。
このため、コロナ禍を567と表すことには賛成できないのです。

-ソーシャルディスタンスのための三密回避と、三密という語を使っていますが、これはせめて3密とすべきでしょう。3密という省略言葉もあまり使うべきではないとも思っています。

-FBで何度か記しましたが、三密とは、真言密教修法の基本「三密加持」のことです。
衆生が身に印を結び (身密) 、口に真言を称え (口密) 、心に本尊を観じる (意密)真言を、口で唱えることを「口密」。
この3つを行じることにより、ご本尊と一体となり、「即身成仏」を達成する、と言うものです。

-ソーシャルディスタンス、人と人との距離感を三密と称することは、ご本尊と一体となるという方向とは逆のベクトルであり、これを否定するもの、呪詛になっているのです。

-さらに言うならば、真言宗の開祖、空海は高野山奥の院で入定し、56億7千万年後に現れる弥勒菩薩・未来仏に付き従いこの世界に来生されると言われており、このことから、567をミロクと解しているのです。

-すなわち、末法の切替の後に到来する極楽浄土・天国を567と称しているのです。
コロナ禍を567と表現することは、コロナ禍の後のニューノーマルを極楽浄土・天国とする、肯定するという意味なってしまうのです。

-同様の数字として369があるのですが、ミロクそのものですね。
先にも記しましたが、これを数字の語呂合わせ、遊びとみるか、何らかの意味があるのかとみるのとは、行動に大きな差が生まれると思うのです。

-567を弥勒と解釈するという考え方は、大本など神道系の団体に取り込まれているのですが、そのルーツと思われる説を、私が30年ほど前に公にしたしたという経緯があるので、気になっているのです。
このような言説は一般に流布させるものではないように思われるので、興味のある方に詳細をお示したのです。
結論は、何時もの母性の話になってしまいますが~。
詳細について興味のおありの方はメッセージ頂ければさし上げます。

-で、Tさんから、猶太やQなどの話しが出てきましたので、いつもの縄文以前にまで遡る我が日本の立ち位置などについてお返ししました。それをコピペしておきます。


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2020年4月15日 ·


猶太も日本の一部、同化しています。
太陽の昇る所を目指して出アフリカをした人々がたどり着いたのが日本。

ーアフリカで生まれた元々の人類は母系社会。
母性を中心する親族集団のなかで経験知の蓄積が行われ、子・孫・曾孫・玄孫へと知識・智恵の伝達がなされ、文化・文明の元となる集団脳、集団知が形成されました。
いのちの継承と知識・智恵の継承が行われるようになったのです。

ーそのような人々の一部が海沿いの豊かな自然伝いに日本までやってきたのです。海の民、漁労採取の人々です。
旧石器、新石器の時代のこと。これが縄文文化・文明です。

-もっとも古い土器である縄文土器、これもまたもっとも古い漆などを使いこなし、海を通じ大陸・揚子江文明などともつながる母系の穏やかなネットワーク世界を作っていました。
多神教的、循環という世界観をもつ人々です。

-更に太陽を追い、新大陸まで行った人々がインデアンと呼ばれた人々もいます。
ペルーでは縄文式の土器が見つかっています。
アフリカで生まれた人類の原型を保ち、発展させた人々が日本人の原型といえるのです。

ーこれに対して乾燥地、寒冷地、厳しい環境に向かった人々がいます。
厳しい自然の中で暮らすため、狩猟採取、獣を食べ飼い慣らす人々となりました。
-この人々は、商売の民でもあります。不足するものを手に入れる為の商売ですが、対等ならば取引、弱いものに対しては略奪が効率的です。たちまちのうちに山賊に早変わり。

-このため力を持つリーダーの本に結束する必要が生まれ、組織だった動きを得意とする父系社会となり、一神教・ヒエラルキー社会を作り、次第に大きな組織を造り、記録のための文字を作り足すことになります。
商取引の記録を残すためです。ユダヤ教、そこから基教・回教などが生まれるわけです。

ー気候変動、寒冷化により、乾燥地の人々、北方の人々は、温暖湿潤で豊かな土地への移動を余儀なくされてしまいます。これにより東西世界では、戦乱・文明の交代がおきるわけです。
豊かな土地のものは、組織だった動き、略奪を是とする乾燥地の人々に武力では敵う訳はありません。

ーわが国の場合では、揚子江文明の後継者が押し出されて、海の民・同族を頼り、海を渡り日本へと逃れて来ます。
その中には東遷のユダヤ人も含まれていました。

-九州や中国は、我が国では地方名ですが、元来は支那・中原を示すものです。
かつて、中原を治めていたものが自国の名・地名を移動したと考えられるのです。
和服は呉服、呉の国の服のことでがその一端でしょう。
古き支那の文化の良きところはわが国に移写されているのです。

-これらの人々は乾燥地の人々の文化の影響を受け、父系社会、そして武力、組織力を持つており、わが国にこのような文化を持ち込みました。移動といっても少数であり、縄文女系世界への入り婿といった形で同化して行ったようです。
この辺のいきさつの片鱗は記紀に示されているところです。

-母系を基礎、あるいは1階として、父系が乗っかっているという二重構造です。
かかあ天下、尻にしかれる、上(神)さん、奥、内儀として現在まで残されています。かかあとは、輝くもの、太陽です。

ー我が国は、文明国と言われる国の中で、唯一出アフリカの時代からの母系センスを残す国なのです。また、狭い国土に稠密な人口を抱え、循環型社会を築き平和に暮らしてきたという実績を持つ国なのです。

-しかし、明治以降、西洋文明の浸食により、日本的母性を損なうことに傾注し続け、循環型社会を破壊しまくっているのです。
その結果が、コロナ禍で露わになった、自分の頭で考えない人々の群れなのです。

ー地球上に人があふれた今日、わが国に残された母系的センスを世界に発信し広めてゆくことが必要なのですが、大きく損なわれているのです。
このため、これでよいのかおっかさん。母性よ蘇れ、とさけんでいるのです。

ー観足下。ユダヤだ、Qアノンだなど言わなくとも、足元に鉱脈が眠っているのです。

・・・

漆の活用も最古ですね。
海と川・山を繋ぐ漁労採取の生活様式が土器を生んだという説があります。
魚を食べるためには煮た方がよい。土器に、焼き石を入れることで煮ることができる。

多様な食があり、食が豊かだと、気候変動の影響が少なく、分散して暮らすことで危険回避ができ、争わずに済む。
性善説の社会が成立する。

牧畜と小麦の世界は、焼くことで食べることができる。乳を飲めば良い。
獣を飼い慣らし、使役し統御する術が暮らし。僅かな気候変動が食を圧迫するから移動し、移動先での争いとなる。
性悪説に基づく社会が出来上がる。

ウエットな森と海の文化と、乾燥した砂漠・草原の文化の違いです。

その文化遺伝子が根強く、穏やかな暮らしを保ってきたウエットな世界精神を、争いを当たり前のこととしてきた乾燥世界の精神が侵食し、支配をしている。
争いを好まぬ世界は、争いを自明のものとする世界に飲み込まれてしまうことは自明の理。
闘うことを前提とした思考方法を持っていないのだから、ウエットな性善説社会は、これにあがらう術は持たない。

乾燥世界の精神が世界を席巻してしまった今、移動先・拡散先を失ってしまった。
欧米派と支那派の乾燥世界勢力の2つの亜流が覇権を巡ってせめぎ合うようになった。
兵器が高度化したため、正面からぶつかり合うと共倒れとなってしまう。

このような飽和状態となった世界、地球の上で暮らし続けて行くためには、ウエットな世界の性善説を取り入れなければならない。石炭・石油などのエネルギーを使いこなせるようになったのだから、我良しに走らなければ、総ての人々が豊かに暮らせるようになったのだから。

先進国の中で、唯一ウエットな世界精神、性善説を保ち続けてきた我が国の立ち位置は、乾燥地の2つの性悪説精神に対し、地球の上で持続的な生活を営み続けて行くためには、性善説を優位にすることが大切だということを発信することにある。

旧石器、縄文から続く2万年余りの実績を持つ国だからこそ、言挙げできるのだ。
https://univ-journal.jp/14229/…

日本列島は、特殊な場所だった、ということですね。地質、地理、気象、人。
地質的には、4枚のプレートがせめぎ合うところ。
地理的には、ユーラシア大陸の東端。
気象的には、アジアモンスーンの東端。
人は、太陽を追いかけて日本列島に渡ってきた。
航海技術を持たなければ、日本列島にたどり着くことはできないから、海の民だった。
人類の発祥の地は、アフリカ大地溝帯。

生物の大進化は、地質的に不安定なところ、大地から放射線が漏れ出すところで進んでいる。
人類の進化も大地溝帯であり、そこから世界に拡散し、日本列島にはアフリカで生まれた旧い遺伝子を保ったままの人々がたどり着き、現在まで残っている。
インド、スンダランドの海岸沿いに船をつかい、日本列島にたどり着いたのだろう。
すなわち、航海技術、高度な技術文化を持っていただろう。

同時に、日の出を追いかけ、太陽の昇る地をめがけて、様々な人々が、様々な時代に日本列島にやってきた。
また、気候変動により砂漠の民が南下したため、闘いに敗れた人々、戦乱を避ける人々が、大陸・半島から押し出されるように日本列島に渡ってきた。
戦に破れ、故郷を追われるということの悲哀を知った人々により、支那文化の文物・良き部分が日本に持ちこまれたのだ。

支那の古音のままの漢字、着物(和服)は呉服と称されている。
九州という地名は、支那の中原を指すもの。中国という、そのものの地方名も残っている。
すなわち、旧い、ほんものの中国文化は我が国に残されているのです。

現在の支那は、長江・黄河文明の上に、乾燥地の民が乗っかってできた混合文化。
チャイナドレスといわれているものは満州服だし、現在の支那語はマンダリン(北京官話)と呼ばれているように、満州訛りであることからも理解できる。

日本列島は、アジアモンスーンの東端、四季に恵まれ、高温多雨で落葉広葉樹に覆われており、山・川・海の恵みが豊富であり、食の入手には困ることはなかった。
食を手に入れるためにいのちがけで争う必要はない。
気象災害は多い、地震も多いが、住まいする土地を選ぶならば問題はない。

時が経てば通り過ぎ、元に戻る。
自然現象に対し、恨みつらみを言い立ててもしょうがない。
災い、不幸なことは、総て水に流してしまうことができるのだ。

平和な土地だから、いのちを産みだし育てる者が偉い。
母系制社会が続き、性善説に基づく暮らしを営むことができた。縄文式土器は女性が作ったのではないかといわれている。
最古の漆製品は、櫛だった。

乱を逃れて大陸から逃れてきた人々は、海の民の末裔だったろう。
旧石器時代に列島に渡ってきた人々と同族、長江文明の末裔だったと思われる。
長江文化は、漁労採取の文化であるが、北から南下した砂漠の民と混交し、組織的な動き、男系社会を受け入れた人々だ。

大陸の沿岸地域の人々の中から生まれた考え方が老子道徳経だろう。
神仙方士・徐福は、秦の始皇帝が不老不死の霊薬を求めるのに応じ、はるか東方沖にある神仙の住む島に渡ったとされている。
支那の沿岸に住む者にとって、日本列島は神仙の住む所として認識されていたのだ。

組織力に優れた男系社会を持つ大陸渡来の者が、先住の母系社会と結合し、海の民の母系社会を基礎(一階)とし、大陸系男系社会を基礎の上に乗せる両系・双系社会を形成した。私は、二階建て構造といっている。この姿は、記紀神話の中に残されている。

このようにして形成され人々が日本民族となっていったのだ。人が住みにくいというよりは、世界の何処よりも住みやすい、豊かな土地柄だったといえ、文化的には世界の先進をなすものだったといえる。西欧科学文明により、物質科学では後塵を拝したが、精神文化では世界の先端を走っているといえる。
問題は、その自覚に乏しいことだろう。

笑顔

美しい笑顔の女性が増えると、世の中は天国になる。

中身は大切だけれど、入り口は見掛け・化粧から。
きれいに化粧し、面白くなくとも笑うところから、見掛けから楽しい事は始まる。
そして、続けると本物になって行く。

沢山の美しい笑顔が溢れる世界にしたいね。

緑化を、「緑で化かす」と解き、蔑んだ某生態学者がいた。
自然こそがすばらしいのだ、といいたかったのでしょう。
しかし、蔑んだ先生は厚化粧をしてました。
本音と建て前の乖離です。

言葉(頭・脳)の世界で生きている人は、見た目よりも言葉に騙されます。
言葉よりも、目の前の事実こそが本物です。
言葉で語られた自然よりも、目の前の緑化こそが本物です。

近頃は、自然を叫ぶ人達の間に、自然の中の悪者探しが流行っています。
外来種は、侵略的外来種は悪者だ、として悪者探しをするのです。
そんなことをしていたら、額にしわを寄せ、目が三角になってしまいます。
侵略的外来種と目くじらを立てるより、帰化植物と優しく語れば良いのに、理念を真理として賢しらに叫びます。
格好は良いのですが、世の中をぎくしゃくさせることとなってしまいます。

片目をつぶり、化かし合いを楽しみ、おおらかにしなければ、世界は平和にはなりません。
嬉し楽しの世界にはなりません。

笑顔の絶えない、適当、おおらかな世界にしたいですね。
頭から、はらわたの世界に切り変えると、良い加減の笑顔の絶えない世界になりそうです。


2019年4月17日
 ·

私が興味を持っているのは、すべての健康、トータルな健康についてだ。
年老いたものは、自分の健康のみならず、子々孫々の健康にまでその知恵を用い、目配りをしなければならないと思い、言挙げをしている。

健康とは、自分の足で立って元気に生きて行くことだし、自立自存、自律自尊の個人が、手を取り合って、より面白い、楽しい世界を切り開くことだと思うからだ。
それには、個々人の身体、心の健康から、人の造った組織・社会システムに至るまで、健康・元気であることが必要だ。

なぜ組織・社会システムの健康までなのか。
それは、人は、人間と称すように、社会的な動物だからだ。
その様に進化してきたからだ。
組織・社会システムを離れては、健康な生活、幸せはないと思うからだ。
幸せ=仕合わせ、他の人と力を会わせて物事を成し遂げること、その達成感こそが仕合わせということだと思うからだ。

仙人のように俗界を離れた孤高の幸せでは意味がないと思うのだ。
また、1%の富めるもののみが健康であっても意味が無いと思うのだ。
種としての健康ということに目を向けなければならないのだ。
さすれば、新たな種としての進化が可能となるだろう。

人は、集団として暮らすように進化して来た種なのだから、集団・組織・社会システムの進化を探るということは、当然のことといえるだろう。
このため、
生まれる以前、出産、生まれた後、子々孫々の健康についてまで、
私たちが健康に生きて行くための仕組み、そして、それを取り巻く組織・社会システムのあり方、その未来まで、
その総てに対し目配りする必要があるのだ。

個人の健康は、社会を形づくるための基礎。
個々人が自立自存尊の生活をおくり、その上で組織・社会システムがキチッと機能するならば、快適な生活をおくることが出来る。

しかし、組織・社会システムは、両刃の剣。
便利なものだが、そのメンテナンスを怠るならば、その刃は我が身に返ってくる。
このため、組織・社会システムの健康管理をキチッと行い続けなければならないのだ。

健康管理のためのモデルは、私たちが進化してきた環境=自然の循環、永遠のいのちの継続としなければならないだろう。

私見では、昔の女性は偉かった。
このような健康観を持ち、暮らし、そのセンスを子ども達に伝えてきた。
家の経営者、いのちを繋ぐ者としての自覚を持ち、子を育て、そして男を造ってきた。

これを母性と称している。

皆が健康で元気に暮らし続けるためには、母性、いのちの継承というものを真ん中に据えた組織・社会システムの構築に取りかからなければならないのだ。そこで、母性の復活・復権を唱えているのです。

錦織法子 2015年4月17日 ·

中野裕司さんが私の投稿にコメントしてくださいました。
いつも見事な切り口で、現状を表現してくださる。
私の投稿のコメントに埋もれてしまうのがもったいなくて、
どうしたらよいのか…と思ってきましたが、貼りつけてしまえ!!
と、いうこと…にしました。

以下、中野裕司さんのコメントです。ーーー

自分の健康は自ら守るもの、家族の健康もまた同じ。

しかし、いつの間にか、また、それが便利で儲かる人たちがいたから、自分の、家族の健康はすべて医療に外注する、経費は健康保険でまかなう、それ以上の負担にも耐え得るよう保険会社に積み立てておく、という人任せを横行させてしまった。
そのような社会システムの構築を許してしまった。

根本は、政治的無関心にあり、仕組みを造ることにより利益を得る人たちを野放しにしてきたことにあるのだろう。

国の方針がそのような方向を向いているものだから、学校でもそのような福祉に頼ることが正しいと教えてしまい、それを信じた人が大半になったところから、医療制度の崩壊が始まった。

高コスト社会、税金値上げの到来だ。

医療制度そのものが、ある程度、自らの健康は自らの手で守るという気概を持った人がいるということを前提とし設計していたのだろう。
しかし、そのような含みがあることを忘れ、極端に走り始め、すべて医療におんぶに抱っことすることが当たり前となったため、システムの容量オーバーとなってしまった。
そして、本末転倒、自分の生命を自分が管理するのではなく、他人が健康・生命維持の面倒を見なければならない時代になってしまった。

当然のことながら、現場にそのしわ寄せが行く。

まして悪いのは、管理のための書類、書類のための書類が増えて行くことだろう。
現場よりも管理者の方が数が多い、二重三重に管理するという仕組みもまた本末転倒に拍車をかけている。
制度疲労という言葉で片付けしまうのは簡単だが、制度の末端で働いている人はそれではすまぬ。
大きな流れのなかで諦めるのではなく、根本・本質から替えるためのアクションが必要な時期に来ているのだろう。
このような声が量となり、飽和状態に達し、質への転換となることを期待している。

2015/11/28 FB より

国を栄えさせるためには 人材・人財を育成することが大切。
人材が財産。
そのことについては同意するが、しかし、この記事は何か違う。
教育費を無償とし、公平な教育を受けさせることが、人材確保のポイントとしている様だ。

何か違うという点について、いつもの悪い癖、大きな観点から俯瞰し論じてみよう。
何かとは、教育の目的と志という点だ。
そんな事は分かっているよ。
青臭いことをグズグズ言うなとの声が聞こえてきそうですが・・・。

公平以前の問題をぶつぶつと。

・・・・・

我が国の大昔の学問は、芸。
芸を磨き、伝えるものとして学問を行った。
家学としての学問、それを教伝と言う形で、教え伝え、磨いていった。
厳しいものではあったろうが、学び深める楽しみがあった。

もっと大昔、野山・川海からの採取により糧を得ていた縄文の時代は、農業を行う時代よりも余暇時間が多く、その余裕時間を土器や土偶などを作る事に当てたのではないかとの説がある。
その主体は女性であった。
土器・土偶は、土と水と火を使った、セラミック造り、最初の科学といえる。
自然観察と様々な試行錯誤と工夫の積み重ねによりその技術を会得しし、子供達に伝え、洗練させていったのだろう。
そこには、創意工夫と発見の楽しみがあったのだろう。
我が国の物造り、学の原点と言える。
その伝統が、紫式部、清少納言などと言う才女を生み出した。

仏需の学問が入って、学問は男のものとなったが、女は女としての学びの姿勢は残されたものと思う。

そのような伝統のもと、江戸期に学問・教育が隆盛となった。
武士の学問は、修身斉家治国平天下。
武を武道に高めつつ、修身斉家を学び、教養としたのだ。
そして、故郷を隆盛に導いた。
郷土の伝統的な産業は、このような考えを持つ人々により造られていった。

自藩を守り、発展させるための学問であり、それを儒教に求めた。
表は理学である朱子学を学び、裏では、実践を解く陽明学を学んだ。
そして、これが洋学を学ぶ基礎となった。
幕末には、西洋に対するコンプレックスなどはなく、オランダ語を習得し、オランダ語が役に立たないとしるやずくさま英語へと切り替え、必要とすることは積極的に習得した。
その知的欲求はすさまじいものがあった。
それを、母が支えた。

(現在は、子どもの頃から米欧、諸外国に対する贖罪意識とコンプレックスを無意識下に植え付けられるために、英語を始めとする語学学習の障害になり、語学を生理的に受け付けない状態としているように思える。
それでいて、小学校から英語学習をせよ、というのだから本末転倒。
自国に対する揺るぎの無い自信を植え付け、他国を飲み込むほどの気概を持たせるならば、語学の問題は片付くだろう。
幕末の洋学ブームは、まさにそれであった。
不十分な語学ではあったのだろうが、志と気概により西洋人を圧倒した。)

江戸期には、民衆の間に読み書きそろばんという実学が拡がった。
また、石門心学などにより道徳が教えられた。
学びの場として寺子屋が隆盛となった。
寺子屋は、男のみならず女も通い、手習いの先生の1/3は女であったと言われている。
明治を支えたのは、武士階級のみではなく、これら実学を修めた多くの民衆であった。

江戸の平安の時代、武士も民衆も、実際に使える知識を求めると共に、知的な興味、知りたいという衝動に溢れていたものと思える。
幕末、明治初期に我が国を訪れた欧米の人々は、皆、庶民の識字率、知的レベルの高さに驚き、記している。
否、戦国時代に布教に来たバテレン・宣教師は、異口同音、知的レベルが高く、日本での布教は大変だとバチカンに報告している。

日本人の遺伝子には、知識の旺盛な吸収欲というものが埋め込まれていると思うのだ。

明治に入ると、江戸期の知的財産をベースに西洋科学を吸収し、富国強兵を国策とした。
武道・儒教的センスの上に、洋学を接ぎ木した。
和魂洋才だ。
これは、成功を納めた。
瞬く間に洋学・技術をマスターし、世界の大国にのし上がった。
知的な底力と、道徳力、胆力の賜であった。

その一方、薩長の藩閥による要職の独占に歯止めをかけるため、義務教育が導入された。
新たなタイプの科挙と言える。
知識を詰め込んだ秀才が、官僚となり国の舵取りをするシステムだ。
また、つよい軍隊を造るため、工業化の推進ため、生まれ・身分、及び、地方差をなくし、平均的な人材を造ることを目的としたものである。
これは、故郷人(藩に属す人)から、日本人・国民への切り替えでもあった。

義務教育の最初は、国の予算は乏しく、各地の篤志家が土地を提供し、拠金し、小学校を造った。
地域の識者が先生を務めた。
各地に藩校というモデルもあった。
郷土のためになる、郷土経営をし盛んとする人材造るため、力を、財を出すことは惜しまなかった。
郷土を愛し、郷土の延長上の国造りをする事のできる人材の育成であった。
故郷を出ても、錦に御旗を立てて帰ることを理想とした。
理念・理想の国ではなく、郷土の延長にある、地に足のついた国である。
これにより、力を出し切り没落した地域の名家、資産家もあった。

しかし、このような学校は、政府の統制により郷土色を失い、お国のために働く、工業社会に馴染む均一な人材づくりの場となっていった。
このような教育の中より選抜された知的な訓練のみに偏るエリート達が、天皇を神とする神国日本という理念の元に、国の運営を始める。
その結果が、大東亜戦争と敗戦である。
国の運営を誤るのである。

米国による長期にわたる様々な謀略により、戦いに引きずり込まれたのではあるが、安易にその謀略に乗ったのは、知識偏重のエリートの放漫さ、ガードの甘さに真因を求めることができるのだろう。
また、知的エリートの総ては、欧米に留学をしており、洗脳的教育やハニートラップなどを含めたインテリジェンスの餌食となり、欧米崇拝におちいり、国内で優越感を持ちつつ、劣等感ももったのだろう。
このような人々が国家経営を行うのだから、その劣等感が民衆にも広がり、潜在意識に植え込まれていったものと考えられる。
幕末・明治初期の志を持ち、対等に掛け合ったという伝統が廃れ、劣等感が植え付けられてしまった。

エリートの知識偏重、欧米崇拝に対し、庶民には、縄文から積み重ねられ、江戸時代に築き完成を見た道徳・美徳が根付いており、これが国の底力となり、明治以降70年余りの総力戦を戦い、耐え抜いた。
それは、母性的なパワーに下支えされたものと、私は思うのだ。

国家経営に当たるエリートの力量は見切っていた米国だが、その技術力と国民皆兵、庶民兵の猛烈、強烈な戦い方に畏れをなした米国は、敗戦により、二度と日本を大国の位置に登らせないため、日本魂を抜き去るものとした。
男のチンチンを取ってしまうのである。
それを、WGIP(ウオーギルトインフォメーションプログラム)と称している。
これまでと異なった富国挙兵とは逆コースの教育・洗脳である。

(この敗戦後の日本占領政策が大成功したことにより、その後の米国の海外戦略を決定づけた。
諸外国の総てが、日本のように力で占領し、洗脳することによって問題解決できるということが基本的な戦略となった。
これは、素直に御上に従うことが平和解決の道という日本的道徳の賜から生まれた特殊現象であることに気がつかないから、ベトナム、中東における戦争は、極致戦で勝っても民衆を治めることができず、混乱を後に残すものとなってしまった。
ジャスミン革命なども同じだろう。
米国の占領も、新たな八百万の神がやってきたという日本的感覚と、一神教的なセンスの差である。)

ここで、あえて洗脳といったのは、米国は意識して日本人に対し優勢学的な見地に基づく精神的な手術を行ったからである。
精神改造を行うため、あらかじめ日本に関する情報を集め、分析し、用意周到に取りかかったのだ。
日本学というものは、基教を日本に布教するためにはじめられたものだが、米国の日本学は、日本人を精神改造するために研究したことが始まりだ。
あろう事か、敗戦後、GHQのWGIPに積極的に協力した。
協力したのは、日本国の官僚とマスコミ、進歩的?知識人である。
エリートと称される人々である。

GHQは、戦争犯罪者を日本陸軍と決めつけ、処罰した。
協同謀議により、平和に対する罪、人道に対する罪を侵したという罪状だ。
なぜか、海軍は解体されたが、海軍からはA級戦犯として処罰されたものはいない。
リメンバーパルハーバー、が米国が戦争に踏み切る切っ掛けとなったわけだし、GHQは、大東亜戦争という我が国の名称は認めず、太平洋戦争としたわけだから、海軍こそが処罰の対象となるべきものと考えられる。
ここに、歴史の闇がありそうだが、ここでは触れない。

官僚とは、権力者に従い、その意志を代行し実施する集団。
天皇から、マッカーサー、米国へと権力が移っただけのこと。
八百万の神に一柱増えただけのこと。

マッカーサー、米国も、日本国民をトラブルなく納めるためには、官僚組織を温存し、そのまま使う事が効率的だから、官僚組織の上に新たな為政者・神として乗っかった。
これを、新たな幕府が開設されたと唱える人もいる。
現在も、この米幕府はそのまま続き、日本国は米幕府の占領下に置かれたままと言える。

話しを拡散させたようだが、現代教育の淵源はここに求めることができる。
GHQにより温存された官僚組織は、GHQの権力を背景に、敗戦前よりも更に統制を強めていった。
戦時下の体制をソフト化したものの、戦争による疲弊から立ち上がるためと称し、更に統制を強化したのだ。
名目は、国の再生・復興。その通り、しかし、そのため統制が更に強化され、現在まで続いている。

教育の問題もしかり。
敗戦前は、私学の設立は比較的容易であった。
そこでは、まだ、特徴のある人材を育てることが可能であった。
しかし、戦後は、一定の設備要件を満たさないと、新たな学校は開設できなくなった。
また、文科省の助成無しに、私学の運営ができないようにしてしまった。

学習教材、すなわち教科書は検定と称する手続きにより、一様に均され、生まれた国を貶める洗脳教育を行うアイテムとなっている。
学習時間がだんだん少なくなり、ゆとり教育などが実施され、地理・生物・地学など、実学的な面をもつ学科がどんどん削られ、地に足がつかない子供達を造り出している。

実学、自然・地に足のつく教育、身体で理解できる教育をしなければ、抽象的なことを教えても理解はできないのだ。
知識を減ずるだけでなく、知識を身につかないようにするためのカリキュラムとしている。
子供達を育てるという教育を通じ、WGIPという洗脳がこの70年間持続され、強化されてきたのだ。

これにより、親の教育権が奪われている。
親の教育権は、憲法以前の権利。
その大切な権利が奪われ、義務教育にすり替えられているのだが、問題にすることが無い。

考えてみるが良い、松下村塾のような設備のないところから、吉田松陰の感化力で多くの人材が輩出し、時代が変わったのだ。
このような現象は、松陰だけではなく、全国各地の私塾で人財を輩出させていたからこそ生まれたのだ。
教育は、設備ではなく、育てようという人の感化力と、育つ側の気概の問題なのだ。

現在の教育制度は、教育者の感化力を奪い、教えを請う子供達の気概を殺ぐ事ばかりを行っている。
学問の面白さを伝えるのではなく、出世のための手段としてのみ伝えている。
しかも、出世ということを経済的成功というものに矮小化している。
出世とは国のため、人のために役立つ人というものであるはずだが、己が経済的に楽に暮らすことができるよう、良い大学に入り、良い会社に入るというものだ、と世を挙げ洗脳している。
母親までもが、教育ママ、モンスターペアレントと化し、子どもの、社会の健全な未来を奪うことに腐心している。

これでは、子供達は授業がつまらなくなるのは当たり前。
教育が成り立たなくなり、学級崩壊に至るのは当たり前だろう。
生きることに対する意味を見いだせなくなり、無気力になるのが当たり前だろう。
人間は、自分のためだけに生きて行くことはできない。
集団で暮らす動物だから、他者から認められることなく生きて行くことはできないのだ。

このような、偏った教育システムに素直に従うことができる従順な子どもが成績が良いとされ、疑問をもつ元気なものは阻害され、アウトローになって行く。
そして、本来ならば笑い話となってしまうような事が当たり前となってしまっている。

それは、義務教育では偏差値を上げることはできず、良い大学には受からないから、義務教育の他に塾へ通うことが必要ということだ。
そして、子供達は塾の方が楽しい、ためになると言い出す始末。
傍から見ていたら漫才だが、皆、本気で一生懸命だ。

義務教育は百害あって一利無しという状態となってしまったのだから、潰せば良い、税金を払わなければ良いのだが、一端でき上がった制度は潰すことはできず、税金は給料から天引きされてしまうから、抵抗できない。

また、現行の教育制度は、神であり、権力者である米親分のもくろみ通りに進んでいるから、米親分にとっては、すこぶる成績優秀なシステムであり、さらに磨きをかけ持続させなければならないものになっているのだろう。
今の教師は教育目的を果たしていると言う点で、成績優秀と言える。

しかし、子供達に取ってはよけいなお節介、迷惑きわまりない存在。
我が国の将来を危うくする存在となっているのだが、教育要領というマニュアルに従っているだけなのだから・・・。
先生達は、このような事を続けていたのでは、人格に変調をきたしてしまうことだろう。
これを逃れるためには、日本人であることを捨てなければならなくなる。
そのために都合が良いのが世界一家、共産主義、グローバリズムだ。
国境をなくしてしまえば問題は解決する。

子どもを学校に通わせたことのある親達は、このような状態に疑問を持たないのだろうか?
残念ながら、疑問を持ったとしても、義務教育を否定する事は、法律違反となり罰則が適用される。
また、義務教育を否定し、家庭教育をするだけの財力も時間もないのが実際だ。
従って、財力のあるものと、ないものの教育較差が広がり、格差社会が嫌が上でも展開することとなる。
昔は、勉学に励むことが立身出世の道であり、頭のよい子は郷土の誉れとして奨学金を出し合い、上級の学校へと送り込んだが、今や、そのような道も閉ざされてしまい、教育格差が経済格差に直結する時代となったのである。

教育は、このような歪んだ社会で生き残るための手段と化し、塾に通い、有名大学に入り、良い会社に入るための手練手管を覚える場としてしまった。

このような状態で、記事に示されているように学費を無料にして、教育を受ける機会を平等にする事により人材・人財を育てることができるということは、不可能である。
教育の目的が正しい方向を向き、子どけも達の率先模範・師匠となる教育者が存在し、子供達の志を高めることができる人材・人財がいてこそ、教育を受ける機会均等というシステムが生きるのだ。

否、勉学、学問をしたいと言う志を植え付けるならば、否が応でも教育を受けるための機会を求めるのだ。
そのような志を持つ者を支援する仕組みさえ造れば良いのだ。
その志を誰が植え付けるのか、そこが思案のしどころなのだろう。

教育システムが、子供達を損なう方向を向いている場合、学費を無料として、教育を受ける機会を平等にすると言うことは、現在の統制・洗脳をさらに強化し、気力のない子ども達を大量に造り出すということになるのだと言う事について考える必要がある。

日本人の遺伝子には、学ぶという事がしっかりと刻まれている。
この良き遺伝子が、教育統制により著しく傷つけられている。
現在の教育のあり方について、表面のみ、部分のみではなく、全体、及び根っ子の部分まで掘り下げて確認し考える必要がある。

いつもの台詞となるが、総てが同じ土壌から生まれているのだ。
その土壌が、根っ子には触れさせまいと言う部分最適の繰り返しと、自己家畜化に向かう人々を造り出している。

いつものツッコミ所が沢山ある意見です。
いろいろツッコミ、考えてみてください。
私の屁理屈はともかく、教育が、社会がおかしくなっているということは、皆さんが感じていることと思います。

子々孫々に、子々孫々が、元気で心豊かな生活ができる故郷を引き渡すためにどのようにしたらよいのでしょうか。

西田さんのシェアをシェア。

2015/11/28 FB投稿より

またまたの悪い癖。
錦織さんのスレッドに、長い書込。
記録のため、転載。
・・・・・
昔からこのようだったのか、近頃このようになったのか?
動物などの行動が、調和的という動画・画像が目につき来ます。
弱肉強食というイメージは、植え付けられたもの?
人間の弱肉強食という行動が投影されたもの?
そのような気が募って行く。
これが、進化ならば、人間様の世界にも起きて欲しい。
・・・・・
鬼塚さんから、同感の意見。
・・・・・
錦織さんから、
感覚器からの感覚が進化を進めるのでしようから、感覚器を怠けさせる品々にどっぷり浸かっていると難しいのでしようね。
・・・・・
そして、進化という問題についてブツブツと。

共感、感応する力が進化の原動力だと思います。
進化は、個ではなく、種がなるべくして成るという今西流の進化の仕方があるのでしょう。
今の進化学では、進化の原動力・仕組みが不明です。
しかし、細胞レベルでの情報交換、共感とも思える相互作用により秩序が作られ組織化されることがわかっています。互いに察知し合うのです。
細胞が寄り集まって、別の階層のもの、組織が生まれて行くのです。
構成要素は同じ細胞なのですが、分化し役割分担が決まって行くのです。
細胞レベルでさえ、相互に影響を与え合い、変化して行くのですから、私は、種だけでなく、他の種も含めた共感による共進化が、進化の本質だと思っています。

他の種、生き物の間に、この画像に示されるような融和的な進化?が発生しているとするのならば、いずれ、人間様の世界にも起きてくると言う期待を感じます。

生命は、始原の一つの細胞の別れ。
深い所でつながり、共感しているものと思います。
このような姿が、今、種を超えた生き物の交流に現れているのでしょう。

科学では、未だ捕まえきれない世界があるのでしょう。
弱肉強食と見えるものも、己を己に捧げ、新たな生命を産むための行為、循環のための行為と見ると、まったく異なった世界がみえてきます。
生命の本質は、エネルギーの循環、同じものなのですから。

産(生)まれることと死の様相・表情、性と苦の様相・表情が相似であることもその現れなのでしょう。
同じものが位相を少し変えただけということなのでしょう。
そこには、苦楽共に同じものという超宗教的な世界が広がっています。

しかし、己のためという我良しの強固な信念が、楽に、効率的に富を得る、独占するという信念が、共感力を損なわせています。
個我を超えた共感力、超宗教的な世界への肉薄、自然との共生を妨げています。

しかし、一方で、精神世界の教えでは、今、必要としている事のみ眼前に出現する、宿題として現れる。
という、原則があるとされています。

このような観点から見るならば、今、進化の道程として、一神教的、大脳的、我良しの世界観を克服するという問題が示され、臨界の時となっているとも理解出来ます。

その先に待っている世界を、この画像に示されている生き物たちが見せてくれているのかもしれません。

今、それぞれの置かれている立場で眼前に見えている、一神教的な世界に住む人々が演じ、示している我良の世界という問題、これに気がついたならば、その解決に向けて立ち向かわなければならないのでしょう。
この問題に気づいた人々が、これを解決する使命を与えれたらと思う必要があるのでしょう。

そして、私は、その解決の糸口が日本的母性への復帰にあると思っている訳なのです。
マリア信仰を始め、地母神、母性に対する信仰は世界中に残されているわけですが、脈々と息づいているのは、日本だと思うからです。

一神教的科学文明、男性原理の文明を母性原理が包み込み、融合するとき、分別する事による科学ではなく、共感力を主とする本物の科学、総合・統合の科学が完成し、進化の螺旋階段を一つ登る事ができると思うのです。

大問題、眼前の大きな障害こそが進化の原動力。
大勢の人がそれに気づき、意識に上らせたとき、真に共感しあったとき、変わるべくして変わる。
量か質に変わると確信し、そのための、種、ばい菌となれたら、と思って発信しているのです。